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【エッセイ】夜を仰ぐ 未だに遠い 夏の果

登場人物
・私:
 不和雷同のモサモサ男。しかし、文筆には芯がある。
・メガネ君:
 素朴な沈思黙考のメガネ男子。和風を好む。
・ねくら氏:
 心を読み、人を転がす小悪魔。大人女性へ進化途中。

確かめたことはないが、我々は友人である。

桜新町にて

 夏の日。空は曇りの不安定。気温は高い。時折小雨が降る。じめっとした高温多湿の不快感が体にまとわりつき、歩けば汗をかく。幸先の悪い陰鬱な午前。

 だが、天気などお構いなし。夢や目的があるならば、人生の曇天や荒天なんのその。我々はその足をどこまでも動かす。

 雲は低く、雨に打たれど、この暑さは夏の始まり。私は自らの信条を掲げ、今年の夏へ動き出すのだった。

美徳のファンファーレ

「かき氷の無い夏など、日本の夏では無い。コンビニで買うアイスのみで終幕するひと夏は美徳に反する」

 田園都市線、桜新町駅。かき氷という夏限定の風情を希求し、私、ねくら氏、メガネ君はつどう。
 季節ごとの甘味は日本の長所である。春なら桜餅。秋なら栗や芋のお菓子。冬なら雪見だいふくのように。
 しからば、かき氷で季節感を得ずにぼんやりと過ごす夏の、何と物足りなく、勿体ない事であろう。数日前、私の風流な愛を、ねくら氏とメガネ君へ滔々と語った。

「こだわり強いね」

「風物詩への傾倒ですな」

 私は声高に力強く提案した。

「食べに行くぞ」

「去年も行ったでしょ」

「そうでしたな。あれは美味しかった」

「風情は年を跨がない」

 かくして、美徳を掲げた私と、美徳に賛同するよりかは、勢いに押されて迎合した形の二人がこの地に呼び出された。

先天性の才能、潜在的勝利

 当日、意気揚々と駅に着くと、ねくら氏が既に到着していた。改札口に佇んでいた彼女は、格好から表情から、どれも晴れやかである。黒のトップスとパンツはどちらも短く、上から羽織った長袖のシャツは白くて眩しい。その荘厳華麗なオーラは、本日が曇天である事実を、皆の頭から忘却の彼方へ消すようである。相変わらず華奢で色白美人。そして、立ち姿はどうしてか誇らしげである。

「褒めて」

「どういうことだ」

 開口一番、横暴な依頼が投げられた。

「ほら。ちゃんと着てきたよ。偉いでしょ」

「なるほど。約束を守ったか」

 私は一歩下がり、ねくら氏の全体像を確認する。

 三か月前。夏に向けて我々は誓いを立てていた。誓った内容は至極単純である。

 ──身体を鍛えること。

 肌を露出しても恥は皆無。寧ろ誇らしげに己の肉体を人目に晒せる状態にすると、勇ましく宣言していた。彼女曰く、夏の逢瀬にて、へそ出しの服を纏うことで、誓いは達成される。そして、今日が約束の日である。

 見たところ、なかなか夏らしさ溢れる装い。そして宣言通り、彼女は腹を出していた。無理に肌を露出している様子はなく、天衣無縫の肌見せというのがピタリと当てはまる軽やかさである。
 へそまで出ていたかをまじまじと確認する勇気は、私に無い。まだまだ真の変態には程遠い。彼女の腹を一瞥して目を逸らし、それ以降は下に目線を運ばず、何の気もなさそうな顔をする。忸怩たる思いである。

「そもそもの目的は引き締まった肉体を手に入れる事。しなやかで品のある体躯を作り上げてきた矜持を今、貴様は持っているのか」

「この服を着れるぐらいには頑張った」

「ほう。具体的にどのような鍛錬を重ねたか教えてくれ」

「昨日、一夜漬けでプランクしたの」

 聞いたことのないトレーニングである。一晩中、四つん這いで腹筋を痛めつけたのだろうか。無意味かつ多大なストレスのかかる行為。本当であれば、憐憫の情を禁じ得ない。

「一夜漬け……。本当か」

「ごめん。昨日30分やっただけ。それ以外は何も」

 立てていた誓いがぱらぱらと無残に崩れ去っていく音が聞こえた。

「三か月前の決意はどこに行った」

「でも、似合ってるでしょ。骨格ウェーブが映えてるし。鍛えてないけど大勝利」

 自画自賛は鼻につくが、似合っていることに疑いの余地は無い。言うなれば、努力が微塵も含まれない、圧倒的ポテンシャルでの勝利。天才とは1%の自尊心と99%の才能。そう言わんばかりの態度で掴み取る悪役的勝利だった。自他ともに認める小悪魔は、暑さに負けず健在である。

