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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第19章 沖縄県の政治(上)⑤

5.土地整理と税法改正

【解説】
 制度を改めると、既得権益を持っている者の中には、損をすると思う者も出てくる。あるいは、制度上曖昧な位置に立っていた者は、そこから排除される場合もある。概ね、そういう輩は、制度改革に恨み骨髄だ。沖縄でもそうだし、日本のおかげで近代化を果たせた朝鮮も同じだ。そして、槍玉に上がるのは土地改革だ。
 明治維新の時もそうだが、混乱の後に土地の所有権を確定することは難しいことが多い。明治政府は今回語られる沖縄と同様に、耕作者を土地の所有者とした。つまり、小作人を無くしたのだ。しかし、小作人だった者は、税の金納を嫌がり(つまり、近代化を拒否したということだ)、一升瓶を下げて地主の家に行き、頭を下げて土地をもらってくれと頼み、また自ら小作に戻ったのだ。その子孫が数十年後に小作争議を起こしたりするわけだが、自分の境遇については、自分たちの先祖の不明を責めるべきだった。
 朝鮮の場合、李朝の政府が全く何もコントロールできていなかったところに、日本による近代化がやってきた。日本政府は複雑な権利関係を解きほぐし、それを解決する。勝った側は喜ぶが、負けた側は「日帝に土地を奪われた」という。また、権利関係が証明できなければ国有地となる。権利もないのに所有権を主張していた連中も同じことを言う。何でも日帝のせいにすれば良い。薩摩がー、ヤマトーんちゅがーというのは、それと同じ。
 愚か者の歴史である。
 翻って現代、沖縄の米軍基地(いわゆる軍用地)の土地所有者の関係も、結構大変なようだ。戦争中に書類が消失しているので、言ったもん勝ちの状態で、基地内の土地の所有権を主張し、その権利で飯を食っている人がたくさんいるという。職業左翼がいうように、米軍基地を無くせばどうなるか。土地の権利に関する壮大かつチンケな争いが狂想曲をなすこと間違いない。だから反米主義者以外、特に軍用地の地権を持つ者は、誰も本気で、米軍基地を無くそうなどとは考えていない。沖縄経済が米軍で成り立っているのは、まともな人ならみんな知っている。昔、知花某と言う軍用地地主が、自分の土地にある米軍通信施設・通称「象の檻」を撤去して返還を求めるとか何とか言って、左翼メディアに持ち上げられたことがあった。この男は、土地の権利を返せと修学旅行生に向かってアジる一方で、妻名義の軍用地の返還は求めなかったという話も聞く。まぁ、そんなもんだ。
 そして、150年前の沖縄の土地改革。ウチナーンチュである仲原は大いに評価している。そして、その実施の遅れを批判している。
 そりゃそうだろう。近代的な行政を行うならば、旧制度を温存させてはいけないのだから。しかし、明治政府の中途半端がいけなかった。やるならば徹底的にやっておけばよかったのに、農民に恨まれている旧支配者層を利用しようというのは現実的に見えたのかもしれないが、後に禍根を残すことになるのだ。
 原文にある土地整理と税法改正の利益についての説明には、少し説得力に欠けるところがあるので、箇条書きをやめて整理した。
 
