【エッセイ】是でも非でも、夜空には花火
星野珈琲にて
とある休日、私とねくら氏は昼間から星野珈琲で駄弁を交わす。ところどころに電球色が灯る程度の暗い店内。私は雰囲気に飲まれたのか、取るに足らない話を、重々しい口調で始めていた。
「理想のプロポーズを聞いてくれないか」
「まだ相手もいないのに?」
的確かつ迅速な返答に面食らう。
「正論を突かれて胸が痛いが、思いついたので、聞いてほしい」
「いいよ」
意外にも容易く承諾を得た。完全独り身の現状を棚に上げ、理想のプロポーズを考えた憐れな男性を笑いたいのか、それとも内心呆れているのか、彼女は何かを隠すようにぎりぎりの無表情を保っている。とにかく話を進めたい私は、特段それを気にしなかった。
「では、我が妄想の世界に入ってくれたまえ。貴様が仮初めのフィアンセだ」
「気持ち悪いけど、いつものことか」
彼女は端的に人を傷つけることに長けている。この毒舌もいつものことである。不気味な我が言動と同様に。
「まずは想像してくれ。季節は夏の夕暮れ。我々はハワイ、アラモアナのビーチにいる。オレンジの夕日に照らされた砂浜。足元からは寄せてくる波の音。どこか胸を締め付けるような感動、そして哀愁が我々を満たす。手を繋ぎ、波際をゆったりと散歩していた所、ふと立ち止まり、向かい合い、目を見つめて話し始める」
「意外とロマンチックだね」
「では、始めるぞ。従順な彼女で頼む」
「善処します」
我々は遥か南国の地に思いを馳せる。
プロポーズと波の音
打ち寄せる波の音。高く響く海鳥の鳴き声。水平線に沈みゆく夕日と、反対側には陽に照らされてそよぐヤシの木。かつて、三島由紀夫の『仮面の告白』の中で見つけた、「旅の仕度に忙殺されている時ほど、われわれが旅を隅々まで完全に所有している時はないからである」という一文は、こうして妄想で旅をしてみると、その意味がよく分かる。我々の想像力は無限だ。そして、隣には妄想の世界へ見事に順応したねくら氏がいた。
「ハワイは素晴らしいな」
「うん! すっごく楽しい。連れてきてくれてありがとう!」
「そうだな。今日は楽しかった。バンジージャンプにトライアスロン。色々やって本当に楽しかった」
「うん。体はボロボロだし、絶対に一日に詰め込むものではないと思うけど、楽しかった!」
「サーフィンもしたかったな」
「そうだね! 私の生命が心配になるけど、やってみたかったね!」
「さて、大事な話がある」
「急だね! どうしたの! 私、ちょっと疲れてへとへとだけど、頑張って聞くよ!」
「へとへとでいい。人間だもの」
ねくら氏の笑顔が少しずつ引き攣ってきていたが、プロポーズで頭がいっぱいの私は気付かない。
「そうだよね。へとへとでもいいよね!」
良い訳がない。これを聞いたら相田みつをも憤慨するだろう。しかし、今はプロポーズを成功させることが至上命題だった。話を進めていく。
私はポケットから徐にリングケースを出した。高級感のある黒の立方体。通例通りいくのであれば、ここで彼女に箱を差し出し、ぱかっと両手で開き、指輪の御開帳となる。しかし、私はそうはいかない。それではつまらない人間の仲間入りである。
取り出したリングケースを開き、中に納まっていた指輪を、自らの右の小指に差し込み、私はその小指を立てた右手を高く掲げた。
「私が今、掲げているもの。何だかわかるか」
「ゆ、指輪だよね……?」
「そうだ。こっそり君の指のサイズを調べ、オーダーメイドで作ってもらった」
「え、どういうこと……!」
「どういうことだと思う」
ここで聞き返す我が趣向。なんとも気味の悪い態度である。
「プ、プロポーズってことかな……!」
「半分正解だが、半分違う」
「半分……?」
この状況で指輪出されて、何で半分しか合ってないの。というツッコミを、ねくら氏は恐らく心の中で叫んでいる。今はとにかく話を進めたい。