「いけ好かない」

 そこへ少し遅れていたメガネ君がやって来た。

「すまない。遅れました。む。ねくら氏、素敵な服装ですな」

「メガネ君好き」

 安直に褒めることが正解だったのだろうか。凝っては思案に能わず。一言で乙女心への正答を導き出す賢者は、涼しい顔で扇子を仰いでいた。

雪うさぎへ

氷に映るライフスタイル

 さて、閑話休題。我々はかき氷の専門店へ向かう。桜新町駅からは10分程度。私、へそ出しの小悪魔、扇子の賢者は、湿気を振り払うように、口数多く歩を進める。

「今日は清涼感のある装いですな」

「私か? そうだな。実際涼しいぞ」

「白Tにメッシュの羽織で透け感がある。青が基調で波模様の柄。夏、感じる。珍しく良いファッションだ」

「一言余計だ」

「何かテーマはあるのですかな」

「ある。今日の私は”海”だ。いや、それではスケールが足りないか。"大海”が相応しい」

「身の丈に合わないね。水溜まりとかにしときなよ」

「全部余計だ」

「あなたはさておき、メガネ君はシンプルなポロシャツが最高です」

「照れますな。お褒めの言葉、ありがとう」

「大海を蚊帳の外に置くな」

 名を改め、毒舌へそ出し悪魔、ポロシャツ扇子賢人、そして水溜まり男は、かき氷を目指し、小雨が降る夏の日を歩く。

 歩数と無駄口を重ねると、間もなくして目的の店に辿り着いた。店の名は雪うさぎ。白く柔らかな雪原と、そこで戯れるウサギを連想させるメルヘンなタイトルである。店の扉を開ければ、鬱陶しい暑さは消え、かき氷の予感がする夏の風情だけが残った。

 幸運なことに、店内にある5卓のうち、最後の1卓が空いていた。そこへ案内された我々は、腰を下ろし、卓上に置かれたメニューを眺める。

 ──それにしても……。

 子供の頃に夏祭りで食べた、いちごやブルーハワイの名残りは、現代かき氷に一寸たりとも感じない。ショコラナッツ。塩キャラメルグラノーラ。柑橘ヨーグルトエスプーマ。どれもこれも、詳細までを容易には想像できない。それとなく風味は伝わるが、なんとも煩雑な横文字である──。

 一時、言葉数が減った。各々が頭の中で、お品書きと食欲を照らし合わせる時間。他の卓で交わされる会話に紛れて、シャリシャリと氷を削る音が、奥の方から聞こえてくる。

「早めに来て正解だな。いつもはかなり並ぶ店だ」

「そうなんだ。毎年良いお店見つけてくるよね」

「かき氷には余念がないからな」

 ねくら氏は喜色満面でメニューを覗き込む。一方、メガネ君は、座した際の初期位置から顔を動かさず、高くからメニューを見下ろす。相も変わらず、右手の扇子はぱたぱたと動いている。既に、食べたい味を二択まで絞り込んでいた私は、目を瞑り、二者択一に精神を研ぎ澄ませていた。

「かき氷、色んな味あって迷うね」

「バナナブリュレか、かぼちゃキャラメルか。迷うな。どうせなら両方頼むのも手だな」

「二兎追うものは、一兎も得ないよ?」

「そんなことないだろう。どちらも味わえるのは素晴らしい贅沢だ」

「結局は一つを味わって食べた方が、最大限その料理を楽しめるの」

 俗にいう名言か、迷言か。容易に得心できない言葉であると、明言はできるが。すると、メガネ君がはっとしたように扇子の仰ぎを止めた。

「なるほど。二兎追うものは……。雪うさぎと掛けましたな?」

「その通り!」

「つまらん」

 結局、ねくら氏は抹茶。メガネ君は黒糖ミルク。私はバナナブリュレを注文した。

「バナナブリュレとは……。なかなかハイカラなかき氷ですな」

「そうだろう。かき氷に、バナナとキャラメルソース、シナモンパウダーが乗っている。中にもバナナペーストが入っているらしい」

「カタカナばかりで気が滅入りますな。付いていけぬ」

 メガネ君は日々進化するかき氷の成長スピードに大敗し、煌びやかな氷の山に気後れしていた。その自信の無さを隠すかのように、彼は保守的な選択をしている。ほうじ茶や抹茶で迷い、最終的に選んだ黒糖ミルク。逃げに走った中途半端な一手である。

「逆に、メガネ君は置きに行き過ぎてないか。自らの独自性を守るために、和風、古風から外れることができないのは損だろう」

「縛られたことなど、一度もないですな。黒糖ミルクはそれほど和風でもないと考えるが」

 私は間髪入れず、端的に返した。

「弄られるのが嫌で、少しだけ外したように見えるが」

「そもそも私が普段から和風を意識してるなど、荒唐無稽の事実ですぞ」

「お菓子は基本お茶系の味。扇子ずっと持ってる。喋り方……」

 私は挑発的な態度で彼の目をまっすぐ見つめ、彼に向けた人差し指をくるくる回す。明らかにメガネ君は狼狽えていた。

「ん……。返す言葉が無いかもしれぬ」

「ちょっと、メガネ君を責めないで。好きなもの、自由に食べれば良いじゃん。ほら、かき氷来たよ」

 仲裁したねくら氏の前に、かき氷が運ばれた。彼女が頼んだのは、抹茶のかき氷、だった……。
 しかし、うずたかく山を形成するかき氷の上部に、右、左と、うさぎの耳が生えている。私とメガネ君は、理解に戸惑う。

「なんだそれは」

「うさ耳だよ。かき氷に付けるのが、お店の名物みたい。さっき追加で頼んだの」

「知らないうちに……」

「自由に食べよ」

 かき氷とうさ耳。未知の融合である。冷たい氷と小さな耳の愛嬌が、絶妙な涼感をもたらした。錦上花を添える風情は可愛いを通り越し、愛おしい。抹茶の緑とうさ耳の白は色の掛け合いが素晴らしく、見たものの食欲だけでなく、食べる人間の魅力をも底上げする魔力があった。

