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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第19章 沖縄県の政治(上)③
3.県政正常化へ
【解説】
1年以上筆が止まっていた。多忙だと言えばそれまでなのだが、執筆という作業には、精神的な余裕も必要だ。今余裕ができた、とは言い難いのだが、久しぶりに編集作業をしてみたくなった。
韓国併合の時の両班なんかもそうなのだが、旧制度を墨守したい者は必ずいる。そして、その連中は改革に恨みを抱く。沖縄史の根底に被害者史観が蔓延っているのはそのせいだ。逆にいうと、そういう連中を温存させたというのは、政府の改革が緩かったという証拠ではないか。なぜなら、廃藩置県時に頑固党を根絶やしにすればよかったのに、しなかったのだから。一方、改革が進まなかったことで、被害を被ったのは農民だった。その恨みつらみも、被害者史観の沖縄史には反映されているだろう。
いずれにしても、そこを乗り越えない限り、沖縄には未来はない。隣国のような、民族としての誇りを捨てて、歴史を歪めてまで旧宗主国に寄生しなければならないような哀れな状態に陥っても、被害者ヅラをし続けることが、沖縄の将来にとって良いことなのか、よく考えてほしい。そして、沖縄県民は、久米三六姓の子孫であることを誇る事大主義の人々を除けば、同じ日本人なのだ。DNAがそれを証明している。沖縄県民は、琉球民族などという言葉遊びに騙されてはいけない。県民を幸せにすることなどない被害者史観に毒されないで、史実を見ることが必要だ。仲原が、この本を通じて、そのように語りかけているように思うのは、筆者だけではないだろう。
例によって文章の交通整理。それ以外に、上杉茂憲、奈良原繁両県令の経歴を少し調べて挿入した。奈良原の事績については、この後詳述される。
【本文】
鍋島県令は何とかしてこの行き詰まりを解消し、1日も早く県政の麻痺状態を正常化できるようにと、官吏を派遣して説得しても、旧政庁の連中はなかなか耳を貸そうとはしません。県庁は彼らをしばらく寛大に扱っていましたが、ここに来て心を決め、やむを得ず力づくで動かす決心をかためました。
旧政庁の役人どもは中城お殿に集って謀議を重ねた挙句、あることないこと、様々なことを地方に宣伝して人心を迷わし、中には、もとの領地から、勝手に租税をとる者さえ現れました。これは法治国家として捨て置くわけにはいきません。県庁では、租税をとった旧地頭、旧在番、下知役、検者等を片っ端から検挙し始めました。
これを知った那覇、小縁、豊見城あたりの貧民は、日頃の恨みを晴らすのはこの時だとばかり、警官を案内したので、たちまち百余人が検挙されました。
不逞の輩が警察で拷問を受け、泣き叫ぶ声は2〜300m離れたところまで聞こえ、反県庁派の連中は、びくびくして夜も寝られないほどだったといわれます。
ある日の夜11時ごろ、旧三司官以下の数名が中城お殿に鳩首して、しきりに協議している最中、警官十数名が刀をガチャガチャさせて庭に入って来ました。警官隊の夜襲だと、連中は暗闇の中先を争って部屋から飛び出し、石垣を越えて飛び降りようして石につまづき、木にぶつかるなどして、哀れな泣きさけぶ声が闇に響く中、按司とか親方と呼ばれる位の人が数人捕縛されました。浦添旧三司官もつかまり、金のかんざしも巡査にとりあげられて、留置場に入れられました。
もちろん、これはおどしです。県庁の側も2、3日で彼らを許し、放免しました。それからあとは、連中も少しおとなしくなり、まもなく、浦添、富川の両旧三司官は県庁の顧問となり、外にも十人ばかり、県の官吏になりました。これを見て、各間切の吏員も、安心して県の命令に従って事務を執るようになったといわれます。
この時点では、農村の制度も吏員もまだ全て元のままです。しかし、旧藩時代の地頭がなくなっただけでも、農村は明るくなりました。各間切の下知役検者、離島の在番も廃止され、農民の職業選択、移転も次第に自由になりました。
明治14年に赴任した2代目県令上杉茂憲(もちのり)県令は県勢の把握と近代化に力を入れた人でした。上杉はその年の11月から沖縄本島を、そして翌年には久米島、宮古、八重山諸島を視察して、自らの目で沖縄の実態を見てまわりました。各間切では、村役人に農産物の生育や 精糖事業、学校設立の進展具合などを取材し、記録を残しています。これは、『上杉県令巡回日誌』として残されています。当時の沖縄の様子を知る貴重な資料です。
上原県令は産業振興とともに、特に教育の充実に力を入れ、明治15年までには、各間切に1校ずつ学校を作り、同年、謝花昇、太田朝敷ら5人の県費留学生を東京に送りました。この人たち明治20年ごろからは沖縄に帰ってきて、県民のために尽力します。
さて、県令として東京から派遣されたのは5人です。
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5代目の大迫県令の任期途中から、知事という官職名に変わりました。
