奏でる、在る、ケアし合う。ただの1日。
昨日は長女がお箏を演奏するため、ほぼ終日、熊本県立劇場にいた。
次女、三女、長男の相手は義母が引き受けてくれ、長女は楽屋で女性方の着付けがあるので妻に任せた。
そのため、長女の演奏が始まるまではわりと自由な時間が得られた。
劇場内の一角にある椅子に腰掛けて、バッグから本を取り出す。
最近は柄にもなく、娯楽の時間を削ってまでして読書にふけっている。
読書家からすると読書こそ娯楽なのかもしれないが、僕にとってはそうではない。
なんとか書き手の思考に入り込もうと、ポンコツな脳みそを叩いて無理矢理に動かすものだから、読書はそこそこ疲れる。
一日中読み続けるような活字中毒や書淫などといわれる人が、少し羨ましい。
気がつくと音読を迫られた子どものように、字面を追って著者の言葉をそのまま丸呑みするだけになっていることに気づく時が度々あり、ため息混じりで一度本を閉じ、少し前に戻って読み直す。
読みながら考え、調べ、ときどき後戻りをしているものだから、なかなか読み進まない。
読み終えることが目的ではないのに、急いで読む必要はないのに、あぁまだこのくらいしか読んでいないのか、と焦る。
幸い、本を読むのにちょうど良い時間とちょうど良い空間に恵まれたので、ケアの形而上学(森村修. 2020)を読み進めることができた。
何度も僕の手を止めるような本だ。
とても内容を紹介できそうにないが、森村氏が本書を通してどういったことを述べようとしているか、あえて切り取るのであれば「はじめに」の一部かなと思う。
タイトルに形而上学(metaphysics)とあるので、哲学的な思索が主と思われるかもしれないが、脳科学や精神医学などからの主張や実際のエピソード、統計などを交えながら、現実的なケアのあり方について多角的に述べられている。
死とは何か。生きているとはどういうことか。
ケアにおいて自身の存在性が問われるのであれば、そもそも存在するということ自体を考える必要がありそうなものなのに、そんなことはほとんど考えもせず、ケアの専門家を気取る。
今まで関わってきたいろいろを思い出しながら、
頁をめくる手が、また止まる。
スマホに通知バナーが揚がる。
スタッフの看護師さんからの連絡。
先日、関わっていた女性が旅立たれた。
僕も半年ほど訪問させて頂いていた方だ。
94年もの時間を生き抜いて、痛みや苦痛を訴えることなく穏やかに衰弱していった。
先々週の訪問では、ベットサイドに腰掛けるのをサポートして、好きなお菓子やお茶を少しだけ食べたり飲んだりした。
先週の訪問では、座ることが苦痛になりそうだったので、不動性疼痛を予防すべく関節や筋肉を優しく動かしたり、安楽な姿勢を提案したりした。
これらは「したこと」だ。
「したこと」は、簡単に言い表せる。
「どう在ったか」は言葉にしにくい。
正直なところ、よく分からない。
僕は彼女にとって、どう在ったのだろうか。
どう在るべきだったのだろうか。
心穏やかになれる存在であったのだろうか。
唯一の家族である娘さんにとってはどうか。
最後となった訪問でも、涙を浮かべていた。
僕や僕たちは、どのように在ったのだろう。
そんなことを考えながら本を読み、
贅沢な時間を過ごす。
ぐるぐると動く脳みそは、読書という娯楽をまえに、すっかり疲弊しきっている。
またスマホに通知バナーが揚がる。
長女の演奏が始まる少し前に、ホールに入る。
手触りのいい座席に深く腰を沈める。
お箏、尺八、三味線の音を浴びる。
着物姿の長女の一生懸命な演奏を眺める。
大勢の拍手に感謝する。
これでもかというくらいの生を感じる。
今まさにケアされているのだと感じる。
娘の姿と音と空気と時間と、
通路の絵画にでさえ。
僕を取り巻くあらゆるものが、
僕を癒すために存在していた。
「箏曲の祭典」が閉幕し、撤収作業を手伝い、そのまま斎場へ向かう。
20時半ごろ、棺に納められたその方と面会した。
御焼香をして、手を合わせ祈る。
娘さんと対話をする。
故人に思いを馳せながら、また思考する。
娘さんは故人にとって、どう在ったのか。
故人は娘さんにとって、どう在ったのか。
すでに死を迎えた人にとっての「存在することのケア」とはどういうことか。
故人は娘さんをケアし続けられるのだろうか。
僕はお二人にとってどんな存在であったか。
僕にとってお二人はどんな存在であったか。
今、僕はどう在るべきなのか。
いくつもの問いが浮かんでは、ぼーっと考えるふりをしているうちに消えるのを繰り返す。
頭がごちゃごちゃっとなりながら、故人と遺族に心を寄せる。
理学療法士は、何かを「する」のだろう。
僕という人間は、ここに在ることができる。
一緒に故人を見つめながら娘さんが呟いた
「みなさんのことも、ずっと見守っててね」
という言葉が、しばらく僕の中にこだました。
帰宅すると、いつものように2歳の長男が駆け寄ってくる。
抱きかかえると満面の笑みで応えてくれる。
長女とは、今日の感想を伝えあう。
次女と三女は今日のおままごと遊びのハイライトを、縦横無尽な言葉でまくしたてる。
妻は方々に声をかけながら、夕飯の洗い物を片づけていた。
なんとも贅沢な、ただの一日が過ぎていった。
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