「うさ耳は食べるのか。それともただの飾りか」

「食べられるよ」

 ねくら氏はうさ耳を一口噛んだ。

「うん。美味しい、けど……」

「けど?」

「うさ耳に味の良さは求めてないかな」

「何故だ」

 ねくら氏は噛みかけのうさ耳を口に放り込んだ。もぐもぐしながら、こちらを見て笑っている。

「何故でしょう?」

 ──なるほど。

 彼女が常に歩むは、可愛いの王道。仮初めや小細工の範疇で収まらぬ覚悟の愛嬌は、並の女性とは比肩できない。故に今日も、その生き様でかき氷を選んでいた。
 己の信条に従う食事。その潔さ、孔子の如し。私とメガネ君の小競り合いなど、どんぐりの背比べ。今、氷を掬ったねくら氏は、スプーンを口に入れる際の角度までも美しく、隙が無い。恐らく、彼女が今思うことは一つだろう。

 ──あぁ。私って可愛い。

 味は甘くても選択に甘さはいらない。かき氷は人生を映す。

思考は嗜好の手のひら

 くだらない口論は落ち着き、我々は一意専心でかき氷と向き合った。一つ千円以上。至高の一品に五感を研ぎ澄ませる。各々で打ち過ぎた舌鼓は、喜びのハーモニーを奏で、それに合わせて心は舞い踊る。幸甚の最中、私は次なる目的地を二人に明かした。

「これから八景島へ行こうと思う」

 二人はかき氷を食す手を止め、即座に返答した。

「わかった」

「承知」

 忌避や反駁も覚悟していたが、予想に反してあっさりと承諾が下りた。二人合計での二つ返事を貰えるほど気楽な提案だったろうか。
 八景島は、ここからだと1時間半ほどかかる。ふらっと立ち寄る場所ではない。言うなれば小旅行。多少の疲労も考慮しなければいけない。
 突然の旅立ちを気安く引き受け、彼らは後悔しないのだろうか。端的な賛同からは興味さえ感じ取れず、不安と心配が募る。もう一度確かめた。

「いいのか。まだ何をするかも言ってないだろう」

「どうせ…」

「どうせ?」

「どうせ、まず水族館行くんでしょ。外は暑いから室内で生き物を観察したい。でも、近場だとわくわくが足りないから少し遠くにいきたい。自分は弁が立つから長距離の移動でも二人を飽きさせないし、八景島なら他にアトラクションもあるし、近くに浜辺もあるから夜に花火もできる。どうだ、私の完璧な計画は。わっはっは。……ってとこでしょ」

 あまりに残酷な読心術である。我が思考は、彼女の嗜好を前にして、呆気なく晒された。微細なニュアンスまで模倣され、一を以て万を知られている恥辱に嫌気がさす。

「八景島は今日、花火大会もあるらしいですな」

「いいね。夏をありったけ満喫って感じだ」

「場所があるなら、手花火もしましょうぞ」

「メガネ君、見てほしいんだけどさ」

 ねくら氏は、テーブル脇の荷物置きに入った私の鞄を指さし、ニヤニヤと笑った。

「彼のかばん、いつもより少し大きいでしょ。多分あれ、手持ち花火が入ってるよ。実は今日、最初から花火やる気満々で来てるね」

 完璧な推理だった。夏の夜までを楽しむ気持ち全開で、万全を期していたことが仇となる。羞恥心で居たたまれず、私は荷物を持ち、席を立った。

「賛成なら早く行くぞ」

「急だね。図星で恥ずかしくなったのか。可愛い」

「うるさい。準備しろ」

「逃げるように席を立ちましたな」

「本当だね。彼は脱兎の如く、雪うさぎを出ていくのでした」

「お上手。ねくら氏、今日は冴えてますな」

「つまらん」

 外に出る。未だ曇天。空は晴れ間を見せてくれないが、予報通りであれば、花火の頃には星が見える。

向かう途中で

玄米の烙印

 少しばかり時は進み、横浜から金沢八景までの区間。東急本線特急に我々は乗っていた。休日の比較的空いた電車内。次第に緑が多くなっていく外景も、乗客の喧騒も、適度に落ち着いていた。心なしか、遠出する際の高揚した雰囲気に包まれる。

 桜新町駅から八景島は電車でおよそ1時間半。行き方は複数あるが、自由が丘、横浜を経由し、横浜シーサイドラインの八景島駅まで四回ほど乗り継ぐ経路で向かう。気軽に決断したが、やはりなかなかの長距離。彼らに長旅を課したことへの自責の念に駆られる。

 しかし、杞憂かな。ねくら氏とメガネ君は意にも介さない。電車旅の最中も、取るに足らない会話は続く。彼らの態度は、少しの申し訳なさを霧消させるに十分だった。

「良かった。意外と空いてるね」

「ゆったりとした良き旅路ですな」

 我々は四人用のボックス席に座った。こういった二席ずつが向かい合う場合、必ずと言っていいほど、ねくら氏とメガネ君が横に並び、対岸に私が一人で陣取る。理由は特にないが、図らずとも二対一の構図が完成し、それにつられてか会話の中身も二対一へと変容する。相関するは、我が度量の大きさか、ねくら氏の願望か。原因は判然としないが、本日も例に漏れない。