県令、知事の中には、上杉県令や4代目の西村捨三県令(後に大阪府知事として名を残しています)のように、改革の大鉈を奮おうとした人もいたのですが、政府は、用心深くこれを取りあげず、差し支えのない限り、旧制度をそのままにしておく方針をとっています。これは頑国党の勢力を過大に見積もった現地からの報告を信じたためだといわれています。そして上杉が更迭されたのは、改革を急ぐことに民心がついていかないということが理由になったようです。しかし、政府による旧制度温存策は、旧支配者層を懐柔した一方で、農民の苦しみは続いていたのです。
政府の方針もあり、長らく制度改革のスピードは遅かったのですが、明治25年に着任した8代目の奈良原繁知事の時になってから、ようやく、改革に拍車がかかるようになります。
奈良原知事は薩摩藩士として、幕末維新に活躍した人です。静岡県令、貴族院勅選議員などの経歴を持つ政治家で、当時の薩摩出身の大臣たちに知己が多く、沖縄改革の適任者として推薦されたといわれます。明治25年から41年まで16年の長きにわたり知事を務めました。
沖縄県における功績は非常に大きく、笹森儀助(探検家。当時未開の地であった南西諸島の詳細な調査記録『南嶋探験』を残しています)の調査によると、「奈良原氏の声望は最も高いです。各離島の人々でも、その名前を知らない人はありません。昨年の赴任以来、少しの改善で社会を発達させたことで人々の目を引きました。近いうちに古い慣習の改善を断行して、大いに人々の苦しみを取り除くだろうと、人々は待ち望んでいます。」と、奈良原は沖縄県知事として、一般県民からその改革の手腕を高く評価されていました。
実際、奈良原の県政に対する功績は非常に大きいものがありますが、強権的なやり方に対して、批判も多かった人ではあります。
【原文】
県令は、なんとかして、この行きつまりを打ちやぶり、しびれた神経がかっぱつに活動するようにとあせり、官吏をやって、説かしても、なかなかききません。
旧政庁の人、を、今まで、寛大にあつかつていたが、しかたなく、だんあつする決心をかためました。
彼らは、中城お殿に集っていて、いろいろのことを地方にせんでんして人心をまよわし、中には、もとの領地から、租税をとった者もあらわれました。
県庁では、租税をとった旧地頭、旧在番、下知役(げちやく)、検者(けんしゃ)等を片っぱしから検挙しました。
これを知った那覇、小縁、豊見城へんの貧民は、へいぜいのうら
みをはらすのは、この時だと、警官をあんないし、たちまち百余人
の人が検挙されました。
この人たちが警察でごうもんを受け、泣きさけ声は二三丁の所ま
できこえ、反県庁派の人、は、びくびくして夜もねられないぐらい
だったといわれます。
又、つぎのような面白い話もあります,旧三司官以下の人、が、
中城お殿にあつまって、しきりに、きょうぎしていると、夜の十一
時ごろ、警官十数名が劔をがちゃがちゃさせて庭に入って来た。そ
れ、警官隊の夜襲だと、先をあらそってとびだし、石につまづき、
木につきあたり、石垣をこえてとびおりようとしてつかまって泣き
さけぶ者もあり、けっきょく、按司とか親方(おえかた(ママ))と
いう人、が数人つかまった。浦添旧三司官もつかまり、金のかんざ
しも巡査にとりあげられ、留置場にとめられました。
もちろん、おどかしですから、二三日たつと、ゆるしました。
それからあとは、少しおとなしくなり、まもなく、浦添、富川二
人の旧三司官も、県庁の顧問となり、外にも十人ばかり、県の官吏
になりました。
これを見て、各間切の吏員も、安心して県の命令にしたがって、
事務をとるようになったといわれます。
農村の制度も吏員もすべて、もとのままですが、しかし、旧藩時代の地頭がなくなっただけでも、農村はあかるくなりました。
各間切の下知役検者、離島の在番も廃止され、農民の職業、移転
もしだいに自由になり、十五年までには、学校も各間切に一校ずつ
出来て、少しずつでもよくなってきました。
上杉県令(二代目)も教育にはねっしんで、明治十五年五人の県費留学生を東京に送りました。
この人たちは明治二十年ごろから、かえってきて、新沖繩建設の
ために活動します。
県令や知事(五代目から知事という)の中には、上杉県令や西村県令(四代目)のように、改革の決意をした人もいるが、政府は、用心ぶかく、これを取りあげず、さしつかえないかぎり、ふるい制度をそのままにしておく方針をとっています。
頑国党の勢力を大きく見つもったおくびょうな県令の報告を信じたためだといわれます。
明治二十五年、奈良原知事(八代目)の時になってから、ようやく、制度の改革がはじまります。
奈良原知事は薩摩出身、明治維新時代にも活躍した人で、知事、
宮中顧問官をつとめたけいれきがあり、当時の薩摩出身の大臣たち
に、知人が多く、改革の適任者としてすいせんされたといわれま
す。二十五年から四十一年まで十六年の長い間、知事をつとめ、功
もあれば、又いろいろの反対もうけた人です。