キャリコン課題図書『雨の日の心理学』
先日アーカイブ視聴した山崎孝明x東畑開人x東浩紀対談はめちゃ面白かった。その感想はまた別途書くとして、、
本書『雨の日の心理学』は対人ケア職にとって課題図書でありつつ、さらにいうと対人ケアすることになった”ふつう”の人にとっても課題図書だと思う。
ふつうの人にとって心の雨は突然降り出す
家族、友達、同僚などなど、周りの人の心のケアは「はじめるものではなく、はじまってしまうもの」なのだ。(前書き-雨の日のガイダンス)
本書はふつうの人が人をケアする際の補助線を教えてくれる。晴れの日であれば、頑張れ!とか気晴らしに買い物でも、、などのアドバイスが有効だろうが雨の日はそれではダメな場合がある。そこに必要な補助線は専門家の世界で異常心理学と呼ばれる知識だ
フロイトの無意識、メラニー・クラインのPSポジションとDポジション
メラニー・クラインのPSポジションとDポジションの話は詳しくあとでするとして、ここでは心理士としての東畑さんの立っているところの話をしたい。
東畑さんによると、まず心のケアを素人のための心理学と、専門家のための心理学に分ける。ここで本書がユニークなのが、フロイトやメラニー・クラインの理論を補助線として”素人のための心理学”の側に入れているところだ。ふつうに考えると、専門家のための心理学に入れそうなもんだろう。この分類に本書の本質が表れていると思う
前著の『ふつうの相談』(これも名著)で、医療人類学の研究成果から専門セクターと民間セクターのケアをメタレベルで俯瞰している。そこでは各学派の理論にこだわらず、ふつうの人がするふつうの会話によるケアの可能性が書かれていた。それでは専門家は要らんのかというとそうではなく、やはり要るのである。では、ふつうの相談の中において専門家の役割ってなんだろうか、、、それをクリアに解くのが本書『雨の日の心理学』だ。
本書によると、雨の日には、専門家による理論が補助線として使える。
何気ない一節だが、心理業界には衝撃なのではないか。東畑さんは自身を専門家と素人が同時に重ね合わされた場所に置いている。このような場所を想像することはキャリアカウンセリングにとっても重要な示唆を与えてくれる。
5日目の講義にベケットの「ゴドーを待ちながら」の一節が引用されている。
現代において人類はケアを必要としている。それは人類全体の課題であるが、今日この瞬間には二人がいる。それは偶然かもしれないし必然かもしれないけど、とにかく人類的な普遍的な課題について、二人のこととして考えられる。二人は専門家と素人かもしれないし素人と素人かもしれない、いずれにしてもふつうの相談がふつうに交わされる世界を東畑さんは描いている。
話は変わるけど、先日映画『シェルブールの雨傘』についてキャリコン数名で感想を言うセッションがあった。その時になんで雨傘なんだろうね、、、と誰彼ともなく発話があってその時はなんでだろうね、、とふんわり終わった。主人公ジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドヌーブ)の母が傘屋さんをやっているので雨傘なんだろうけど、深い意味があるのかな、、その後も色々考えていたけどその問いを忘れてしまった。今回『雨の日の心理学』のレビューを書いていて雨つながりでふと思い出したのだった。メラニークラインを”補助線”として考えて見ようかと思ったのである
ジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドヌーブ)は、婚約者ギイが戦争に行ってしまい、次第に手紙も来なくなって不安になっている、しかも彼の子を妊娠している、これは雨の日の状態だ。愛する彼は死んじゃっているかもしれないし、、、と妄想もするだろう。メラニー・クラインのいうPSポジションだ。PSポジションの時人は世界を白か黒かで分裂して思い込みで見ている、時には妄想することもある。
その後、ジュヌヴィエーヴは求婚してきたお金持ちのローラン・カサールとの結婚を決意する。
ここからは、メラニー・クラインのいうDポジションになってゆく。白か黒かの世界がグレーになった、心は落ち着きを取り戻した。面白いのがメラニー・クラインによると、Dポジションには後悔がつきものだということ。東畑さんのあげている例で言うと、PSポジションの時学校の先生に「うるせえジジイ」と思っていたが、Dポジションになって冷静に考えると自分を思い遣ってくれていたことがわかり後悔する。悪いことしちゃったな、、という罪悪感、これがDポジションに「うつ」と言う意味がある理由でもある。
ラストシーンでは、偶然ジュヌヴィエーヴは幸せそうなギイを見る。彼は結婚し子供もいるのであった。
その場面では雨ではなく雪である。雪って微妙で傘をさすこともあるけどささなくてもいい感じもする。まさにDポジションのグレーと言える状態だと言える。ジュヌヴィエーヴは幸せそうなギイを見て少し後悔があったのだろうか
なんで雨傘なのか??
『雨の日の心理学』的に言えばジュヌヴィエーヴの分裂した心を表していたのかもしれない。
ところで、この映画本来は悲劇の愛の物語になりそうなストーリーなのだけども、カトリーヌ・ドヌーブの演技というか存在そのもが強すぎてケアが必要な人に見えない、笑
誰の子供を産むのか、誰と結婚するのかはわたしが決める!と言う性の自己決定権、性の自由の闘士のようなイメージだ。それだけにこの主人公に感情移入できないというか、少なくとも可哀想な感じは全然受けない。ミュージカル演出のオシャレさと相まって、悲劇の愛の物語に浸りたい〜と言う観客のニーズとはミスマッチ感があるのがこの映画の面白いところ、あるいは観てて戸惑うところ。これは監督のジャック=ドゥミの狙いなのか、カトリーヌ・ドヌーブの存在に押し切られたのか僕には知る由もないが、、