「そういえばさ」

 ねくら氏が薄ら笑いを浮かべながら、私に尋ねた。

「職場で”玄兄げんにい”ってあだ名だったよね。まだそう呼ばれてるの?」

「その話は金輪際するなと言ったはずだ」

「良いじゃん。別に恥ずかしい話じゃないでしょ」

 馬鹿にしたように話すねくら氏の一方で、メガネ君は真っすぐな目をしていた。

「そうですぞ。玄米をたくさん食べる兄貴。略して、誇り高き”玄兄げんにい”。こだわりの生活習慣に、称号が与えられたようなものですな」

「そんなに良いものじゃない。そもそも、私はその呼び名に悩んでいた。だからこそ、先月あたり貴様らに相談したのだ。それを嬉々として弄る奴と、むしろ誇れと促す奴。たまったもんじゃない」

 不満を垂らせば垂らすほど、ねくら氏の嘲笑に拍車がかかる。私が話す度、彼女はケラケラと笑う。

「解せぬ。日々、玄米を食べているだけで、どうして滑稽なあだ名が付く。確かに、当時は茹でた鶏むね肉と玄米のみ、という質素な昼食を食べていた。さらに小腹が減った時は、味付けしていないシンプルな玄米のおにぎりを頬張っていた。しかし、ただそれだけで”玄兄げんにい”。人々の心は、なんと憎たらしいことだろう」

「十分な理由でしょ」

「呼ばれにいっている感じさえしますな」

 私はしっかりと首を横に振った。何一つとしてこの状況を認める気はなく、反骨心から生み出された言葉で捲し立てた。

「百歩譲って、私が未だに玄米と鶏むね肉だけの食生活を送っていたのなら、この不名誉な呼び名も理解できよう。しかし、我が食生活はその時とは一変した。今や確実に”玄兄げんにい”ではない。休日に一週間分の弁当を作り置きし、冷凍してストックし、職場で解凍して食べているのだ。今や毎日の食とまじめに向き合っている甲斐性抜群の男を、粗末な呼び名で馬鹿にするなど言語道断、言語道断、言語道断だ!」

「電車内ですぞ、感情は少し抑えめに」

「そ、そうだな。すまない」

 メガネ君が慌てて私を諌めた傍ら、ねくら氏は薄ら笑いで口角を上げる。

「相当嫌なんだね」

「噛まずに長台詞、あっぱれですな」

「じゃあ、何て呼ばれたいの?」

 私は顎に手を当てて考えた。

「ありきたりだが、爽やか弁当ボーイはどうだろう」

 ねくら氏は分かりやすく顔をしかめた後、私とメガネ君の顔を交互に見て、意思決定を図った。

「では、多数決を取ります。爽やか弁当ボーイが良い人」

 私は胸を張り、真っすぐに手を挙げた。

玄兄げんにいが良いと思う人」

 ねくら氏が手を挙げながら意見を求めると、メガネ君も扇子を持ち替え、スッと右手を挙げた。

「くっ……」

 やはり、どうしてか会話が二対一になる。本日も例に漏れない。

魔が差して、日が差す

「倫理的に口に出してはいけないと分かっているが、他人にぶつけてみたい強烈な台詞は誰しもが持つものだと思う」

 私は徐に話し始める。金沢八景で乗り換えた我々は、この時既に横浜シーサイドラインに乗っていた。目指すシーパラダイスは目と鼻の先。窓の外には、曇天の下に一面灰色の海。ねくら氏は無人の運転席に座り、広いガラス窓越しに線路向こうの水平線を見つめている。

「そういうものなの? 例えばどういったものが」

「いいのか。では、周囲に漏れ聞こえないようにな」

 私は彼女の隣に立ち、椅子の背もたれに手を掛け、同じように電車の行く先を眺めていた。要望を受け、少し腰を屈めて囁く。

「貴様、化粧してもシーラカンスのような顔だな」

「死にたいの?」

 私は慌てて言葉を返した。

「違う。貴様に向けた訳ではない。あくまで例としてだな」

「下品な単語を躊躇なく並べるその心と頭が、汚くて、臭くて、気持ち悪くて涙腺が崩壊しちゃう」

 ねくらの方を向いた途端、言葉の通り汚くて臭いものを見る眼と目線が交錯し、体の内から破裂するような悪寒が襲ってきた。

「良く聞いてくれ。下品な単語など、一つもなかったはずだ」

「上品な所作も、綺麗な花束も、組み合わせでいくらでも下品になるんだよ。神経を疑います」

「すまない」

 ため息をついたねくら氏は、私と反対側、隣に座るメガネ君の方を見た。

「メガネ君からも強く言ってあげないと」

 メガネ君は握った拳の親指部分を顎にあて、首を傾げていた。

「そうですな。確かに、誰かを傷つけてしまうほど鋭利な衝動を、吐き出したくなる時はあるやもしれぬ」

 ねくら氏の顔は冷めた色から驚きへ急変した。聞きたくない焦燥に、聞いてみたい興味が勝ったのか、彼女は口を突いたように喋った。

「た、例えば? どんな言葉で?」

 メガネ君は、一段と潜めた声で呟いた。

「この間、友人と訪れた動物園でオカピを見ましてな。キリンなのか、シマウマなのか、ちぐはぐな体の模様を見て、心の声が漏れてしまい……。変な体……。と」

 思い詰めた表情のメガネ君は、それ以上は言葉を発さずに下を向いた。ねくら氏は私と同じことを思っただろう。

 ──なんか違くね……。

 彼女の顔は今、ポカンという擬音が似合う。口は開けたまま、ぎこちなく微笑んでいるが、恐らく何も頭に浮かんでない。
 この状況を好機と捉え、心の内で疼くものを抑えきれなかった私は、呟いてしまった。

