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奏でる、在る、ケアし合う。ただの1日。

昨日は長女がお箏を演奏するため、ほぼ終日、熊本県立劇場にいた。

次女、三女、長男の相手は義母が引き受けてくれ、長女は楽屋で女性方の着付けがあるので妻に任せた。
そのため、長女の演奏が始まるまではわりと自由な時間が得られた。

劇場内の一角にある椅子に腰掛けて、バッグから本を取り出す。

ガラス張りの吹き抜けから光が差し込む光庭文庫
並べてある本も自由に読むことができる


最近は柄にもなく、娯楽の時間を削ってまでして読書にふけっている。

読書家からすると読書こそ娯楽なのかもしれないが、僕にとってはそうではない。

なんとか書き手の思考に入り込もうと、ポンコツな脳みそを叩いて無理矢理に動かすものだから、読書はそこそこ疲れる。

一日中読み続けるような活字中毒や書淫などといわれる人が、少し羨ましい。

気がつくと音読を迫られた子どものように、字面を追って著者の言葉をそのまま丸呑みするだけになっていることに気づく時が度々あり、ため息混じりで一度本を閉じ、少し前に戻って読み直す。

読みながら考え、調べ、ときどき後戻りをしているものだから、なかなか読み進まない。

読み終えることが目的ではないのに、急いで読む必要はないのに、あぁまだこのくらいしか読んでいないのか、と焦る。

幸い、本を読むのにちょうど良い時間とちょうど良い空間に恵まれたので、ケアの形而上学(森村修. 2020)を読み進めることができた。


何度も僕の手を止めるような本だ。

とても内容を紹介できそうにないが、森村氏が本書を通してどういったことを述べようとしているか、あえて切り取るのであれば「はじめに」の一部かなと思う。

自分が存在することで、誰かを傷つけてしまうならば、自分が傷つけた他者やものをケアするために、自分が新しい存在の仕方を模索すればよい。他者をケアし癒すような存在性を目指し、他者をケアする行為を選ぶべきだ。(中略)
「存在することのケア」とは、私たちが自分だけでなく他者をも傷つけてしまうことのいたみ(痛み・傷み・悼み)を積極的に引き受けたうえで、それでもなお、私たちの存在の関わりの中で、他者を支え、勇気づける関わりを実践することだ。

タイトルに形而上学(metaphysics)とあるので、哲学的な思索が主と思われるかもしれないが、脳科学や精神医学などからの主張や実際のエピソード、統計などを交えながら、現実的なケアのあり方について多角的に述べられている。

ケアとは医療・介護・福祉・心理の専売特許ではない。そもそも「存在/非存在/無」のことを哲学的に考えたこともないのに、どうしてケアを語れるのか私には分からない。

死とは何か。生きているとはどういうことか。
ケアにおいて自身の存在性が問われるのであれば、そもそも存在するということ自体を考える必要がありそうなものなのに、そんなことはほとんど考えもせず、ケアの専門家を気取る。

今まで関わってきたいろいろを思い出しながら、
頁をめくる手が、また止まる。


スマホに通知バナーが揚がる。

スタッフの看護師さんからの連絡。

お通夜は本日17時
葬式は明日9時
○○斎場

先日、関わっていた女性が旅立たれた。

僕も半年ほど訪問させて頂いていた方だ。

94年もの時間を生き抜いて、痛みや苦痛を訴えることなく穏やかに衰弱していった。

先々週の訪問では、ベットサイドに腰掛けるのをサポートして、好きなお菓子やお茶を少しだけ食べたり飲んだりした。

先週の訪問では、座ることが苦痛になりそうだったので、不動性疼痛を予防すべく関節や筋肉を優しく動かしたり、安楽な姿勢を提案したりした。

これらは「したこと」だ。

「したこと」は、簡単に言い表せる。

「どう在ったか」は言葉にしにくい。
正直なところ、よく分からない。

僕は彼女にとって、どう在ったのだろうか。
どう在るべきだったのだろうか。
心穏やかになれる存在であったのだろうか。

唯一の家族である娘さんにとってはどうか。
最後となった訪問でも、涙を浮かべていた。
僕や僕たちは、どのように在ったのだろう。

そんなことを考えながら本を読み、
贅沢な時間を過ごす。

ぐるぐると動く脳みそは、読書という娯楽をまえに、すっかり疲弊しきっている。


またスマホに通知バナーが揚がる。

リマインダー
14時20分 演奏開始

長女の演奏が始まる少し前に、ホールに入る。

手触りのいい座席に深く腰を沈める。
お箏、尺八、三味線の音を浴びる。
着物姿の長女の一生懸命な演奏を眺める。
大勢の拍手に感謝する。

これでもかというくらいの生を感じる。

今まさにケアされているのだと感じる。

娘の姿と音と空気と時間と、
通路の絵画にでさえ。

僕を取り巻くあらゆるものが、
僕を癒すために存在していた。


Manabu mabe[人類の行進]
“我らはより良く生きるために文化を目指して行進する”
(説明文より一部抜粋)


