コロナ禍で存在を消された私たち 混乱と狂気(凶器)と化した7か月

偽陰性
発症月:2020年4月
ペンネーム:田辺明里
居住地:西日本 

■同居家族について
高齢の両親。子2人。

プロローグ: 現実と夢の境目

2020年、私は、一体どこで何をしていたのか。途中から自分が現実にいるのか、夢の中にいるのかさえ、分からなくなった。
いや、「もう、これは、現実ではない」と思い込みたかった。自分は、今ずっと悪夢を見ていて、きっと夢から覚める日が来るんだ。私が見ている今の家族の姿は、幻だ。そう思いたかった。でも、いつまで経っても夢は覚めなかった。

それまで、培ってきた自信や自己像もあったし、贅沢はできないだろうが子どもには明るく温かく接しようと自分なりには心掛けていたつもりだった。
描いていたそんな母親像もそれがコロナ感染疑惑により瞬く間に、崩壊した。
ある時は、電気コードで自分の首をおもいっきり絞め、
ある時は、包丁を握りしめ自分の首を刺そうとし、
またある時は、1階で私の高齢の母と一緒に寝たいと泣き叫ぶ我が子に
「親にコロナを感染させてはまずい」と殺気立つあまり、
大声で「うるさい!」と叫びながら、自分の首に向けていたその尖った包丁の矛先を子どもに向けていた。
固まる我が子の顔に、咄嗟に我に返り「ごめんね、ごめんね」と泣きながら抱き着いた。

家の中は、隔離に失敗し、カオスだった。

児童虐待
殺人未遂

そんな言葉が頭をよぎった。
「私って、こんなことする人間だったんだ・・・」
自分の恐ろしい残虐性に、ただただ呆然とすることしかできなかった。
人間、極限状態になると、何をしでかすか分からない。
それまで、他人事のように見ていた殺人や児童虐待の事件のテレビニュースが、まるで自分ごとのようだった。
どんなに言い訳しても、言い訳できない。
私の中で、これからも去年の記憶は決して消し去ることはできないし、
子どもにも自分のこんな狂気な姿を晒してしまい、心に一生残り続けてしまうだろう。

2020年4月: 生き地獄の始まり

4月初旬のある日、舌がなんとなく、ザラザラする。
気に留めないようにはしたが、ほんの数日前に、アメリカのニューヨークで新型コロナに感染し重症化した日本人医師が、発症前に「舌がザラザラした」と取材を受けていたのをテレビで見たばかりだった。
「まさか」という思いと、なんとなく不吉な予感がした。
思い当たる節はあった。数日前に友人と飲食をともにした。
でも、あの頃でも、感染状況は広がっていたし、私も高齢の両親と暮らしている身。
感染してないという証拠がなければ、当然ながら、会うという選択肢はない。
その友人から、会う前に発熱したと聞いていた。
ただ、ちゃんと病院に行き、レントゲンも撮り「新型コロナではない」と医師から診断を受けていた。
本人も人混みには行ってないし、感染も思い当たるようなことがないと言う。
あの頃は、レントゲンを撮り、肺が白くなっていたら「新型コロナ」だと、医師も含め一般の人もそんな認識の人が多かったのではないだろうか。
今であれば、無症状という病態も理解できるが、医師やメディアの言うことを信用していた私も無知だった。
ただ、感染状況が広がっている中、友人と会ってしまったという私にも落ち度はあった。

不吉な予感は的中した。

舌のザラザラに気付いてから2日後、発熱した。体温が37.8度まで上昇した。
1時間おき、いや、もう怖くて10分、15分おきに測っていた。
37.8度まで上がったと思ったら、次に測ったら、36.8度まで下がり次は、37.5まで上がる。熱の乱高下を繰り返し、測る度に体温は全く違った。
発熱してるのに、それでいて、身体は別に怠くもない。
体内で一体、何が起こってるの?という恐怖と、
「コロナだったらどうしよう」という一抹の不安。
既に、親と子どもとは接触している。最悪のシナリオが頭に浮かぶ。
まずは、隔離しなくては、そう思った。
未だ幼い子供を、高齢の親には任せることに躊躇いがあったし、子どもが既に感染していたら、親にうつすことになってしまう。
私は、子どもより「親の命」を選び、我が子を道連れに同じ部屋で過ごすことを選択した。いや、選択したんじゃない。
高齢の親を守る為、幼い子も見てくれる人がいない為、そうせざるを得なかった。
その日から親は1階、私と子どもは2階の同じ部屋で過ごすことにしたが、その隔離が手遅れだと分かったのは、数日後に子どもと父が発熱してからだった。

