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なにわの近現代史PartⅡ② 大阪会議と花外楼

 明治7(1874)年12 月26日、表向きは太閤秀吉ゆかりの名湯・有馬温泉で静養するということで、大久保利通が来阪しました。しかし大久保は有馬へは向かわず、大阪港から、今の靱公園内にあった五代友厚邸に直行しました。
 征韓論争をきっかけに起こった明治6年の政変は、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らの下野を招き、大久保の立場を微妙なものにしていました。江藤は佐賀で挙兵して政府に反抗し、政府軍に鎮圧されましたが、鹿児島に引きこもった西郷の動きも気になります。さらに、清国との間の、琉球の帰属問題に絡む台湾出兵では、大久保自ら北京に渡って事態収集に奔走しましたが、強攻外交を批判した木戸孝允が下野し、大久保は四面楚歌の状態に追い込まれていました。
 そこで大久保は、政権安定のために、木戸と板垣を政府に呼び戻すことを考え、伊藤博文と大阪にいた井上馨、五代がその仲介に立ったのです。つまり、三巨頭を会談させ、木戸、板垣の政府復帰を図るのが、世に言う大阪会議の目的です。
 板垣が来阪する前に、大久保は木戸との間に、事前に話し合っておこうと考えました。当時京都に住んでいた木戸は、伊藤と井上の要請に応じて、翌明治8年1月8日に来阪し、大久保と会見しました。そこには、薩摩の黒田清隆も同席していました。大久保と木戸の和解は、薩摩と長州の手打ちの意味もあったのです。
 大久保は「政府に復帰してほしい」と10時間にわたってくどき続けたのですが、木戸はなかなか首を縦に振りません。しびれを切らした黒田が、泥酔して暴れだし、木戸は怒って京都へ帰ってしまう始末です。慌てた大久保は、伊藤を伝書鳩のように使って京都と大阪を往復させ、木戸の言い分を丸呑みする、という条件で、ようやく政府復帰を内諾させたのです。
 2月21 日、ようやくやってきた板垣、さらには伊藤、井上を交えて、明治政府の大物5人は料亭「加賀伊」で会談しました。この席上、約束通り木戸の意見が容れられ、「元老院の設置(立法権の確立) 」、「大審院の設置(司法権)の確立)」、「太政大臣、左大臣、右大臣、参議によって構成される正院と各省を分離し、大臣や参議が各省の長官(卿) を兼任させない」という改革案が決定しました。そして木戸と板垣は政府復帰を承諾しました。木戸は会議の成果にご満悦で、記念として自ら筆を執って「花外楼」と大書
し、以後「加賀伊」は「花外楼」と屋号を変えました。
 大阪会議の決定を受けて、明治天皇より「漸次立憲政体樹立の詔」が出されました。しかし、その後の大久保の施策に反感を持った板垣と木戸は再び下野しました。特に板垣の下野は自由民権運動に拍車をかけました。そして、漸進的な立憲化をめざす政府と、急進的にそれを求める運動家の間で、激しい衝突が起こるのです。
 大阪を舞台に行われた巨頭会議の結果は、すんなりと民主化を実現したものではありませんでしたが、明治初年の政治の流れを方向付けた重要な出来事です。
 歴史を目撃した「花外楼」は、今も中央区北浜で営業しています。

連載第54 回/平成11年4月28日掲載

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