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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第20章 沖縄県の政治(下)①
1.謝花昇と沖縄の改革
【解説】
改革者はいつも反面の批判にさらされる。暗殺された安倍晋三総理を見ればわかるだろう。安倍さんの改革は、悪夢の民主党政権の尻拭いであったのに、それを左翼は批判する。そして安倍は極右だと。ところが、右寄りの人たちからは、安倍さんの改革は手ぬるいと強烈に批判された。挙げ句の果てに、旧統一協会という全く理由にならない理由で暗殺され、真相は奈良県警によって闇に葬られた。
沖縄改革に力をつくした奈良原繁も、口汚く批判されることが常だが、中原は冷静に是々非々で子供達に教えようとしている。それが歴史家の態度というものだ。そこに、謝花昇という悲劇のヒーローが絡む。物語としてよくできている。
謝花昇の伝記については、補強が必要だと考え、リサーチして書き加えた。こういう硬骨漢がいたことを、被害者史観でしか物事を考えられない連中はしっかりと学ぶべきだろう。正しいものは正しい、誤りは誤り。そう考えられない限り、沖縄には、否、日本には未来はない。
なぜ歴史の教師は是々非々ができないのだろう。
前回書いたように、白黒をはっきりさせる方が教えやすいし、理解させやすい。しかし、それは歴史ではない。仲原の原著は、申し訳ないが日本語が洗練されていない(多分誰も校正していないからだろう)のだが、それでも筆者を惹きつけるものがある。それは、仲原の歴史家としての冷静な筆致があるからだろう。筆者が史実を補いつつ、あえて仲原の原文の流れや表現をできるだけ残そうと考えた所以である。
【本文】
奈良原繁知事は、様々の改革をおこない、沖縄県に大きな功績を残した人ですが、県民感情と対立したこともしばしばでした。
最も激しく県民に批判されたのは、「杣山(そまやま)問題」です。県は山原(やんばる)などの山林を払いさげ、開墾をさせたのですが、その計画が粗末なもので、昔から守られてきた美林を荒らしてしまった所が多いということで批判を浴びたのです。
元々の計画は、樹木のない原野や荒れ地を、失業した士族や地元の農民に払い下げて開墾させるということでしたが、その通りにはいきませんでした。実際に払いさげを許された土地が立派な山林であったり、旧支配層を優遇するような不公平なことが多かったので、批判の声が強くなり、国頭方面の人々は反対運動を起こしました。
県技師として県内務部に勤務し、明治26年12月に、土地調査委員に任命されていた謝花昇は、奈良原知事の土地開墾の方針に対して強く反対して対立しました。
謝花は、1865(内地では慶応2)年に東風平(現八重瀬町)で農民の子として生まれました。生家は農家ですが貧農ではなかったようです。17歳で沖縄県師範学校に入学した後、明治15年に第1回県費留学生として東京へ留学し、学習院中学科、東京山林学校、東京農林学校を経て、24年に帝国大学農科大学を卒業し、沖縄県初の農学士となりました。
卒業後すぐに沖縄に戻り、県庁勤めの技師となった謝花は、農業技術の指導を行うとともに、貢糖制度、買い上げ糖制度という、旧態依然とした慣習を廃止するために奔走しました。
貢糖制度とは、王国時代に琉球が薩摩藩に納めていた年貢のうち、33%
を砂糖で代納させていたものです。廃藩置県後はそれを政府が収納していました。買い上げ糖制度とは、政府が相場より安い価格で砂糖を買い上げ、麦、大豆にかかる税と相殺して、余剰金があれば還付するという制度です。謝花の活動により、買い上げ糖制度は明治32年、貢糖制度は明治36年にそれぞれ廃止されています。
さて、知事は謝花の意見に耳を傾けず、自分の考えを押し通しました。謝花は、明治27年9月に開墾主任を解任され、明治31年には県庁を退職しました。
同年夏に上京した謝花は、自由民権運動の主導者で、当時第1次大隈重信憲政党内閣(いわゆる隈板内閣)の内務大臣であった板垣退助に面会して、奈良原知事の更迭を求め、内諾を得ました。そして自らも憲政党に入党し、自由民権運動にも身を投じました。しかし、大隈内閣は短命に終わり、同年11月に総辞職すると、藩閥出身の第2次山縣有朋内閣となり、奈良原はそのままの地位を温めました。