「貴様は正に今、シーラカンスみたいな顔をしているぞ」

「死にたいの?」

 魔が差した。私はねくら氏から目を逸らし、電車の進行方向を向く。すると、窓の外。雲の切れ間から、何本もの陽光が、海面へと斜めに入水していた。

 もうすぐ目的地の八景島駅。気まぐれが多い天候の移ろいにしては、随分と適時である。幸い、八景島にシーラカンスはいない。

いざ、八景島

快晴の下。雷は落ち

 改札を抜けると、そこは南国だった。というのは言い過ぎだが、曇りの陰気はどこへやら。我々が到着した刹那、八景島の空は快晴へ衣替えした。まるで、ヒロインの不遇から祝福への場面転換。この陽光の下であれば、誰であろうと気分は快い。

「やはり、私は晴れ男か」

「数少ない取り柄だね」

「相変わらず余計だ」

 駅前には石造りの小さな広場があり、その先に砂浜が広がっていた。入り口の石垣には、海の公園と書かれたプレートがある。視界の奥の方では、寄せて返す波の景色。それが針葉樹のフレームに縁取られ、七月の陽気は一枚の絵になっていた。

 夜にはこの浜辺で花火をする予定だが、ひとまずは水族館へ向かう。公園を一瞥し、その入り口を左に曲がる。対岸へ架かる橋を渡ると、遂に目的の八景島に辿り着いた。

「八景島って水族館だけじゃないんだね」

「いくつかアトラクションもあれば、ホテルもある。さすがレクリエーション用の人工島だ」

「やけに説明しますな」

「多分、色々調べてきたんだろうね」

「この後も期待してますぞ」

「いちいちバカにしたいんだな。貴様らは。」

 生兵法の知識は、水を差さされて生き絶えた。彼らは容赦ない。余分と見做した解説を冷めた態度で切り捨てる。シーパラダイスを目指す道中は、言葉のしかばねで溢れた。

 すると途中、ねくら氏がいきなり道端のベンチに座った。

「ごめん。ちょっと休んでいい?」

「大丈夫か? 体調が悪いのか」

 目的地は目と鼻の先。賑わいの喧騒も近い。逸る気持ちはある。だが、ここで彼女を置いていくような畜生ではない。我々は三人並んで、ベンチに座った。期待感に満ちた顔で通り過ぎていく人々は、あっという間に遠近法でその背中を小さくする。少し目線を上にすると、青空と雲が鮮明だった。私は日傘を差し、皆を日陰に入れる。

「すまない。やはり長い旅路で疲労が蓄積したか」

「ううん。ちょっと貧血気味なだけ」

「朝ご飯は何か食べてきたのか?」

 時刻は午後二時に差し掛かる。思い返せば、我々は今日集まって以降、かき氷しか食べていない。

「えっとね。羊羹をひと欠片と、カフェラテ飲んだぐらいかな。それで充分かなって」

「本日の運動量に対して、明らかに栄養が足りてないだろ」

「私、省エネだから」

「限度ってもんがある」

 すると、心配そうにねくら氏を見ていたメガネ君が、肩から下げていたトートバックから、チョコを取り出した。溶けにくい加工がされている、コンビニやスーパーでよく見かけるチョコだった。

「是非、これを」

 差し出された優しさを前に、ねくら氏は硬直した。一国の王から宝物を賜ったかのように唖然としている。

「くれるの……?」

「食べてくだされ」

 喜色満面この上ない。かき氷を食べていた時の笑みが欺瞞だと思えるほどに、ねくら氏は口角を上げていた。

「この蒸し暑い日に、よくチョコなんて持ってたな」

「長き外出の時、糖分の所持は落ち着きをもたらす」

 私はねくら氏の方を向いた。

「なぜ貴様は今日一番嬉しそうな顔してるんだ」

「メガネ君、ありがと」

 受け取ったチョコを、ねくら氏はしばらく眺めていた。数分間眺めていた。いくらコーティングされていようが、ありったけ日に照らされたチョコは徐々にその様相を変える。降って湧いた喜びは、彼女の時を止め、チョコを溶かしていく。
 じれったくなった私は、彼女の手元へ手を伸ばし、チョコの強奪を図った。

「何すんの!」

「いや、食べないのかと思って。私もお腹空いたし」

「最低」

「おやおや。奪い合いは良くない。まだチョコはありますぞ」

 私はメガネ君の方を向いた。

「さすがメガネ君だ。感謝する。君はいつも気が利いて助かるな。私の女房役として、これからもよろしく頼む。ありがたや」

「いやはや、この程度でそこまで褒められるとは。照れますな」

 私はねくら氏の方を向いた。

 先ほどまで喜びで宙に浮きそうだった女性の表情が豹変していた。大切にし過ぎて生まれた手元のチョコ汚れと、憎悪に満ちた眉間のしわが、暑さ厳しい夏に戦慄の寒気を呼んだ。