4日目の夕方、首のリンパがジリジリ、ジリジリ、急に熱くなりだした。
まるで、「何か」が首を通って更に身体の奥に入って行くかのようだった。
「なんなんだろう、気持ち悪いな」
そう思いながら、氷で首のリンパを冷やし、いつも通り子どもたちと一緒に寝床についた。
夜中、ふと目を覚ますと、隣りで寝ていた下の子が、苦しそうにしていた。
熱を測ったら、40度の高熱を出していた。
「やばい」
「肺炎」という文字が頭をよぎる。パニックだった。
私は、どうなってもいい。子どもだけは、子どもだけは助けて欲しい。
気づいたら、夜間診療所に電話していた。
「子どもが高熱を出したんです。診て頂きたいのですが」
病院側もあの時期は、怖かっただろうと思うし、自分も子どもも感染していることを思えば、病院側に感染させるリスクもあった。それでも、子どもが肺炎で苦しむ姿を想像すると、いてもたってもいられなかった。何かせずにはいられなかった。
「県外には行ってないですか?」
「行ってないです。」
「こちらに来ても、検査機器とかもないですし、検査とかは出来ないですよ」 
身勝手だが、友人と会ってから、体調がおかしいということは言えなかった。
それを言うと、子どもを診てもらえないと思った。
子どもにも自身にもマスクを二重にし、事故を起こすんじゃないかと思われるくらい猛スピードを出して、車で夜間診療所に向かった。
子どもも眠かったのか、怠かったのか、診察室では何か言葉を発することもなかったのは幸いだった。
夜間外来の医者に診察してもらったが、コロナかもしれない、とは言えなかった。「コロナ」その言葉を出せば、向こうも怖がると分かっていた。
「風邪ですね。ここでは、これ以上の診察ができませんので、明日近くの小児科にでも行ってください」
医者にそう言われ、解熱剤だけ処方された。自販機でポカリスエットを買って帰宅し、子どもに飲ませた。子どもが朝起きて、熱を測った時にはすっかり熱は引いていた。
熱が引いて良かったけど、一体何なんだろう。

さすがに、ここまでおかしな現象が続くことについて、友人にメールした。
「私も発熱してるし、子どもも発熱したし、まさか、コロナじゃないよね?」と。

すると、その友人から

「自分は何ともないし、コロナじゃないと医者から診断受けてるしね」

と返答があった。
「そうだよね。」
「医者からコロナじゃないと診断されている」と、それを免罪符かのように言われたら、
それ以上、何も返せなかった。
じゃあ、私は、一体どこで感染したんだろう。この症状は何なんだろう。また、振り出しに戻った。

5日目、ついに味覚がなくなった。
ブラックコーヒーを飲んでも、苦さも感じず水の味しかしなかった。
味がしないのは「気のせいだ」と自分に言い聞かせるように、一口ずつゆっくり、何度も口に運んで味を確認した。
でも、何度飲んでも、水の味しかしなかった。
さすがに、やばいと思った。
私が、真っ先に頭に浮かんだのはやはり「親の命」だった。
「もし、私が早めに陽性という結果が出れば、これからの一週間のうちに万が一、親の体に何か異変があったら、親をすぐに入院させて、アビガンを飲ませてもらえる」
姑息な考えかもしれないが、そう考えていた。

その日、保健所に何度も何度も電話した。最初は、まともに取り合ってもらえなかった。
私も、感染経路の可能性として友人と会ったことを言うべきだったのかもしれないが、
まず、友人が医者からコロナではないと診断されていることを理由にコロナだと認めるつもりがなく、本人の意思も尊重すると保健所に正直に話すことができなかった。
結果、「味覚がないこと」「高齢の親と住んでいること」「感染経路は分からないこと」
その三点を何度も強調して、保健所に話した。
熱についても聞かれた。既に4日以上、37.5度前後の熱の乱降下を繰り返していたので、4日以上そういう熱があるということも付け加えた。
最初は、濃厚接触者がいないということで、まともに取り合ってもらえなかったが、私が、恐らく何度も何度も電話し過ぎたのと、最終的に「高齢の親と住んでいること」が効いたのだと思う。次の日、奇跡的にPCR検査を受けられることになった。
舌のザラザラを感じてから、およそ一週間後だった。

PCR検査を受ける病院までの車で走る道中。
「到着する前に、電話ください」と病院側から言われていたので、途中、コンビニの駐車場で駐車して電話した。
後部座席では、子どもが、いつも通りギャーギャー騒いでいる。
私は、急に、自分が「PCR検査を受ける」という結果が良かったのかどうか分からなくなった。
これから、陽性になるか、陰性になるかで、自分の運命が決まってしまうかのように、
天を仰ぎ、運転席で動悸が止まらなくなった。
私が先に陽性となれば、親にこれから万が一のことがあった場合、早くに対処ができる。
でも、「陽性」となった場合に、これから起こりうる周囲からの目や仕打ちを想像すると急に怖くなった。
当時、ニュースで、感染者には、村八分のように引っ越しに追いやられたり、周辺で誹謗中傷の張り紙がばらまかれた等の報道がなされているのを思い出していた。
全ては、親の命を救う為、親の命を救う為。
そう自分に言い聞かせ、病院に向かった。

