『蜘蛛巣城』黒澤明全作レビュー&イラスト(16)
お疲れさまですvintageです。またまた名作です、この時期の黒澤さん名作だらけでして神がかってます。
本物の矢を使った撮影で、びっくりした三船敏郎
おれを殺す気か!と監督に激怒したやつです。それにしても役者根性、恐怖の表情が最高ですね
ストーリーはこんな感じ(ネタバレあり)
ここからレビューです、、、
三船敏郎の素の演技もすごいけど、山田五十鈴妖怪チックな妻もすごいですね。千秋実、志村喬と東宝の黒澤映画常連がでる安定感。
原作はシェイクスピア『マクベス』です。舞台は戦国時代の日本にしてますが、かなり原作に忠実です。
これとても面白い話ですよね、老婆の予言に対して最初はそんなことありえないわ、、と笑っていた鷲津武時(三船敏郎)と三木義明(千秋実)
結局予言通りになるのですが、どう解釈すればいいのでしょうか?
A)老婆の予言が当たった
B)老婆の予言を聞いたことで人々が動き、結果的に予言通りになるように行動し予言が実現した。
個人的にはB)かなと思います。
[予言の自己成就]
会社の事例でいうと、君の将来には期待しているよと言われるともともと能力は大したことなくてもモチベーションがあがって本当に業績が良くなるとかありますよね。予言に引っ張られて本当に実力があがるのですね。これを予言の自己成就などといいます。これはポジティブな例ですが、『マクベス』=『蜘蛛巣城』ではネガティブな例をみることができます。
武時と義明は無二の親友であり互いを殺そうなどとは考えもしないのですが、予言を聞いてしまったために相手が主君にチクるのではないかと疑心暗鬼が発生し、では先回りして主君を殺すしかないと悲劇が起きます。さらに義明を殺さないと自分が殺されると第二の疑心暗鬼が発生し悲劇の連鎖が起きてしまいます。
[選好のパラドックス]
山田五十鈴演じる妻の浅茅はその怪演もあってなんとなく悪妻の代表みたいな感じで受け止められますが、予言通りにならないように回避行動に出ている点は合理的な判断だと思います。個々の判断は合理的なのに全体としては不合理になるというなんとも救いのないパラドックスです。人間ってこんな愚かもんなんですよ~というシェイクスピアの洞察はすごい。
現代では社会的選好のパラドックスとして、経済学者のアマルティア・センが『合理的な愚か者』という本で述べていますが合理的な効用を求めて行動すると結果としては効用を失うということ。まさに妻の浅茅は”合理的な愚か者”なのですね。
『マクベス』=『蜘蛛巣城』は魔女とか物の怪のイメージから一見すると超常現象的な印象を受けるかもしれないのですが、実際によく見ると超常現象は一切でてこないのです。すべて人々の効用を最大化する合理的選好の結果悲劇が起きるというメカニズムを描いています。という点では現代にも通じるテーマでもあります。
ラストで森が動くかどうかという話もシェイクスピアの時代であれば超常現象的に森を動かす描写などもありだったとおもいますが、それは一切やらないです。フェイクの森が動いたように見せるだけです、それを武時は超常現象だと勘違いし結局殺されます。つまりシェイクスピアにとっては怖いのは超常現象ではなく、人間の合理的選好メカニズムそのものだということなのです。これを16世紀に考えていたのはすごいことですね。アマルティア・センの数百年前ですから。
[映画とはフェイクである]
さらにフェイクについて映画というものを考えてみましょう。映画とはウソの絵をさもホントらしく見せる技法のことです。放水車の水を観客は雨とみているわけです。中には「どうせ偽の雨でしょ」と訳知り顔の人もいるとは思いますがそれは知識で補完しているだけで実際に画面からみる生理的体験としては雨に見えているのだと思います。
その意味では『マクベス』=『蜘蛛巣城』のクライマックスでフェイクの森を動かす場面はまさに映画の本質をついているように思えます。
マクベス=武時は悲劇的に死んでいきますが、救われる映画もたくさんありますよね。フェイクが人を助けることもあると思うんです
何度も見返したい大傑作
ではでは