サンタさんは良い子のところに来るなんて嘘だ
良い子のところにはサンタさんがくる
優しい子のところにサンタさんはくるのよ
そんなことしてると、サンタさんこないよ!
そういうセリフを口にしそうになるたび思うことがある。
私が我が子にそういう価値観を植え付けることで、やさしくない社会が出来上がってしまわないか。
「プレゼントを貰えないあいつは悪いやつなんだ」と間接的に教えてしまっているのではないか。
どこかの貧しい子や両親のいない子どもたちは、サンタさんがこなかった朝、ぼくはやさしくないんだ、良い子じゃなかったんだと自己否定してしまわないだろうか。
そして、そもそもサンタさんに来てもらうために 大人にとって都合のいい良い子を装ったり、優しくしようとするのは目的を履き違えている。
そんな計算高い優しさなど、あまりに子どもらしくないではないか。
私には児童養護施設育ちの友人がいた。
とても聡明で優しく、活発な友人だ。
誰からも愛され慕われていた。
彼女のもとにサンタさんは来てくれただろうか。
来なかったのだとしたら、サンタさんは嘘つきだ。
では、何と言おうか。
「ねぇお母さん、◯◯は良い子?
良い子だからサンタさんくる?」
さっそく今晩も聞かれた。
いい子にしてたらサンタさんがくると、昨晩夫が話したからだ。
純粋な3歳は「そうなんだ!」と思い、けなげに良い子でいようと努力する。
君は良い子だしサンタさんは来るよと伝えて、やっぱり胸がチクリと痛んだ。
伝統や、そう伝えている親達を否定したいわけではないのだが、どうしても私の胸には引っかかる。
なんて言えばよかったんだろう。
無条件にみんなのところにサンタさんは来てくれるのだと言えば、貧しい子のところには来ないじゃないかとなる。
じゃあランダムにくるなんて言えば何だそのシステムって話だし、毎年ハズレの子がさみしい。
じゃあなんて言おう。なんて…。うーん。
で、思いついたのがこれ。
「◯◯は良い子だよ。
でも良い子かどうかは関係なく、サンタさんは◯◯のところに来てくれるよ。
でも、サンタさんが来られないお家もあるんだよ。たとえその子がとってもいい子でもね。
それがどうしてかはサンタさんしか知らないんだけど、世界が今よりうんとやさしくて平和になれば、みんなのところにサンタさんが来られるようになるんだって。」
ここで言う世界の優しさや平和とは、
例えば
貧困家庭が生まれる負の連鎖を断ち切ること、
本当に必要な人に必要なお金が届く制度を整えること、
愛情の不足する家庭の見守りや、その親への支援を社会全体で行うこと、
児童養護施設へのプレゼントの寄付、
さらには世界中の争いごとがなくなること
などを指す。
みんなが少しずつやさしさを持ち寄れば、社会はもっと平和になる。
大人が救われれば、子どもたちの環境はあたたかいものになる。
言い出したらキリがないことも、綺麗事に過ぎないことも重々承知だが、私は全ての子どもが自分に非がないことで悲しい、悔しい思いをしてほしくない。
たくさんの大人による愛情の化身がサンタさんであってほしい。
サンタさんに念入りなお願いをして、
いつもより早く布団に入り、
翌朝 飛び起きて枕元を確認し、
ワクワクしながら包装紙を力任せに破く。
あの幸福感を、どうかすべての子どもたちが味わえる世界になりますように。
よろこびに満ち溢れた笑顔を見られますように。
みんなのもとに平等にサンタさんが現れますように。
そう願わずにはいられない。
「サンタさんにはプラレールのあずさと、特急火の鳥をお願いする!」
と話す息子の目はきらきらしていた。
「ぼく、プレゼントだいすきなんだ」
そうだよね。
お母さんはプレゼントだいすきな君にプレゼントを手渡すことが大好きだよ。
そう思いながら微笑ましく話を聞いていると、
「明日いっしょにあそぶコウくんと、コウくんママに、プレゼントあげたいな!
えぇとね、えっと、うんと…
おどろかせてあげたいの!」
と言うので驚いた。
驚かせてあげたい、何かしてあげたい、そう思えるようになったのか。自分がしてもらって嬉しいことや好きなことを誰かにもする、そうやってたくさん優しさが伝播していったらいい。
それがどんどん広まって、やさしくて平和な世界になればいい。
きみは小さなサンタクロースだね。
…となると、少し家を早く出て、プレゼントを用意していかなくちゃ!
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