「私の幸せ、邪魔しないでくれる」

 私はメガネ君の方を向いた。助けを求めた。しかし、彼は首を横に振った。仕方なく、改めてねくら氏の方を向いた。

 ねくら氏は、通常より数段低くおぞましい声を続ける。

「デリカシーないわ、人の大事な物奪おうとするわ。しかも、メガネ君を女房呼び? 何様なの。付き合ってもないのに」

「いや、そんなに怒らなくても……」

 その瞬間。怒りの籠ったことが、小気味良いリズムで繰り出された。

「は? やめなときな彼氏面。お前程度じゃ負けいくさ。晴れたのにまだ雨ですか。風邪引くわ。何お前、死ぬか?」

 四小節の殺意。刺されたことに気付かないほど鋭利な言葉選び。彼女は韻を踏むのではなく、怒りで韻を踏み潰していた。

 私は逃げるようにメガネ君の方を向いた。

「ねくら氏は糖分が足りないと、こんなにも饒舌に暴言を……」

「いや。理由はそこじゃないと思うが」

 ねくラップで心を潰された私は、再び彼女の方を向くことはなく、上を見上げ、遠くの空へ意識を飛ばした。空は綺麗である。

 その後、無事にチョコを食べたねくら氏は、怒りを鎮めて立ち上がり、意気揚々と再び歩き出した。私は首が痛かった。

心は冷めてもシーパラダイス

「なんだこいつ。やる気ないのか」

 ようやく辿り着いた水族館。館内はファミリー層が多く、はしゃぐ子供とそれに振り回される親、という同じ構図が、至る所で目に入る。足元に注意しなければ、うっかり子供に激突しかねない。我々は混み合った場所を避けるべく、入り口から直進し、少しひらけた場所へ向かった。

 人込みを掻き分け到着したのは、『氷の海にくらす動物たち』という題で、大きな水槽が三つ並んだエリア。まずは、ホッキョクグマの水槽にやって来た。幼少期に一度見た以来、久々にその巨躯を拝むことになった。しかし、その佇まいと迫力には違和感があった。

「ん? ホッキョクグマって陸上最強の生物だよな」

 オスだと体長は2m以上、体重は400kgを超え、鋭い歯と爪でアザラシやイルカなどを捕食する。飢えている時はさらに獰猛で、共食いまですると聞く。だが、どうだろう。目の前の彼は、最強のオーラどころか、肉食動物として最低限の気迫まで完全に失っていた。

 ねくら氏は憐れみの眼差しを向け、メガネ君は何か合点がいったのか、軽く頷いている。

「野生に帰ったらすぐに死んじゃいそうだね。それかここに閉じ込められ続けて生きる気力を無くしたのかな」

「親近感があって良いですな」

 水際で項垂れるホッキョクグマは、虚ろな目で水面を見つめる。

「なんか可哀想になってきたな」

 隣にいたねくら氏からは、相変わらず憐憫の情をひしひしと感じた。彼女は冷めた目で真っ直ぐに水槽を観察している。

「大きい図体が勿体ないね。自らの身体能力を活かさずして、ちょっと泳ぐだけで餌が手に入るニートみたいな生活をのうのうと続けてると、未来への活力も生への執着もなくなってしまうのかな。確かに水槽の中のホッキョクグマは何を頑張っても、餌の量は変わらないし、住環境が良くなる訳でもないよね。可哀想。まるで誰でもできるような仕事を低賃金で日々淡々とこなすだけの無気力な……」

「ねくら。その辺で止めてくれ」

 彼女の眼には、光が灯っていなかった。その様は、無機質な言葉を無差別に浴びせる悪態アンドロイドだった。恐ろしくなった私とメガネ君は、長尺の台詞を遮り、彼女を引き連れて隣接した水槽に向かった。

「こっちは活発に動いているな」

 こちらでは大きさ2.5mの巨大なセイウチが、水槽を端から端まで延々と往復していた。先程までの、生を諦めたホッキョクグマとは打って変わり、エネルギッシュな動きで水面を揺らしている。

「おっきい。強そう」

 ねくら氏から、ようやく女性らしく可愛らしい感想が出てきた。だが、私とメガネ君が安堵したのも束の間、水槽の端まで泳いだセイウチが、盛大にターンを失敗した。お茶目な一面もあるんだなと、声を掛けようとすると、ねくら氏は再び、アンドロイド状態になっていた。

「猿も木から落ちる、河童の川流れ、みたいにセイウチのターン失敗ってこと? イメージにかなり悪影響なんじゃないかな。意味もなくダイナミックな動きをしているだけで、結局は野生のセイウチとは身体能力に差があるって事がばれちゃうんじゃないかな。巨体も牙も飾りで、本物とは言えないよねって。セイウチっていうブランドのイメージに守られてるだけだねって。彼には、自分という素材で勝負する意識が必要だよ。高級ブランドの香水みたいに、ブランド力に頼っただけの強い匂いでは、この先が……」

「いきなりチャットGPTみたいな文量出すの、止めてくれ。怖いから」

「ねくら氏。あれはあれで、逆に野生のセイウチと差別化できているのでは……? 愛くるしさ、いとをかし」

 ねくら氏はハッとした表情でメガネ君を見た。

「確かにそうかもね。というか、意外と能力差はないのかも」

「貴様らは何を見に来てるんだ」

 呆れる私を余所に、ねくら氏とメガネ君によるセイウチのブランディングディスカッションが開催された。彼らは、セイウチの水槽を離れた後も、しばらくその討論を続けた。

「その話し合いに何の意味があるんだ」

「全部に意味を求めるなんて。無粋な男だね」

「うぐ……」

 彼女はスタスタと先を歩いて行った。

 その後、我々は水族館の生き物を堪能した。見識ある大人の観察にえない言葉を残しながら。
 動物が飼われて生きる様に厭世観を抱くねくら氏と、ただ無邪気に楽しむメガネ君。二人は普段の性格が逆転しているように見えた。

