気になるけれど勇気がでない、という絵本とのおつきあい~『モチモチの木』
「内弁慶」。
幼い頃の自分はまさにこれ。
いくじなしで、ワガママで、プライドばかり高い泣きむしだったから、親は大変だったろうとおもう。自分が親の立場だったら、うんざりしていた自信がある。
でも絵本は好きだった。
好きというより、何も考えずにあたりまえに絵本をひらく子どもだった。居間にいたらとりあえずテレビをつけるみたいに絵本をひらいていた。すこしくらい言葉がむずかしくても絵がついているから大丈夫。人間の「おともだち」となかよくするよりも、ずっとリラックスできた。
なのに一冊だけずっと手を出さなかった本が家にあった。
斎藤隆介氏の『モチモチの木』。
暗い。
表紙が暗い。
見ているだけで胸がざわざわする。
ほかの絵本は春のような明るさとのんびりした心地よさが伝わってくるのに、この本ときたら、大きくて、重くて、暗い。
表紙の半分を覆う黒の深さ。
呑み込まれそうな黒に気圧される。
いかにもごつごつと硬そうで筋張った指を持つ、深い皺を刻んだ老人。
思わず距離をとる。その目元に浮かぶ笑みすら不気味に映る。
老人の胸に抱かれながら、色白な少年がこちらをこっそり見ている。
その視線は本の中から、本の外にいる弱虫を見ている。
この絵本がおいてあった部屋は二階の北向き。いつも少し陽ざしがよわく、ひんやりしている部屋だ。窓からの白っぽい光にすけてホコリがゆっくり舞いおりてくるのがみえる。それを見ているうちに、ぶるっとする。いつのまにか体が冷えている。
この部屋で絵本の中の少年と目があうと、心細さでみぞおちが震えだす。ちょっぴりトイレに行きたくなる。ああ、足がつめたくなってる。
たまらなくなって、下で洗濯物を畳んでいる母のところへ逃げかえる。
南向きの窓からは陽ざしがたっぷりさしこんでいる。ああ、温かい。冷えたからだがじんわりとほころぶ。母のエプロンに頭をのせて見ればホコリだって優しそうな顔をしている。
本の中のあの子がこわいなんて母にはいえない。自分だけの秘密だ。
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大人といわれる年齢になってから、図書館でこの絵本と再会した。
すこし古びた木製の書架がならぶ近所の図書館は独特のにおいがする。
愛らしく明るい本がならぶ棚に同列におかれた『モチモチの木』。
滝平二郎氏による力強い黒の印象はそのままだったけれど、表紙の少年がかぼそく、それでいて愛らしいことに初めて気づいた。青磁色のすきとおる影の美しさにも胸をつかれる。
幼き日に怯えていた記憶の名残をそっと肩に乗せつつ、ページをめくった。初めて豆太の物語と向き合う。
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読み終わってじんわりと胸に広がったのは、豆太への愛しさだった。「山の神様の祭り」を見たという大冒険から日常に戻った豆太が見せる「情けなさ」に心がほころんだ。
ああ、こんなにいじらしい話だったのか。
大人になってから読んでよかった。
きっと幼いうちに読んでいたら「勇気を出せば困難は乗り越えられる」という英雄話だと思っていたにちがいない。でも斎藤隆介と滝平二郎が描いた物語には痛みや悲しみに震える子どもを見つめる温かい愛情と、それでいて安易に手を貸さない本物の大人の眼差しが込められていた。「絵本だって描いているのは大人なんだから」と言ったのはかつて図書館につとめていた母ではなかったか。
親ができれば子どもに与えたくない気持ち――不安や孤独や悲しみだとか――も、絵本の世界ならいつだって帰ってくることができる。自分の子どもへの絵本を選ぶときに、それを少し疎かにしてきたかもしれない。
読まなくても、見ていないわけじゃない。
手に取らなくても、気にしていないわけじゃない。
本とのおつきあいは人間のおつきあい以上に繊細な糸でつながっている。
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