「箏曲の祭典」が閉幕し、撤収作業を手伝い、そのまま斎場へ向かう。

20時半ごろ、棺に納められたその方と面会した。

御焼香をして、手を合わせ祈る。
娘さんと対話をする。

故人に思いを馳せながら、また思考する。

娘さんは故人にとって、どう在ったのか。
故人は娘さんにとって、どう在ったのか。
すでに死を迎えた人にとっての「存在することのケア」とはどういうことか。
故人は娘さんをケアし続けられるのだろうか。

僕はお二人にとってどんな存在であったか。
僕にとってお二人はどんな存在であったか。
今、僕はどう在るべきなのか。

いくつもの問いが浮かんでは、ぼーっと考えるふりをしているうちに消えるのを繰り返す。

頭がごちゃごちゃっとなりながら、故人と遺族に心を寄せる。

理学療法士は、何かを「する」のだろう。
僕という人間は、ここに在ることができる。

一緒に故人を見つめながら娘さんが呟いた
「みなさんのことも、ずっと見守っててね」
という言葉が、しばらく僕の中にこだました。


帰宅すると、いつものように2歳の長男が駆け寄ってくる。

抱きかかえると満面の笑みで応えてくれる。

長女とは、今日の感想を伝えあう。

次女と三女は今日のおままごと遊びのハイライトを、縦横無尽な言葉でまくしたてる。

妻は方々に声をかけながら、夕飯の洗い物を片づけていた。

ケアとは生きとし生けるものが、生まれ、老い、病に見舞われ、最終的に死を迎えるまでの時間を共に探しながら、周りのものたちが関わる関わりである。

なんとも贅沢な、ただの一日が過ぎていった。





ケアの形而上学 目次

◆第1章 「暴力被害者」のケア
―「生き延びる(survival)」ことの倫理
第1節 〈生き残ること〉と〈生き延びること〉
第2節 子ども虐待という〈社会・政治的暴力〉―「トラウマ」の連鎖
第3節 「新たなる傷つきし者」の出現「社会・政治的トラウマ」の問題
第4節 〈情動を抱える生〉の〈ケアの倫理〉

◆第2章 「生き延びる者」へのケア
―長寿高齢社会の現実
第1節 哲学的課題としての「認知症」―哲学者マラブーの挑戦
第2節 「認知症」が問いかけるもの
第3節 「社会的疾患」としての「認知症」
第4節 「認知症」における〈こころ〉と脳
第5節 認知症ケアの倫理

◆第3章 〈社会的孤立者〉へのケア
―「孤独死」社会における倫理
第1節 「孤独死」の現在
第2節 「ひとりで死ぬこと」の意味「スピリチュアリティ」の〈ケア〉
第3節 「何も共有していない者たちの共同体」の倫理
第4節 〈他者としての死者〉を抱えて〈生き延びる〉こと
第5節 アポリアの経験―フロイト「喪の作業」批判
第6節 喪の倫理〈死者〉を担って「生き延びること」

◆第4章 〈からだ〉と〈ことば〉のケア倫理
第1節 〈からだ〉という問題圏―〈からだ〉は所有物か?
第2節 東洋的心身論の試み―湯浅泰雄の〈身体〉論
第3節 〈身〉と〈言〉―市川浩の「〈身〉の哲学」(1)
第4節 〈身〉と〈こころ〉―市川浩の「〈身〉の哲学」(2)
第5節 〈身〉と〈情〉―富士谷御杖の「言霊」論(1)
第6節 〈言霊〉の〈力〉―富士谷御杖の「言霊」論(2)

◆第5章 「生存の美学」としてのケア―
〈ケア〉が〈アート〉に出会う〈場所〉
第1節 「アウトサイダー・アート」と「アート・セラピー」
第2節 ダーガーの生きた世界「アート作品」としての生
第3節 他者への配慮─レベッカ・ブラウンの「贈与」
第4節 行為の価値―グレーバーの価値論について
第5節 贈与としてのケア/ケアとしての贈与
第6節 〈ケア〉としてのアート/アートとしての〈ケア〉

おわりに「ケアとは、アナキズムでなくてはならない」

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