病院の駐車場で待機している時、子どもは、相変わらず、私のかばんの中身を出しながら、ワーワーはしゃいでいた。
気づいたら、自分の財布のお金が全部ばらまかれ、車のありとあらゆるところに、硬貨やお札が散らばっていた。
私は、動悸が止まらなくなっていて、怒る気力も拾う気力もなく、
近くにいるはずの子どものはしゃぐ声もまるでどこか遠くで聞こえてくるようだった。
病院側から電話があった。
「〇番の入口から入ってください」
2人の子どもを連れて、中に入ると、防護服を着た看護師さんに案内された。
PCR検査を受ける間、子どもは待合室で看護師さんに診てもらえることになり、
私は、診察室に入った。
もう一回、医師から味覚がないことと熱が4日間以上あったことを確認され、検査を受けた。
子どもがあまりにもはしゃいでいたらしく、看護師さんに
「子どもさんを車の中で待たせておくから、車の鍵を貸してほしい」
と言われ、看護師さんに車の鍵を渡していた。
検査が終わり車に戻ると、下の子は寝ていて、上の子もおとなしくなっていた。
車の中に散らばった硬貨を看護師さんが拾い集め、小袋に入れてくれていた。
「あ、すみません、ありがとうございます」
小声でそう言いながら、車に乗り込むとまた動悸が始まった。
看護師さんも感染防護用眼鏡の奥から、私の様子に終始心配そうにしながら見送ってくれた。
やっと、家路に着いた頃には、疲れ果ててぐったりだった。

次の日は、もう37.5度以上の熱は出ていなかったし、コーヒーを再度飲んでみたら、
コーヒーの味がした気がした。味覚障害もやっぱり気のせいだったのかもしれない。
そう思いたかった。
でも、その日の夕方、そう思えない事態がやってきた。
ベッドに横たわっていると、志村けんが言っていたような、何人もの人が上に乗っかって来るような倦怠感がいきなり襲ってきた。
「え、これ、何?」
時間にして、5分だったのか、10分だったのか。
それは、徐々に徐々に、ゆっくりと、上に乗っかって来る人が多くなっていくと同時に
自分の体がベッドに飲み込まれていくようだった。
倦怠感というのでもない。何人もの人が覆いかぶさってきて、身動きが取れなくなる感覚という方が正しいかもしれない。
志村けんが言っていた言葉の意味が一瞬で分かり、「あ、これ、私、死ぬな」と悟った。
ベッドに沈んでいく体を感じながら、咄嗟に兄に遺書のようにメールしていた。
「私、死ぬわ」と。
あとで、兄からは、私のそんなメールに
「お前、アホか、何言ってんねん」
とだけ、返信が来ていた。

PCR検査の結果が出るまでの間、どう過ごしたかあまり覚えてない。
ただ、先日、いきなり襲いかかってきたあの経験したこともない薄気味悪い倦怠感。あれで、コロナだと「確信」を持ってしまっていた。
「陽性」になると、腹をくくっていた。
このあたりは、閑静な住宅地だし、私が万が一「陽性」ともなれば、私というより、実家である親に一番迷惑がかかってしまうことが気掛かりだった。

検査して3日後、保健所から電話が掛かってきた。
「田辺明里さんですか?」
「はい」
「PCRの検査結果ですが・・・」
息を呑んだ。
「陰性です」
そう言われた瞬間、安堵で腰が抜け、床に座り込んでいた。
「陰性ですか、、、良かった」
近くにいた母からは、

「ほら、やっぱり陰性じゃない」

という声が聞こえてきた。
その後すぐに、我に返り、先日のあの倦怠感のことを伝えた。
「でも、先日、倦怠感があったんです。あれは何だったんでしょうか!?」
「PCR検査も精度は70%と言われてますので、様子を見てください」
「70%・・・」
御礼を言って、ひとまず電話を切った。
一方で陰性と言われ、一方では精度は70%と言われ、一体どっちを信じれば良いのかわからなかった。
でもあの倦怠感は、一体なんだったんだろうか。
やはり、不安がよぎる。

「もう今日から1階で寝なさいよ、子ども達だって私と寝たがってるじゃない」
母がそう言いながら、もう母は子どもを抱っこしていて、子どももキャーキャー言いながら、母に抱き着いていた。
「飛沫が、、、飛沫が、、、」と興覚めしながらも、咄嗟に止めることができなかった。
もう、どうすれば良いのか分からなかった。
私は、陰性なの?陽性なの?わけが分からなかった。
その日は、子どもと母を引き離す気になれず、仕方なく母と同じ空間で寝ることにした。
でも、次の日にはやはり、不安に駆られ、2階での隔離生活を再開することにした。

