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薄曇りの日の支援職(19):斎藤環とロジャーズと中動態


先日数年ぶりに斎藤環『心理学化する社会』を読んだら、痛烈なロジャーズ批判の箇所がありました(記憶になかった)
斎藤ファンであり、かつロジャーズファンの僕としては困った事態なのですが、笑

ただ最初に申し上げると、斎藤環さんは『心理学化する社会』(2008年)以降、対話による治療を目指す「オープンダイアローグ(OD)」との2013年の衝撃的な出会いによって”転向”(@本人)したのであった。これまで精神科医としても評論家としても大学の先生としても圧倒的なキャリアを積み上げてきた偉い人がここまで素直に転向する自分を開示した例を見たことがない。それゆえに本当に信頼できる人だと考えています。還暦を過ぎてここまで過去を切り捨てられる人はいないでしょう、、、

僕の見立てでは、ODへの転向以降の斎藤さんはロジャーズに近づいている。全く同じとも思わないしご本人がそう言ったわけではないのであくまでも僕の見立てだ。なのでここでは過去の話で恐縮ですが、斎藤さんのロジャーズ批判をまずは取り上げる。その上でなぜロジャーズは伝わりにくいのかを考える。最終的にODとロジャーズの近さについて考察したい。

2008年ごろ:斎藤先生のロジャーズ批判は、『心理学化する社会』「Ⅳ章 カウンセリングブームの功罪において」に現れる。
精神科医とカウンセラーの「ナワバリ」のことを概説した上で、そしてロジャーズこそがアメリカの40年代〜60年代に大きな影響を及ぼしたとする。現在ではロジャーズという名前こそ出さないけどもカウンセラーの世界では中心的なメソッドだという(ここで精神科医斎藤先生は精神科医とカウンセラーとは似てるけど別物だという立場で話をする)

一種の性善説に立って、人間の成長可能性を信じあれこれ指示をしないことを強調した彼の技法は、はじめ非指示的療法と呼ばれた、これはのちに来談者中心療法へと発展した

『心理学化する社会P77』

ここで、斎藤さんは心理学者の小沢牧子『心の専門家はいらない』『カウンセリング・幻想と現実』を援用しつつ、カウンセリングってなんか変という小沢さんの議論に共感する。(ただ決定的な部分で小沢さんへの痛烈な批判をしているが)そしてカウンリング界の親玉ロジャーズ批判に繋がるのです。少し長くなるが引用しよう。哲学者ブーバーがロジャーズを批判したことを参照しつつ持論を展開している

ひきこもりを例にとって考えてみよう(中略)ロジャーズはこれもまた個人の独自性の追求であるとして、全面的に肯定するだろう。しかしブーバーは引きこもることは人間性を失う道だと指摘するはずだ。なぜならそこには「世界との接触」が欠けているからだ、また相手が「自分の気持ちに反して、私の援助を求めているようなことも」あるのだという。ここに至って僕は完全にブーバーの側に立たざるを得ない。(中略)真空の中でも生きられる個人という存在の価値を至上のものとして、その個人の空間を侵害する外敵を徹底して排除しようとする。個人の無限の可能性は、世界との関わりなくしても成立するという信仰が、彼ら*の主張の基本にあったのだ、

『心理学化する社会』P87

*彼らというのは、ロジャーズ信奉者のカウンセラーのことを指しています。長年ひきこもりに取り組んできた斎藤さんからすると、ロジャーズ流の全面的に肯定というメソッドが批判の対象のようです。ロジャーズが「個人の無限の可能性は、世界との関わりなくしても成立する」と考えていたとは思えないのですが、とりあえず先にすすみます。

2015年:『オープンダイアローグがひらく精神医療』にて、私は一種の”転向”をしていると述べています。ODを知ったことによりラカン派精神分析の立場から対話主義への転向を宣言します。

治療における「自己愛の補強と」それをもたらす「幻想(ナラティブの力)」を強く信任することにしたのだ

『オープンダイアローグがひらく精神医療』

本書では、ODの対話的実践に関する要素として、特にロジャーズっぽいとことを取り上げると、「6.クライアントの語りの全てに耳を傾け、応答する」とし、
・クライアント自身の言葉を使うこと
・細やかな応答を欠かさずに傾聴すること
・沈黙を含む非言語的な反応をキャッチすること

これはまさに、ロジャーズの考えに近いのではないでしょうか。ODの特徴である対話は、グループワークで実践されます。あえて目的を明確にしない自由な雰囲気の対話です。これはロジャーズのグループエンカウンターにとても近い。細かい運用は違うと思いますが考えの根源はとても近い

2024年:『イルカと否定神学』では、ODでは改善や治療を目指してはいけないと説明しています。これなんかもロジャーズ的ですね。

1940年代にこの考えを提示していたロジャーズはかなり早い。ただその後、精神医学はDSM(診断基準)によるエビデンス主義、薬物医療、生物学的精神医学へ一気に傾倒してゆく。カウンセラーの世界もエビデンスが取りやすい認知行動療法が主流になる。
斎藤さんは一定の薬物医療を認めつつもこのような流れを批判する。ODを引っ提げて、巨大な敵に立ち向かおうとしているかのようです。

ロジャーズはなぜわかりにくいのか?