【本文】 
 土地制度の改革のことを、土地整理といいます。そして、それこそが、旧制度を打破する最も根本的な改革です。
 「土地をもたない沖繩の農民は、ほとんど租税を作るために、官の土地をたがやしている奴隷であった」と言われています。そんな制度を明治の半ばまで改革しなかったことは、それだけ、沖繩の進歩、発達を遅らせたということになります。
 明治30年末から県庁内に委員会が設けられ、準備をととのえた上で、32年から土地の測量をはじめ、36年に土地の所有者を決定しました。奈良原知事の下で、その計画、調査の中心となって働いたのは県職員の仲吉朝助(なかよし・ちょうじょ。後に沖縄県農工銀行頭取、県議会議長、首里市長)や謝花昇らです。
 農地をすべて、現在耕作している者の所有としたので、農民はすべて土地所有者となり、今まで、土地の付属物でしかなかった百姓が地主となったわけです。ここに、沖縄の農民ははじめて解放され、自分の権利を行うと同時に、義務を負担する人格をとりもどしたわけです。自分が耕している土地が、自分のものとなったので、人々は自然と土地を愛するようになり、深耕し、肥料を施し、良い土地にしようと努力するようになりました。
 また、所有権の移転も盛んに行われるようになり、自分の土地を担保にしたり、あるいは売却することで、まとまった金を作り、子弟の教育、海外移住、転業というようなことも多くなりました。
 この改革こそは、沖繩の歴史の上で、もっとも輝かしい事業のひとつといえます。
 また税法の改正も続いて行われました。税はこれまでほとんど、農村の百姓だけが負担していました。しかも、砂糖、米穀、反布などを現物で取るから、税が重い上に様々な不便がありましたが、これを金納にすることで、国税はこれまでよりもはるかに安くなりました。
 このふたつの制度の改正によって、数百年のもの間、希望のない暗い生活をおくっていた沖縄の農民の上にも、ようやく春の光がさして来ました。農村の進歩をさまたげていた障害物が取り去られたので、農民は今までとちがって、自分の力を十分に伸ばすことができるようになったのです。

【問題】
1.沖縄において、諸制度の改革が遅れたのはなぜでしょうか。
2.明治政府が、農村の役人をすべて、もとのままにしておいたのはなぜでしょうか。
3.租税を現物で納めさせることのデメリットは何でしょうか。

【原文】
五、土地整理と税法改正
 土地制度の改革を、ふつう土地整理といいます。
これこそは、もっとも根本的の改革です。
    土地をもたない「沖繩の農民は、ほとんど租税を作るために、官の    
   土地をたがやしている奴隷」であったと政府の官吏もいっています。  
   かような悪制度をこの時まで改革しなかったことは、それだけ、沖繩 
   の進歩発達をおくらした(ママ)ことになります。
 明治三十年末から県庁内に委員会がもうけられ、準備をととのえ、三十二年から、土地の測量をやり、三十六年にそれぞれ所有者を決定しました。農地はすべて、現在たがやしている者の所有としたので、はたらく農民はすべて土地所有者となり、今まで、土地の付属物でしかなかった人間が、ぎゃくに(ママ)、土地の主人となったわけです。農民は、はじめて解放され、自分の権利を行うと同時に、義務をふたんする人格をとりもどしたわけです。
この改革こそは、沖繩の歴史の上で、もっともかがやかしい事業の一つです。
    奈良原知事の下で、そのけいかく、調査の中心となってはたらいた 
   のは仲吉朝助で謝花も委員としてはたらいたが、かいこん問題で知事
   と対立していたことは後で述べます。
 税法の改正もつづいて行われました。税はこれまでほとんど、農村の百姓だけがふたんし、砂糖、米穀、反布その他を現物で取るから、税がおもい上にいろいろの不便がありました。
 この二つの制度の改正によって、数百年のあいだ、希望のないくらい生活をおくっていた人、の上にも、ようやく、春の光がさして来ました。
土地整理と税法改正の結果はどのような利益をもたらしたか。
 第一、自分がたがやしている土地は、自分のものだから、自然と土地を愛  し、深くたがやし、肥料をやり、良い土地にする。
 第二、土地の交換、分合によって、一ヵ所にまとめ、能率をあげることが出来る。
 第三、土地をていとうにして、金を借り、必要におうじ売買も出来る。
 第四、国税が、これまでよりも、はるかにやすくなった。
 このように農村の進歩をさまたげていた障害物が、とりさられたので、農民は今までとちがって、自分の力を十分にのばすことが出来るようになります。
 自分の土地をたんぽにし、あるいは売って、まとまった金を作ることが出来るので、子弟の教育、海外移住、転業というようなことも、しだいに多くなってきます。

【問題】
一、諸制度の改革がおくれたのは、どういうわけですか。
二、農村の吏員は、すべてもとのままにしておいたのは、どういうわけですか。
三、租税を現物でとるのは、どうしてわるいですか。

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