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AEOと過去の快楽体験

AEOによる体験の強烈さは、その人の過去の経験に強く比例すると考えているのだが、いかんせん体得者のデータがないのでわからないところではある。

ただ、AEOの訓練過程ではこの過去の体験の差が如実に出るかもしれない。

というのも、「快感」についてどう考えるか? その満足する閾値をどこに置いているか? は、AEOを成就できるかどうかの大前提になってるかもしれないと思っている。

僕は天武氏と考察録2を製作する過程で、

・「世間の人は快感(快楽)に関して恐らく僕等ほど関心がない」
・「世間の人が体験している快感(快楽)は雀の涙みたいなもので、とても質が低く刹那的」
・「世間の人にとっての強い快感(快楽)のほとんどは、しょうもない粗雑な性感しかない。それが快楽だと思い込んでいる」
・「快楽を受け入れることは怠惰になること、悪いことだと思っている」

という意見を持っていて、これは今でも変わっていないし、さらに強くなっている。

集中して体内の特定の場所を刺激すれば(意識すれば)快感が発生するが、これは別にAEOじゃない。こんなことは今すぐ、誰がやっても発生するものであって、みな知らないだけ、やっていないだけである。

ここがAEO成就のひとつの分かれ道になると思っている。

恐らく過半数の人は、考察録を読んで、ちょっと体内に集中してみたら快感を感じ、それを「AEOだ!」と思っていそうである。だから、過半数の人間はここで脱落する。そもそもスタートに立つことなく終わる。

でも、しょうがない。特別な快楽体験をしてくる人というのは希少で、ほとんどの人は似たりよったりな人生を歩む。ここまで社会システムが構築され効率化されていれば、それは当然の話である。みんな見えている道しか歩かない。当然だ。その道を離れて、自分独自の快楽を突き詰めよう! などど考える人はそうはいない。

過半数の人間が体験してきた快感、快楽はしょうもないレベルだ。日本に生きていればなおさらだろう。ドラッグ文化も世界的に見ても限りなくゼロだ。だから、快感の閾値が低い。体が動かないおっさんの草サッカーを見て「すごい! やばい!」と思える。身体に毒でしかないアルコールが街中で安価に売られ、仕事のストレスを発散させるために酒を飲んで、結果的に精神と身体を蝕んでいく。このような生き方をしていて、ぶっ飛ぶような快楽を体験するための壁を突き抜けることは、当然だができない。

壁を突き抜けるにはある種の狂気、いやある種の正気が必要になる。

僕は今でも「AEOにはまだまだ先がある」と確信している。だからこそ、日々AEOは変化していく。それが楽しい。変性意識状態もどんどん深くなっていく。究極の瞑想は「死」だ。怖い物見たさでそれもまた最高の体験だ。

AEOを成就しようとする者は、どこまでも快楽を求める必要がある。それは粗雑なものではなく、質の高い純粋な快楽だ。その極地にあるのがAEOなのだ。AEOは快感そのものを体内で直接発生させる。何かに頼ることなく、なにか対象も必要とせず、強烈な快感が自生される。

AEO訓練者は、未だ絶対に体験したことがない至上の快楽、そして精神状態があるのだと理解しなければいけない。だから、AEOを成就していないのに「これがAEOだ」と思うのは間違っているし論理的にありえない。体験したことがない快楽を体験すれば、普通ではいられない。「心地いい〜」などというレベルではない。人生が根底から覆されるレベルだ。深呼吸でもストレッチでもオナニーでも人生は変わらない。

いま、あなたが感じている快感などゴミみたいなものだと思わなければいけない。

いま感じている快感で「AEOはすごい!」などと思うのは完全に間違っている。僕はAEO体得前に「AEOすごい!」などと思ったことは一度もない。壁を突き抜けていないから当たり前だ。わからないものを「すごい」などとは言えないし、「もっと先があるだろ? この程度の快感が天武氏が語ったAEOであるわけがない」と思い続けた。

ハッキリ言おう。

壁を突き抜けるまでに発生する快感はゴミだ。

ゴミをありがたがってはいけない。ゴミは捨てるものだ。

そうすれば新たなものが入ってくる。

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