その週、なぜか母は発熱せず、とうとう父が発熱した。
父は怠いと言って2~3日間ほど寝込んだ。
やっぱりだめだ。いっかんの終わりだ。父にうつしてしまっていたんだ。
重症化すると言われる一週間後まで、もう生きた心地がしなかった。
その頃から、人格はもうとっくに崩壊していたんだろう。

私は親殺し
私は親殺し
私は親殺し
親を殺すなんて思ってもいなかった。
私が、実家に帰ってきたせいだ。
私が、家を探さなかったせいだ。
私が、友人と会ったせいだ。
全部、私が、全部、私が。
全部私のせいだ。

そんな言葉を頭で繰り返し反芻しながら、二階の隔離部屋で手を震わせながら包丁を手に取り、包丁の尖った先を自分の首に向けていた。
「コロナに感染している私が今、死ねば、全部解決する」
そんな思いだったのかもしれない。
既に父にうつしているのに、死ねば解決するわけでもなかったが、もうまともな思考回路ではなかった。
とりあえず、折り畳みベッドで1階につながる階段を封鎖していたが、その時、子ども達は、二階の廊下で「1階で寝たい」と泣き叫んでいた。
母も、心配して階段の途中まで登ってきて、

「陰性だったんだし、もうこっちに来なさいよ」

と子どもに話かけている。
子どもが私のいる隔離部屋に入ってきて、「1階に行きたい」「1階に行きたい」と泣き叫びながら、更に私に訴えかける。
咄嗟に、持っていたその包丁の矛先を子どもに向けながら、「うるさい!」と叫んでしまった。
錯乱していた。
あとは、冒頭で記した通り、子どもは、恐怖で固まっていた。

5月: 家族の異変

5月上旬。父は、2~3日寝込んだ後、重症化せず無事だった。「良かった」とホッと胸を撫でおろしていた頃だった。
前年までほぼ毎週、自宅に遊びに行かせてもらっていた友人が、5月上旬に私のことを心配してくれ、家の外のガレージまで来てくれた。
ちょうどその時、友人と面識があり、友人の自宅まで毎回車で送ってくれていた父もガレージにいた。
友人が、父にいつも通り
「こんにちは。」
と挨拶すると、父は友人に、 

「どちらさんだっけ?」

と返した。
そのやり取りを見て、絶句した。
以前、テレビで、高齢者施設でクラスターが発生した時、利用者の方の認知機能が著しく低下したとの報道を見たことを瞬時にして思い出した。
友人は、少し戸惑いながらも、
「小畑です。」
と答えてくれた。
私は、父に、
「今年1月も、お父さんが車で小畑さんの自宅まで送ってくれてたじゃない?」
と焦って言うと、

父は、「えーっと、おうちはどちらだっけ?」
私「〇〇駅から、ずっと上がって行ったとこだよ」
父「〇〇駅?えーっと、、上がって行ったとこ・・・?」

興覚めした。
その後、友達と何を話したのか、覚えていない。

5月下旬。発症から2週間過ぎても、喉イガイガ、下痢、倦怠感、微熱が続いていた。
当時、無料のオンライン医療相談「ラインヘルス」によく相談していて、その当時のほとんどの医師も「重症化もしなかったし、発症から二週間経ったしもう大丈夫」という認識だった。
「二週間で闘いは終わった」そう思っていた。
終わったはずなのに、症状もあり「何かがおかしい」と感じ始めていた。
そうこうしているうちに、5月下旬に、また発熱した。
加えて、息苦しくなった為、発熱外来に行き、レントゲンを撮ってもらったが
「新型コロナではない」という診断だった。
先日、父の状態を見てショックだったこと。また、子どもが前月から「喉が痛い」と訴え続けていたり、歩いているといきなり「息苦しい」と倒れこんだり、どこにも打ち付けてないのに、身体のあちこちが痛いと言い出していた。
アメリカでコロナに感染した子どもが、後に川崎病に似た症状が出てくるとのニュースを見ていたので、その症状が出てくるのではないかと思うと不安で気が気でなかった。
自分の症状に加え、家族の症状がこれからどうなるのか、恐怖だった。
連日睡眠不足が続いていたこともあって免疫力低下もあったのか、発熱外来に行った後、歩こうとすると足に力が入らず、歩けなくなるという現象が起きた。

そして、その次の日の朝、足から力が入らなくなり、意識を失い救急車で運ばれていた。
発症当初から私は、家で「コロナだ」「コロナだ」と騒いでいた為、母が病院側に伝えたのだろう。病院側は、そこで初めて、肺のCTを撮った。
しかし、異常なしとされ、またしても「新型コロナではない」と診断された。
意識が遠のいている私に向かって母は、

