教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第19章 沖縄県dの政治(上)②
2.県政の始まりのつまづき
【解説】
新県庁での行政が始まった際の混乱を記しているが、「2」だけではあまりにも面白くないので、切れ目を変えて、「3」の冒頭の部分を後ろにつけた。
頑固党の連中なのか、恥も外聞もなくいやらしい抵抗をする姿は、改革を拒む保守派の中には必ず幾許かはみられるものだが、琉球王国で農民たちから収奪しまくっていた連中が、現状維持を画策するとは、全く許し難い話ではないか。
明治維新に問題があったことはもちろん否定しないが、あくまでもそれは令和の今から見た評価であって、維新に命をかけた人々が、自分たちの地位や名誉を擲ってでも、日本の将来のために国に、そして国民に尽くしたことは、大いに評価して然るべきだ。
その人々が、因循姑息な連中に対峙すればどのようになるか。わかりきった話ではないか。それを沖縄左翼は悲劇に仕立て上げるが、馬鹿も休み休み言え。
初代県令鍋島直彬の情報を若干書き加えた。あとは例によって、文章の交通整理だ。
【本文】
明治12年5月、初代県令として子爵鍋島直彬(なべしまなおよし)が着任しました。鍋島は元肥前国鹿島藩主という、いわば大物で、政府も沖縄の改革を重視していたことが伺えます。鍋島は那覇西町にあった県庁で、旧政庁からの事務の引き継ぎを終え、いよいよ新しい行政がはじまりました。
県庁には県令以下、書記官、属官(中級公務員)、警察官等あわせて122人、雇(下級職員)、小使(用務員)など入れても、旧政庁よりはるかに少い小規模で簡素な組織でした。この内、沖縄県出身の者はわずか24人で、あとはすべて他県人です。鍋島の出身地である現在の佐賀県から来た人が要職に就きました。
鍋島は着任すると同時に、政府の方針に従って、沖縄の今までの慣習を引き継ぐ「旧慣温存」を表明しました。そして今までの学校をつづけることを命じると共に、さらに新しく小学校を開いて、初等教育に力を入れました。また、産業開発を進めていきました。
全県は国頭、中頭、首里、那覇、鳥尻、宮古、八重山の8地方に分けられ、各地方に役所をおいて、各間切(島)の役人を指導、監督させました。
中頭と首里、那覇と島尻は一人の役所長が兼任しました。
鍋島県令は三司官をはじめ、旧政庁の役人に対し、県の官吏になるようにすすめたのですが、彼らはこれを断り、毎日、中城お殿(元の王世子の住宅)に集まり、コソコソと何事か協議を続けていたのです。
首里、那覇の士族で、この連中と袂を分ち、すすんで県の官吏になった人も数人いました。しかし、これまで、租税や刑罰などの事務をとっていた人がいなかったので、県庁の事務は滞りました。
一方、各間切の吏員も、旧政庁の人を恐れ、一種の怠業のようになってしまっていいました。
鍋島県令は、麻痺して行き詰まってしまった状態を打破し、何とかして活性化するようにと焦燥感を覚え、部下を派遣して説得も試みましたが、何ともなりませんでした。