キャリコン課題図書「あらゆることは今起こる」柴崎友香
一気に読んでしまった!!ADHDと診断された作家の内面とその身体と行動の記録だ。
柴崎友香は「きょうのできごと」や「寝ても覚めても」でその独自の気持ち表現とかタイム感とか身体感覚が硬質な文体になっていて割と好きな作家だった。とはいえめちゃくちゃ追っかけていたわけではないが、、、たまたま本屋で別の本を探していた時に見かけて、まず表紙のインパクトがぐっと目に飛び込んできた。虚な表情の人々がエスカレーターに乗っている、画面を縦に真っ二つに分断する柱が映り込み写真の構図としては破綻しているのだけども柴崎友香という作家の名前とともにここにはただならぬものがあるぞ、、と僕のゴーストが囁いたので速攻で購入。
帯の言葉も良い、「私の体の中には複数の時間が流れている」
プロローグの小学校時代に自分だけが別の世界にいる感覚の話からグッと引き込まれた。作者は自分は発達障害かもとずっと思ってきて40代になってADHDの診断を受けたとのこと。
柴崎さんは自分の人生のいろんなエピソードを思い出しつつ語る、遅刻、落ち着きのなさ、片づけられない、忘れ物、、、40代になって初めて受けたADHDという医学的な診断は、幼少期からの生き辛さ、周囲との違いについてある意味答え合わせのようなもので文章からもこの診断に”一応”は納得しているように見える。ああ、私の色々な困難はここに起因していたのね、、、というわけである。そのため少なくとも診断について否定しようとはしていない、ただ柴崎さんはADHDとか発達障害という言葉が一人歩きして世間のイメージを勝手に作っていくことについては違和感を覚えている。原因→結果という医学的な解釈も一つの解釈であり、もっと複雑な生のあり方をなんとか言葉にしようとしている。
さすが言葉のプロであり、語られるエピソードやその時の心の動き、他者の反応などは読んでて圧倒される。めちゃわかるわ〜と僕自身に置き換えることができる場面も多いけど、一方で柴崎さんという個であることを強烈に感じる場面も多々ある。わかるのにわからない、わからないのにわかる
ふと思い出したんだけども、昔知り合いの女性が不思議なことを言っていた。「私は時計回りってわからないんだよね」、、どういうことか聞いてみると時計回りというは自分が外部に存在する時計を見て(=右回り)のことなのか、自分自身を時計に置き換えてのことなのか頭の中でわからなくなるという。彼女のイメージでは自分が時計になってみると針は”左回り”だというのだ。僕としては普通に”右回り”のことだとしか思っていなかったので一瞬何を言っているのかわからなかったし、今この文章も彼女の脳内をうまく説明できているのか不安ではあるが、、とにかく人の頭の中って違うんだなと思った。でも違うけどもなんとなく言わんとしていることはわかる。
柴崎さんの本を読んでいて、自分とは違うんだけどなんとなく言わんとしていることはわかるのが不思議な感覚だった。完全に違うのであればここまで圧倒されることもないだろう、意味が通じているから圧倒されるのだ。でも完全に一致しているわけではない、僕は柴崎さんではない。
ガルシア・マルケスの「族長の秋」が引用されている。時空が混在し、語り手と他者も混在したような描写だ。柴崎さんはこの文章がスッと頭に入ってくるという。僕は正直「族長の秋」は読みにくいなと思いつつも、マジックリアリズム”として”味わうという文芸批評的メタ認知で読んだ記憶があるが、柴崎さんはそういう読み方はしない。「族長の秋」と一緒に生きるように読む、うおー、、、
この辺りから、ラストの「複数の時間・並行世界・現在の混沌」の章につながってくる流れは凄い哲学書を読んだような、あるいはすごいSF小説を読んだような気分になる。ディックとかテッド・チャンとかSF作家にも言及されている通り、SFっぽい流れになる。”私”の中には複数の時間・並行世界・現在の混沌があるのだ。
未読の方はぜひ本書を手に取って、私という小宇宙の中にある複数の時間・並行世界・現在の混沌を味わっていただきたい。