「コロナじゃないから、安心しなさい!」

と叫んでいた。
家族のことで精神状態が限界だったことや、私が「コロナではないのか」と怯えて医師に相談した為、退院後にその総合病院の心療内科に通うことになった。
私も、母から「コロナじゃないから、安心しなさい!」と言われた手前、自分はもうコロナではなく、「精神病」だと思いたいところもあった。
でも、心療内科に通うことでまた、更なる混乱を招くことになった。


6月~7月: 希望からの絶望

退院後、6月になり、左手足が痺れだした。
加えて、左手首の血管がずっとピリピリしていた。その頃、症状があると、Twitterで検索するようになっていた。
検索すると、同時期にコロナ感染の疑いのある方が、皆、同様に左半身の痺れを発症していたことを知り、「やはり」と思った。
そして、Twitterで情報収集をしたり、交流をする時間が増えていった。
例えば、数年前にコロナとは別のウィルスに感染し、慢性疲労症候群の診断されているフォロワーさんが、コロナに感染した人や感染疑いで体調不良の人に対して、啓発的なツイートを発信してくれていた。早期から「あまり動かないように」等のアドバイスを頂けたことは、大変ありがたかった。
また、コロナ感染疑いのあるフォロワーさんは、「痺れ組」というグループチャットを作ってくれ、痺れや血管ピリピリがどうしたら治るか等、皆、模索している情報を交換し合うことができ、孤独が少し和らいだ。
Twitter初心者の私であったが、皆、2020年のある時期からあらゆる症状を抱え、それが「未知のウィルス」に感染しているのではという不安を抱えており、支え合ったり励まし合ったりして妙な結束感があった。バーチャルにしろ、見ず知らずの方々と「未知のウィルス」の感染疑いで繋がるなんて、きっと、後にも先にもあの年だけだろう。

その頃、2つの病院に通っていた。
一つは、救急時に運ばれた総合病院の心療内科。
その総合病院は、もともと私がPCR検査を受けた病院で、陰性結果を把握していたことや、発熱外来や救急で運ばれた時も「コロナではない」と診断されていて、
「陰性」「コロナではない」と何度も診断されている事が、かえって足かせになってしまっていた。
痺れのことと同時に、感染経路の可能性や発症前後のこと、家族のことも改めて、その医師に話した。でも、発症から既に二か月近く経っていて、当時、後遺症に対する認知度も抗体検査もなく、血液検査も異常なしとされた。結果、「痺れは心因性なもの」とされ、

「まだ、コロナやと思ってはりますの?」

とバカにしたような薄ら笑いで、また、精神薬を増量されるだけだった。

もう一つは、あるフォロワーさんが、ある病院で後遺症が治ったという情報を教えてくれた病院だった。
そのフォロワーさんが言ってくれていた通り、その先生は「新型コロナ」について理解があり、私の状況も親身になって話を聞いてくれ、「何らかのウィルスに感染した」と認めてくださった。嬉しかった。
「ようやく、これで新型コロナに感染していたと証明ができる、家族も治る道筋ができる、症状も治る」と思った。
そして、その先生から、痺れに効くという薬を処方された。治る希望に満ち溢れながら、
その薬を受け取った後、即、服用した。
服用してから数時間後、ジリジリ、ジリジリと、なぜか、左の手のひらの血管がだんだん赤くなっていった。まるで、薬がその血管を通っているのが見えるかのように。
気持ち悪さを感じ、その薬について調べたら、薬事法では「劇薬」に分類されている強い薬で、怖くなり飲むのをやめることにした。
その数日後、左手足の痺れが感じなくなったと思ったら、今度は、右半身に痺れを感じ始め、且つ、身体の筋肉ピクつき症状が出始めた。
体に一体、何が起きているのか分からなかった。後遺症を治すつもりが、劇薬を飲んだことで「免疫暴走」が始まったのではないかという更なる恐怖がまた増えた。
次の診察時にその医師に、
「変な症状が出てきて、その薬はもう飲みたくないです。
初めからきつい薬ではなく、もっと身体に影響の少ない薬にして欲しい」
と話すと、自分の治療方針を否定されたように感じたのか、私はその医師が不愉快そうな顔をしたように感じ、それから通えなくなってしまった。

