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ヒンドゥータントリズムにおける儀礼と解釈: シュリーヴィディヤー派の日常供養


この本はヒンドゥー教、シュリーヴィディヤー派の人たちが日々行う儀礼やヨーガなどの実践やその解釈について書かれている本なのだが、おそらく普通の人が読んでもさっぱり意味がわからないだろうが、AEO体得すると、彼らがやっていることの意味がわかるようになる。

やはり大切なのはクンダリニーで、1にも2にもクンダリニーである。これで深い変性意識状態に入ることでそれぞれの儀礼の意味が出てくる。この著者は賛成しかねるようだが、本書にはこのような記述がる。

「そこに彼は女神の座したシュリーチャクラを想起する。それから彼は、彼女に対して通常の供養において神格に献じられるような、慣習的な歓待と供物の献供を開始する。ただし彼はこれらのものを瞑想の中で献ずるのであり、実体的な品物のかわりに概念で代替するのである。これがantarayaga(内的供養)とよばれ、タントラ行者に高く評価されている。この供養が完会に遂行できるかどうかは、執行者の集中力とクンダリニーヨーガの経験による。精神的に高いステージにあるタントラ行者は、ほとんど完全にこの内的供養を行うのであり、それゆえに実体的、肉体的な供養は徹底的に簡素化されることになる。このような供養では用いられる全ての要素は単に概念のみであるので、献供のための供物などが手にはいるかどうかなどといったことに慣わされる必要はないのである」 

『ヒンドゥータントリズムにおける儀礼と解釈』p31,S.Gupta

要は、クンダリニー覚醒すれば(AEO体得すれば)、深い変性意識状態に入ることができるので、供養対象や儀礼の映像化を瞑想中に容易に行えるようになるから、祭壇を用意したりなんだり、面倒なことは一切する必要はないのである。全ては概念だけで行われるとはこういうことである。

著者は、

「こうした状況はいささか極端であり、またあくまでも理論的立場を突き詰めることで導き出される論理的帰結に過ぎない。このように完全に観念的にのみ行われる供養が、実際に信仰の中で主流派をしめるに到ったとはいささか考えにくい。」

『ヒンドゥータントリズムにおける儀礼と解釈』

と述べるが、クンダリニー覚醒者が主流派にならないのは当たり前だ。それにGuptaの話は論理的帰結ではなく単なる事実だ。極端な話でもない。クンダリニー覚覚醒者にとってはこうした儀礼を瞑想の中で全て観想にて行うことなど容易い。そんなのはおこちゃまのお遊びのようなものなのだ。

99%の人はクンダリニー覚醒できないから、わざわざ肉体や物を実際に動かして供養を行うが、シラフで供養してもそれでは意味がないのだ。だからまずはクンダリニー覚醒に励めということだ。

ぶっ飛ばないと意味ないのよ。

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