さて、そこでロジャーズはなぜわかりにくいのかについて考えてみましょう。「受容、共感、自己一致」など言葉そのものはとても平易であり誰でもわかる。それだけにうまく伝わらない。批判者はおうむ返しとか、何も解決しないとか、より良くなりたい主体を信じるって宗教でもあるまいし、、などのパターンが多い。ロジャーズ信奉者はそれを信じる人、批判者は信じない人という具合に議論は平行線です。より良くなりたい主体の存在を信じる/信じない論争を、ここでは存在論的対立としましょう。これはなかなか解決しないですね、どっちの陣営も証明できませんので。

考えてみると、ロジャーズ自身がうまく説明できていない面もあるのではないでしょうか。ちょっと突拍子もない仮説ですが現代の英語や日本語という言語体系ではうまく説明できないのかもと考えます。だからあの手この手で説明しても伝わらない。ここで参照したいのが國分功一郎『中動態の世界』です。

スピノザなどが専門の哲学者國分功一郎さんによると。例えば子供が遅刻したとして、周囲の人は、その子に対し「意志が弱かったのか(能動)」あるいは「そうしなければいけない事情があったのか(受動)」と二分法で考えてしまいます。これを國分さんは「尋問の言葉」と言います

でもこれは永遠不変の思考法ではなく、昔はそうではなかったんですね。國分さんは古代ギリシャ語を分析して、能動/受動ではない、能動/中動
という考えのフレームを人類は持っていたのだと言います。
中動というのは言語学者パンヴェニストによると、動詞が主語の内部に影響している過程を指します。遅刻したのは本人の意思でもないし、させられたわけでもない、遅刻した行為が本人の中にある過程にいる、、という解釈です。

ちょっとむずしく感じられるかもですが、なんでむずかしいかというと現代人は能動か中動という二分法から抜け出られていないからです。
平たくいうとすぐに「誰のせいなのか」と犯人探しをしたがるんですね。主体的にとか自己責任とかよく聞きますよね。息苦しさを感じます。
でも本当にそれだけが人を理解するフレームでしょうか?という根本的な問いかけがこの本にあります。本書は哲学と対人支援のケアの両方にまたがる研究で、精神科医とか心理士の業界で広く読まれている

ありえないけどもしロジャーズが古代ギリシャ語(あるいはサンスクリット語もそうらしい)で本を書いていたらドンピシャな記述ができたのではないでしょうか。
つまり、より良くなりたい主体の存在を信じる/信じない論争=在論的対立ではない軸で、より良くなりたい主体が自分の内部に生起するという過程にいることが表現できるからです。

在る」ではなく、「成る」です。ロジャーズの主著『On becoming a person』このシンプルな英語に、「成る」というモードがしっかり現れています

まあ、古代ギリシャ語(あるいはサンスクリット語)で仮に書いても誰も読まないので英語話者としては能動/受動の軸で記述せざるを得ない。

ただ、僕の知る限りですが現代の科学の言葉でロジャーズをうまく表現した人がいます。僕はこの表現に惚れ込み何度も何度も反芻しました。ロジャーズを読んでもピンと来なかった点が、本書を読んで完全に理解できました。

杉原保史『キャリアコンサルタントのためのカウンセリング入門』

読者の中には「クライエントに成長力があると信じましょう」というような言い方に、科学よりも宗教に近いものを感じた方もいらっしゃるかもしれません。しかしこれは宗教的な信仰の問題ではありません、ここで述べていることは科学的な事実を云々する以前の問題なのです。科学の基礎は観察にありますが、ここで述べていることはどのような視点から観察するのかに関わる問題だと言えましょう。ロジャーズの言っているのは「クライエントには成長力がある前提に立って面接してみなさい、そしてそこで観察できる現象を科学的基礎に添えなさい」ということなのです

『キャリアコンサルタントのためのカウンセリング入門』

この文章を読んだ時に感動で震えました。杉原先生の言うのは、クライエントには成長力があるか/ないかは観察の前には不確定だと言っています。これめちゃ大胆な定義ですよね。つまり本当は成長力はないかもしれない、ただ成長力がある前提で面接をするときにクライエントは成長力がある人に成るのです。有るではなく成る。そこでは主体の成長という行為が能動態的に主語の外に置かれるのではなく、中動態的に主語の内側に送り込まれている過程を作ります。
クライエントの観察は星の観察ではない、治療者とクライエントの相互作用ですから観察前にどんだけクライエントの中を覗いても何も出てこないでしょう、その段階では不確定だからです(量子論で言うシュレディンガーの猫のように)。治療者がクライエントの力を信じる「前提」で接するとそのような人になるのです。『On becoming a person』ですね。
変な言い方ですが、クライエントの力を信じるふりでもいいのです、信じる「前提」がクライエントに伝わりさえすればいい。まあカウンセラーでそのようなふりをする人は少ないでしょうが、中には暴言を吐くクライエントもいますし、治療者も人間なので信じることを持続するのは難しいこともあるでしょう。でも信じるのではなく、信じる前提で接することは普通のカウンセラーでもできそうです。

僕が大した存在ではないことはさておき斎藤環さんが、オープンダイアローグを引っ提げて生物学的精神医学に一矢報いようとしている運動を支持するものです。
一方で、既存の権力の抵抗は相当なものだと想像します。それゆえに存在がある/ないと言う存在論的な対立軸にまみれてしまってはせっかくのODが進まない。そこで杉原先生のような科学の言葉でODを解説するようなモードが強力な武器になるのではないでしょうか。






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