「アデリーペンギン……。目元が白く縁どられていて、何とも可愛らしいですな」

「交通系ICペンギンだ。ごめんね。いつも自動改札機に叩きつけて」

「カワウソと握手できるらしいですぞ。まるで赤ちゃんと触れ合う時のような心がキュッと引き結ばれた感覚……」

「ねぇ。カワウソの反対側に鯉の池があるよ。凄い。投げ込まれた餌にめちゃくちゃ群がってる……。一方はアイドルとしてたくさんの注目を引き寄せ、一方は投げ込まれた一つの餌を必死に奪い合う。メガネ君、これはカワウソの握手じゃなくて、図らずも格差社会を体現してしまった水族館の悪手だよ」

「プレーリードッグは動きがチャーミングですな。癒しとはこのこと」

「何か、やたらと世の趨勢を見通したような顔してるけど、動きがポンコツなんだよね。さっきから斜め上眺めてるけど、壁を登って脱出しようとしてるのかな。でも、結局、壁際の土を掘り返すだけで。かと思えば、急に松ぼっくり地面に埋め出すし。馬鹿なのかな」

 私は言葉数が減り、ただねくら氏の動物の生態講評を聞くことが主体となった。楽しいことに変わりないが、何か暗い空気が心に溜まる。
 フラミンゴを観察していた際、メガネ君が無言で写真を撮影していた。その後ろ姿から、彼の中にも同じ気持ちがあることを察した。

 私は耐えかねて、ねくら氏に問う。

「え、ごめん。楽しい?」

「楽しいよ?」

 楽しいらしい。

「きっと彼女なりの楽しみ方なのでしょうな」

 納得はできなかった。

ロッテリア、中弛み

 間もなく日が沈み始める夕方頃。我々は水族館を後にし、隣接する建物内のロッテリアで休憩を取った。私とメガネ君はハンバーガーを注文し、ねくら氏はカフェラテを飲んだ。

「疲れたね」

「色んな意味でな。というか、大丈夫か。また、何も食べずに飲み物だけだが。食べないとさっきみたいに体力無くなるだろ」

「うーん。気分だよね」

 私の経験則でしかないが、女性は気分で体調を決める人が多い。食や運動を含めた日々の生活にこそ、その要因はあるというのに。

「いや、何か口にしておいた方がいいだろう」

「食べてって言われて、食べたくなるもんじゃないしさ」

「自由に食べましょうぞ」

 メガネ君が仲裁したので、従うことにした。桜新町から八景島に移動し、水族館内を巡り、乳酸が溜まった足。その足で着席した際、疲労がピークに達していることを悟っていた。一日中歩き回る日の疲れは、家に帰った後ではなく、意外と夕方頃に訪れる。故にねくら氏と舌戦を交える気も起きなかった。

「それにしても、やはり疲れましたな」

「私もだ」

「たまに全く疲れずに一日中バイタリティ満タンの人っているよね。あれに憧れます」

「なら、少なくともちゃんと食べろ」

「それは気分じゃないなぁ。じゃあ、憧れるのをやめましょう」

 口だけは威勢の良い大谷である。やはり、あれは日々の鍛錬を怠らないものができる宣言だと思った。食も運動もせず、才能だけで美醜の有利な側に立つ人間が発して、様になる言葉ではない。

「ちゃんと食べて、運動しろ」

「なんか、親みたいなこと言うね」

「私の心、ねくら知らず……。だな」

 メガネ君は首を傾げた。

「親の心、子知らずと、かけましたか。うーん……」

「雪うさぎよりは巧みな言葉遊びだろ」

 疲れていたせいか、その後、三人はぽつぽつと細切れに会話をするのみで、30分ほど時間を潰した──。

アクアライドで腹は減り

「お腹減った! いっぱい食べたい!」

 我々は八景島内の中華料理屋にいた。目の前には酢豚、回鍋肉、チャーハン、餃子が並び、ねくら氏の取り皿にはかなりの量がよそわれいてる。傍らに置かれた大ジョッキの生ビールは、一瞬で半分ほどが彼女の胃へ放り込まれていた。

「やっぱりちゃんと食べないとね。人間だもの」

「本当に気分次第で行動が偏る奴だ。そして相変わらず飲むスピードが速いな」

「ごめんね。振り回されてね」

「謝罪の気持ち全くないだろ」

 ねくら氏は一口で餃子を食べ、チャーハンと主菜を手際良く口にすると、すぐさまビールを飲む。

「可愛いの求道者たる姿は欠片もないな」

「アトラクション乗って、びしょびしょになったら、なんか急にお腹空いて……」

 彼女の横にいたメガネ君も、うんうんと頷く。

「体を動かせば、腹は減るもの」

「別に運動したわけじゃないだろ」

 ロッテリアでの小休憩後、我々は水族館近くのアトラクションに乗ることにした。『アクアライド』という、人工で作った急流をチューブ型のボートで進む乗り物。暑さと疲れを吹き飛ばす爽快感を得ようではないかと、提案したところ、すぐ二人の承認は下りた。