8~10月: 抑鬱悪化と最悪の決断

この頃になると、医療での治療の道筋が途絶え、絶望的な気持ちになっていた。体重は、5キロ減り、体中の筋肉のぴくつき症状も、徐々に増えていた。また、当時、Twitter内でも、後遺症の方で、筋肉ぴくつき症状が起きているという同じ症状の方を見つけることができず、Twitterを離れて、独自で治す道を模索することにした。
しょうがなく通っていたその心療内科では、精神薬を処方され服用していたが、
筋肉ぴくつき症状は、薬害の副作用により筋萎縮でも起こり得ることを40年以上長期に渡り精神薬を服用されている方のブログで知ってしまい、このままだとコロナ後遺症ではなく、薬害になってしまうとの危機感から、減薬、断薬を開始した。
(結果的に、断薬しても筋肉ぴくつき症状は続いた。)
断薬までに3か月かかったが、同時に薬の離脱症状で絶不眠にも陥った。眠れる時間は、連日1~2時間などもざらだった。
自身の症状が治らないこともあったが、更に家族の体調変化も日々、目の当たりにしていた。
母も急に足腰の怠さや視力の低下を訴えるようになっていて、子どもにも異変が出ていた。
そして、母も子どものその異変に気づいていた。

「まど香ちゃん(上の子)さ、急にすごい汗かくようになったよね。
見て、ほら。少し寝ただけなのに、頭の髪の毛、汗でびっしょびしょ。
去年こんなんじゃなかったのにね。
大丈夫かな。これから、お友達に臭いとかっていじめられないかな」

多汗がひどくなっていることには、気付いていた。
ただ、怖くて、それを口に出すことすらできなくなっていた。
母に、言葉として言われても、ただ黙ることしかできなかった。

「いち香ちゃん(下の子)さ、いきなり皮膚が荒れ出したよね。毎日クリーム塗らないと、皮膚から血が出てただれるみたいになるし。病院で検査しても、アレルギー反応もなかったし、アトピーかな」

これらがウィルスから発症したものだとは証明できないが、体調に明らかな異変が生じていることは、明らかだった。
自分の症状が治らないことの絶望感に加え、家族の症状も治らないという自責の念から、抑鬱も更に悪化した。8月頃からは、家族の身体の異変を受け止め切れず、家にいて家族を見ることすら、もう苦痛でたまらなくなっていた。情けないことに子どもの世話もままならなくなっていて、ほぼ、母に見てもらっていた。もう、現実から背を向けたかった。
4月から様々な症状が出てきて、「コロナ」だと確信するも周りから否定され、治療法も分からない、状況を誰にも理解されない等の孤独は、結果的に「未知のウィルス」「免疫暴走」という恐怖心も、余計に強めたのだろう。次はどんな症状が来るんだろう、このままこのぴくつきの神経症状が悪化するのか、治るのか治らないか等の絶望感は、やがて希死念慮を生んでいた。
外を歩いている時は、上を見上げては、飛び降りできるビルやマンションを探していたし、
下を向いては、身体のぴくつき、左足先の痛みや違和感を気にしながら、ゆっくりゆっくり足を引きずり歩いていた。
咄嗟に車のシートベルトに首を巻き付け、ぶら下がろうとしたり、電気コードを首に巻き付けて思いっきり絞めたこともあった。
身を置いている自分の環境も少し特殊だったということが、抑鬱に更に拍車をかけた。
数年前まで海外におり、経済的な事情により本帰国し、親の実家に身を寄せさせてもらい、生活を立て直し中だった。
現状、パートナーから経済的な支援は受けておらず、非正規雇用という自分の身分も不安定だった。コロナ禍になる前は、働きながら2020年4月頃から正規の仕事を探すつもりでいた。
それが、コロナ禍になり、且つ、自身の感染疑惑、長引く症状によりそれどころではなくなってしまった。
また、職場では「陰性」「コロナではない」と病院から散々診断されてしまったことにより、精神病扱いになっており、実際、通院や体調不良を理由に、毎週2、3日は休んでいた。
いつクビになってもおかしくなく、次の契約更新はないだろうと覚悟していた。
その抑鬱から来る極度の不安は、このままだと子どもを養えなくなるという絶望感にも直結した。
そして、それは、翌年クビになり、4月に収入が途絶えたら、心中をしようという最悪な決断になっていた。
身勝手な決断だ。その決断までもいろいろあった。
一人で自死したかったが、その時は、私なりにそれができない理由があった。
親は高齢で子どもを任せるわけにはいかない。(実際に親から言われる)
パートナーは海外にいて、物理的に預けに行くことが難しい。
近くの児童養護施設について調べたが、性被害が心配だ。

思い込み、思い詰めるとは、恐ろしい。
他にも生きていく方法があったかもしれないが、もうそんな思考回路はできなくなっていた。
実際、実行するまでの準備は、着々と進めていた。
その方法が書いてあるサイトを見つけ出し、スクリーンショットもし、
物も準備し出していた。
(今は、そのスクリーンショットは、削除している。)