謝花はその後、當山久三(後に県議会議員)らと政治結社・沖縄倶楽部を結成し、雑誌『沖縄時論』を創刊して、奈良原県政と土地整理問題を批判するとともに、参政権獲得運動を呼びかけるなど、言論活動を展開しました。同志と共に各地で演説会をひらき、また上京して各方面に陳情し、同時に県会の設置、沖繩県から衆議院議員を選出することを主張しました。一方、謝花は旧支配者層が琉球王国復活を目論むような愚かな運動には与せず、公同会運動を厳しく批判していました。 『沖縄時論』は沖縄の青年たちを大いに刺激し、彼らに政治に対する興味を起こさせ、新しい知識で啓蒙しました。謝花の演説会は、いつも聴衆で溢れました。
しかし、奈良原知事はあらゆる方法で沖縄倶楽部を圧迫しました。次第に脱落者が多くなり、謝花が明治31年以来常務取締役を務めていた農工銀行の役員選挙で奈良原派の候補に敗れた後、経済的に行き詰まってしまいました。
謝花は明治33年に職を求めて単身上京し、翌年5月、山口県大津郡の農事試験場技手の職を得て赴任する途中、神戸駅で精神に異常をきたして発狂。東風平に連れ戻されて療養生活に入りましたが、明治37年、不遇のうちに亡くなりました。43歳の若さでした。
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謝花らの運動はわずか2年ほどで終わりました。しかし、彼らが官選の知事の政治を堂々と批判し、これと正面から対抗したことは、当時の日本、さらに沖繩においては、非常に勇気を要することでした。謝花の行動は、一般県民に対しても、大きな影響を残しました。
謝花らの運動は、決してから騒ぎにおわったのではありません。間も無く土地整理、税法改正、県会の開催、そして衆議院議員も選挙されるようになりました。土地整理と税法改正は、謝花がまだ在職中に決まったことですが、県会の開設や衆議院議員選挙は、謝花らの運動によって早められたものだと評価されています。
【原文】
一、県民の自覚
奈良原知事は、いろいろの改革をおこない、大きな功績をのこしたが、その政治には又、県民から反対された点もありました。
もっとも、はげしく反対されたのは、国頭その他の山林を払いさげ、開墾をさせたが、そのけいかくがそまつで、ふるい時代からの美林をあらした所が多いということです。
木のない原野又は荒れ地を、失業した士族や地元の農民にはらいさげ、開墾させるというけいかくでしたが、けいかくどおりにはいきませんでした。
実際に払いさげをゆるされた土地は、立派な山林であったり、払い下げをゆるされた人の中にも不公平なことが多かったため、いろいろの反対やひなんの声がつよくなりました。
国頭方面の人、は反対運動をおこし、又知事の部下として、この事務をとっていた謝花技師なども、つよく反対したが、知事はそれに耳をかたむけず、自分の考えをおしとおしました。
謝花は職をやめて、同志の人、と、各地で演説会をひらき、又上京して、各方面に陳情し、同時に県会の設置、沖繩県から衆議院議員をせんきょすることを運動しました。
謝花は上京中、当山久三その他の同志をえて、彼等をつれてかえり、那覇に「沖繩クラブ」をつくり「沖繩時論」を発行して、よろんをおこすことにつとめました。
沖繩時論は青年たちから、ひじょうなかんげいをうけ、彼等に政治
的のきょうみと知識をあたえることに役立ち、謝花等の演説会は、い
つもひじょうなかんげいをうけました。
しかし、奈良原知事はあらゆる方法で、彼等をあっぱくしたので、しだいに落伍者が多くなり、雑誌もクラブも、経済的に行きづまり、謝花自身も郷里にひっこんでしまいました。
謝花等の運動はわずか二年ばかりでおわりました。しかし、彼等が知事の政治を堂々と批判し、これと正面から対抗したことは、当時の沖繩においては、ひじょうな勇気を要することで、一般の人にたいし、大きなしげきをあたえました。
又彼等の運動は、からさわぎにおわったのではありません。
まもなく、土地整理、税法改正が行われ、これにもとづいて、県会がひらかれ、衆議院議員も選挙されました。
土地整理と税法の改正は、謝花がまだ在職中にすでにきまったことであるが、県会の開設、ことに衆議院議員の選挙は、謝花等の運動によって早められたものです。
謝花は財産もほとんどなくなり、生活にもこまり、三十四年に山口県技師に就職、ふにんの途中、神戸で病気になり、帰郷して療養のかいもなく四十一年、死去しました、年四十四歳。この年奈良原知事も職をやめて退去しました。