 30分ほど順番待ちの列に並び、いよいよ三人で円盤型のボートに乗り込むと、座る場所にはいくつか選択肢があった。

「どこに座れば濡れないかな」

「どこに座ろうが大して変わらないだろ」

「いや、案外何か法則があるかもしれぬ」

 結局、係員に急かされて我々は適当な場所を選んで座り、そのまま急流下りはスタートした。
 流れにもまれたボート内には、幾度も水が浸入した。大きな波にもろに襲われるねくら氏を見て、私とメガネ君は笑った。その笑っているメガネ君も、水しぶきを繰り返し浴びた。どうしてか私はほとんど濡れなかった。結果、びしょびしょのねくら氏とメガネ君。無傷の私が生まれた。

「ははっ! 私の勝利だな!」

 降り口を出たところで、私は高らかに宣言した。

「肩がびしょ濡れ……」

「私は背中が大いに濡れましたな」

「でも、何か夏らしくていいね」

「濡れた方が得するアトラクションだったかもしれませんな」

「濡れないのは逆に空気読めてないというか……」

「趣きがないですな。野暮と言いますか……」

「……」

 水に濡れた二人のテンションについていけなかった。どうやら負けたのは私のようだった──。

「はしゃいだらお腹空いたかも」

「それではご飯を食べに行きましょう」

 ──ということで現在、中華料理店に至る。

花火

夏が始まるスターマイン

 しばらくの間、三人は夢中になって料理を貪った。

「これから花火あるんだよね」

「打ち上げ花火。近くで見るのはいつ以来でしょうな」

 八景島では7月から10月の間、打ち上げ花火のイベントが開催される。スマホでサイトを検索すると、約10分程で2500発の花火が打ち上がると記載されていた。デジタル制御により、流行りの楽曲に合わせ、音とシンクロした花火が上がるらしい。ふと、窓の外を覗くと、すっかり夜空だった。イベントはもうすぐ始まる。

「よし。食べたら行くぞ」

 一同は逸る気持ちか、空腹か。どちらかはわからないが、手早く夕食を済まし、中華料理屋を後にした──。

 ──それでは、音と光のライブエンターテイメント、花火シンフォニア、スタートです!

 八景島レストラン街の前、左右に延びたボードウォークに、たくさんの人が集まる。開始前、全員が座って待機している際は、所狭しと櫛比する状態で息苦しかったが、いざ立ち上がると海風が心地良い。
 会場中に音楽が流れ、バンッと最初の花火が鳴り響く。今日の疲労など忘れ去り、ただ鮮やかで美しい閃光に、ひたすら目が釘付けになった。

 10分という短い時間で、密度の高い花火が披露された。赤、青、緑の菊と牡丹。不規則に動き、バチバチと弾ける蜂。闇夜に金色を残す、豪奢な枝垂れ柳。繰り出される花火は、音の上で踊っていた。

 曲は山下達郎の『SPARKRLE』、アイナ・ジ・エンドの『Love sick』、Adoの『向日葵』の順で流れていく。
 クライマックスは、Mrs.GREEN APPLEの『青と夏』と共に、黒いキャンバスを派手に彩るスターマイン。予想を超えたクオリティの花火に我々は圧倒された。

「これは凄い」

「こんなにレベル高いんだね」

「割と感動したな」

 7月上旬。少し遅いが、眼前で輝いた花は、夏が始まった合図に思えた。

広がる火花と落ちる風情

 線香花火は、落とさず味わうが正解か。落ちるのも含め風情なのだろうか。

 心地良く静かに鳴った火花は、しばらくしてその生命を希薄にする。枝分かれは数を減らし、細く、弱くなっていく。
 火花を散らしながら、生まれる無音。それはどうしてか、波音に負けない。私は火が消えるまで、線香花火を完遂した。

「すごい」

「さすがですな」

 彼らが一言ずつ残した後、しばし静寂と付き合う。7月14日、午後21時の砂浜。八景島へ到着した際に見た海の公園とは、まるで様子が違う。過ぎていく夏を感じた。

 線香花火の風情はどこにある。パチパチと弾けて連鎖する音か。この無音か。火球が呆気なく落ちる瞬間は切なく、一方で、そのともしびの終息を見届けるのも胸が詰まる。

 私はいつも火球の命を延ばす。紙縒りを安定させ、風を防ぐ。落下の風情よりも、落とさずに見る全てを楽しみたい。

 純粋に愉快で楽しい時間を、違和感なく共有できる友人は、歳を重ねるにつれ減っていく。その友人と今日のような日を過ごす事も、恐らくもう、そう多くはない。
 だが、来年もかき氷を食べよう。花火も見れるといい。20代半ばの中途半端な立ち位置が、我々の関係性をどう左右するか知らないが、何にせよ、私は火球を途中で落とさない。

 勝手に落下されたら、致し方ないが、それはそれで人生の風情なのだろう。
 きっと、まだ暫くは彼らとこのまま。今日のような日がまたあるといい。

「また来年の夏に」

「御意」

「無粋だね。わざわざ口約束なんて」

「うるさい」

 夜気に惑わされ、もの悲しさの幻を見ていた。再開の約束は、我々がまだ季節の半ばにいる事を教えた。

 夏のはてはまだ見えない。

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