こんな母親になるなんて、自分でも夢にも思わなかった。
それから、仕事をクビになるであろう翌年の3月末までは、それを実行するまでのただの時間稼ぎになった。
朝は、カーテンから射し込む光も苦痛だったので、出勤のギリギリまで寝て、夜は薬の減薬により1~3時間の睡眠、そして、仕事や病院に行く以外は、母が好きな韓国ドラマをひたすら見る生活になった。
一回見たドラマの回も、内容が分かっているのに、何度も何度も繰り返し見た。
それは、そのドラマが好きだから、面白いからという理由ではなかった。
「自分は、この現実を生きていない」「自分は、このドラマの世界にいる」と思い込みたいが為に、むしろ、無理やり、テレビにかじりつき、ただただ、家族を見ないようにする為だけに見ていただけだった。
今思い出しても、本当に異常な生活だった。

11月~: 心身回復傾向の兆し

ある日、後遺症のあるフォロワーさんからDMが届いた。孤独に陥り、Twitterも前月から再開していた。
「ツイート、拝見しています。家の状況が似ていた為、メールさせてもらいました」と。
その方は、4世代の家族で同居しているコロナ陽性の方で、家族にもコロナ後遺症らしき症状が残っているとのことだった。数日、お互いの状況などをやり取りさせてもらったと思う。
11月のある日、「Twitterを卒業し、家族との時間を大切にすることにしました」という内容とともに、長文メールを頂いた。
私自身、ツイートには「希死念慮が酷い」と書き込みはしたことがあったが、ツイートにもその方にも、さすがに心中というワードは出したことがなかった。
それは、ただの私の「密かな」決断だった。
でも、なぜか、私の「何か」を察知してか、こんなメールだった。

「もし、あなたが、子どもと一緒に、と考えているなら正解です。
世間的にはダメでも、私が許す。
自分もあなたと同じ立場だったら、間違いなくそうします。
でも、子どもと一緒なんて、本当は絶対ダメだよ。
世界で、自分だけかもしれないけど、許す。
一人でも理解者がいれば、できるかな?」

普通なら、心中を許すと言われたら、心中ほう助に近い。
そんなメールを送ること自体にリスクがあるし、いわゆる、SNSの事件沙汰になる危険性にもなるような内容だ。
でも、私は、そのメールを読んで、なぜか、心底、安堵していた。
心中という発想が自分にあること自体、自分自身に一番ショックを受けていたし、
心中をしようとしていること自体に、自分を咎めていた。
なぜ、そこまで追い詰められているのか、まずその状況を私と同じ立場に降りて理解しようとし、その行為をしようとしていることを、責めるでもなく、諭すでもなく、
その咎めているその心自体に、「あなたと同じ」というメッセージを投げかけてくれた。
現実問題、心中を許してくれる人がいるから、「さあ、心中しよう」ということでもない。
「私だけじゃない」という安心感と、そんな非道なことを考えていることですら許されたという感覚だった。そして、ようやく、自分のそんな醜い心も、自分で受け入れることができた。

そのメールは、最後にこう締めくくられていた。

「でも、私は、あなたのツイートを見ていたら、そういうことにならないんじゃないかと思っています。あなたには、絶対、光がさしてくるって思っています。」

症状や自分が置かれている状況を「心底、理解された」という土台に立てたことで、
私の「心中問題」は幕を引き、その日から徐々に徐々に酷い抑鬱が抜けていった。

12月~2021年2月。数日後、そのフォロワーさんは、本当にアカウントを削除していた。
私はというと、安堵したその日から、少し身軽になったのか、家族のことも自分の心身のことも「考えなくなる」時間がだんだん増えていった。
というよりも、約7か月間に及ぶ張り詰め続けた心の葛藤の末、精神状態は「脱け殻」だったのかもしれない。
それから、その7か月間の空白を埋めるかのように、なぜか、ひたすら空を眺める時間が多くなり、一刻一刻と移り変わる雲の動きを写真で撮り続けていた。多い日で、30枚~40枚になることもあった。相変わらず、筋肉のぴくつきはあったし、左足先の違和感、微熱も続いていた。気にしないように努めたというより、症状があっても「自然」と気にならなくなっていた。そこから、約3か月間かけて、ゆっくりゆっくり症状は消失していった。
7か月間、一枚も撮れなくなっていた家族の写真も、いつの間にか撮れるようになっていた。

(後に知るのだが、写真セラピーと言って、病院や福祉施設で取り入れられているセラピーがあるそうだ。自己治癒力や自己肯定感等を高める作用もあるという。知らず知らずのうちに、そのセラピーを取り入れていたことになる。私の場合、効果があったのだろう。)