「これは丹精込めて用意した指輪だ。職人に頼んで、類を見ないデザインにしてもらった。1.5カラットのダイヤはあまりにも眩しい。総額300万だ。それが君の指にジャストフィットする。どうだ、素晴らしいだろう」
「うん。嬉しいけど……」
ねくら氏は恐らく、明け透けな説明が無粋すぎて身の毛がよだつような思いをしているが、構わない。
「だが……」
「だが……?」
「不平等だと思わないか」
「不平等……?」
「片や指輪を受け取るだけだ。片や、何か月も前から入念に準備を始めた。友人の協力も得ながら試行錯誤を繰り返し、汗水流した精励恪勤の末に獲得した血と涙の結晶とも言える大枚をはたき、豪華絢爛な指輪とプロポーズの舞台を用意した。この日を迎えるために、時間とお金をどれほど費やしたことだろう……。私は思う。昨今の男尊女卑を訴えるムードなど片腹痛い。降って湧いた高額の僥倖に、棒立ちのまま軽く手を伸ばせば掴めてしまうなんて、なんて大層なご身分だろうか。実にあっぱれだ!」
「……」
「そこでだ。こうするのはどうだろう」
私は強く握った300万の指輪を、右手小指から外し、砂浜へ全力で放り投げた。30m程宙を舞った。
「なっ……。何してんの」
さらに、肩に下げていたトートバッグから、ビニール袋を取り出す。その場にトートバッグを置き去りにし、ビニール片手に指輪が飛んでいった方向へ走る。先程投げた300万の指輪は見当たらず、どこか砂の中に隠れているままだったが、むしろ喜ばしい。狂気のエンターテイメントは続く。私は手招きしてねくら氏を呼び寄せた。
彼女は困惑の極地に辿り着いた顔をしている。興が乗った私は、サーカス団の司会の如く、大仰な動作と声でもう一つの見せ場を披露した。
「このビニール袋の中には、おもちゃの指輪が100個ほど入っている。それも、こうだ!」
振り回されたビーニル袋から、砂浜中におもちゃの指輪がばら撒かれた。
「日没まであと少し。しからば、制限時間は30分にしよう。砂浜にまぎれたダミーの指輪100個を掻き分け、本物の指輪を見つけてくれ。私はすぐそこの木陰で読書でもしていよう」
夕日に照らされたねくら氏は、呆然としていた。
「一日の終わり。今日はバンジーとトライアスロンで、体は既にボロボロだろう。夕飯を前に腹も減り始めただろう。後は幸せのままホテルに戻れると思っていただろう。だが、残念。私という人間は甘くない」
感無量の気持ちで、仮初めのフィアンセ候補を見つめる。そして、大きく息を吸い込み、満を持して用意した決め台詞を叫ぶ。
「もし一時間以内に見つけ出せたら……。結婚しよう!」
「死ね」
夢の花火
我々は妄想から脱出し、再び星野珈琲の薄暗い店内に戻ってきた。
「勝手に妄想から出るな。従順な彼女はどうした」
「この世にいないから。指輪の散乱を許せる、頭がお花畑な女性は」
「何はともあれ、以上が理想のプロポーズだ。どうだろう?」
「一生結婚しないで。彼女も作らないで。作れないと思うけど」
私は彼女の毒舌を意に介さず、目の前のコーヒーを啜った。
「もし指輪を見つけてもらえた暁には、花火を上げる。”大成功”という文字がハワイの夜空に浮かび上がるだろう」
「いや、失敗する確率のが高そうだけど」
ねくら氏は手に持ったカフェモカを啜った。
「その場合は”大失敗”の花火を打ち上げる」
ねくら氏はカフェモカを吹き出した。案外、楽しんでいるのかもしれない。
──その後、メガネ君が合流した。
メガネ君は、我々の妄想の一部始終を聞くと、一言だけ残した。
「素晴らしい悪夢ですな」
悪夢の空に打ちあげる花火。なんて愉快で酔狂な遊びだろうか。怪訝な顔を続けるねくら氏を余所に、私は未だ夢現の如く妄想に浸っていた。それは目の前のコーヒーに、色とりどりの花火を咲かせた。