2021年現在: 私と家族の状況について

2021年10月、ある日の父と母の会話。
父が台所で、私が去年買ったある健康食品を見つけた。

父「なんだ、この大量のお酢ジュースは。賞味期限が切れてるじゃないか」
母「それ、あれよ、明里が去年、精神的におかしかった時に買ってたものじゃない」

という二人の会話が聞こえてきた。
家族の中では、去年の私は、今でもただの「精神病」だっただけで、コロナに感染していない。

また、ある日の母との会話。

母「明里、ちょっと聞いてよ、今日お父さんと、社会保険労務士事務所に行こうと思って行ったんだけど、お父さんどこにあるか、覚えてないのよ。お母さん、どうしよう、この先不安だわ」
私「・・・・・・」

母は、足腰の怠さはなくなったようだが、視力は低下したままのようだ。
上の子どもの多汗症は、まだ残っているが去年よりは良くなっている。
下の子どもの皮膚症状には、悪化しないように毎日クリームを塗り続けている。
私は、左足先の違和感がたまにある。

ここまで読んでくださった方は、お気づきだろうが、
私は、感染被害者でもあるが、同時に家族を危険にさらし、後遺症を負わせたという加害者でもある。
でも、自業自得と自分を責めたところで、事態は悪化するばかりだった。
自分を責め続けても、現実の世界では生活していかなければならないし、責め続けて思い詰めた先は、自死か殺すしかない。
まずは、置かれている現実の状況を受け入れる必要があったし、受け入れるまでに約7か月かかった。でも、受け入れたからといって、清算されたとは思ってはいない。
今は、その十字架を背負いながら、去年のことで失った自己像に対する修復に日々、努めている。
そして、私は、これからも、社会的に「去年、コロナに感染していなかった者」として生きていく。

最後に(注意書き)

私の症状消失のプロセスを書くと、あたかもコロナ後遺症がメンタルの問題だったのではないかと誤解を招きかねないので、少しだけ付け加えておきたい。
実際は、ここには書ききれないぐらいもっと多くの事柄があったし、あらゆる薬や健康食品も試した。その額は医療費も含めると、総額50万円は優に超えている。最終的には、アミノバイタルやビタミンB12等も服用していたが、結果的に何が効いたのかは、自分でもよくわからない。
今でも、コロナ後遺症のある方、またその疑いのある方を一律にされ、「気のせいだ」「メンタルの問題」だと言う人がいると伝え聞く。コロナ後遺症は、現在、200種類以上の症状があると解明されてきているように、症状やその程度はもちろん、その人が置かれている境遇や状況、また、心理的階段もそれぞれ違う。
もし、後遺症を患っている方、またその疑いの方の心理的階段を見誤り、その方たちに「気のせいだ」「メンタルの問題」という言葉を発することによって、その人を更に死に追い込むきっかけになる可能性もあることを頭の片隅に少しでも置いて頂ければ幸いだ。

エピローグ: Twitter

2020年4月下旬、当時は、インフルエンザと同様、2週間も経てば治るという認識でいたし、オンラインの無料医療相談で相談した医師にもそのように言われていた。しかし、2週間経ってもなお続く症状に、何かがおかしいと思い始め、Googleで「体調不良」と検索した。検索した結果、2020年のある時期から「体調不良」と名乗るアカウントが載っているTwitterが検索上位に出てきたのだった。Twitterは、以前から知っていたのだが、それまでInstagram、Facebookを含むSNSの類いもしたことがなく、特にTwitterは、アメリカのトランプ元大統領がツイートしては、世の中に物議を醸し出していたのをテレビニュースでよく見聞きしていたので、「なんやら、苦手な世界だな」と一番敬遠していたSNSだった。でも、そんなこと言ってられない。体調不良の原因が知りたい、家族を治したいという情報欲しさ一心でたどり着いた先がTwitterだった。初期に、フォローさせてもらった海外から帰国したばかりの女性と、DM機能を使って初めて何度かやり取りさせてもらったと思う。彼女は、帰国直後から微熱に悩んでいて、実家に戻った後、同居の親にも微熱が出始めいたことを心配していた。病院に相談し、PCR検査を受けられることになったが、「陽性になったら、親に迷惑がかかるので、海で入水自殺する」と言っていた。私も、あの頃は、家族のことで毎日、錯乱していて、包丁を握り締めることもしばしばあった。「包丁を持っている」と言うと、彼女は、必死に止めてくれた。その後、2020年6月に彼女から「体調が良くなっている」とメールをもらったのを最後に、アカウントを見失ってしまったけれど、あの時、一緒に生き延びた時間はきっと一生忘れない。人生で初めて、「人は一人では、生きてはいけない」と本当の意味で実感させられたのが、コロナ感染疑いの出来事であった。できたら、また、彼女にTwitter内で再会したい。「あの時、よく生き延びたよね」って互いを労いたい。あの時、一緒にいてくれて、ありがとう。そして、寄り添ってくれた皆さまにありがとう。

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