137.教話雑感(22)-不遇な善人がいるのは何故?-
◆教話「人を助ける理」
雑感
長年抱いていた疑問を氷解してくれた先人の教話である。
もしも前生で悪行の限りを尽くして出直したのなら、今生においてもその延長線上でまた悪党として、逆に善行を為した徳の高い人なら、同じく今生においてもより深い善人に生まれ変わって来る…こういう発想が自然な理屈ではないだろうか。
仮にそうであれば、転生を繰り返す度に悪人はより悪の道に堕しやすく、善人はなお益々善道を邁進し、善悪ともに生まれ変わる度にハッキリ両極にわかれていくような気がする。
しかし、現実はどうか。
頭の先から足元まで完璧な善人もいなければ、そんな悪人だってそうそういない。相対的に見て善人と呼べる人や悪人として見える人がいて、特に両極化もしていない。
また、まわりから慕われてる善い人なのに、大きな災難や重い病に見舞われたり、反対に、多くの人から巧みに搾取し虐げていながら、そうであっても天罰が下るわけでもなく長寿健在のまま権力を牛耳って悪を為していたり…。
こんな大いなる矛盾が世の中のいたるところにはびこっているのは、一体何故なのだろうか?
長らくそんな風に疑問を抱いていた。
髙井義一翁の遺した教話が、まさにその答えそのものだった。
人生の終盤でふと改心し、過ちを悔い改め、その清算をしようと大転換する。
そうやって生き方が変わったとしても、それはそれとして、積み重ねて来た負債の額は少しも変わらない。あくまでも、それらを返済していくことでしか軽くなれない。
生まれ変わって、心入れ替えた分だけ優しい人間となってやり直したとしても、心当たりのない前生からの果たし時間の続きはちゃんと迫って来る。
なら、もう、とことんそれを喜ぶしかないよな。
【2018.4】
余談
Eテレのとある小学校低学年向けの理科の教養番組をぼんやりと眺めていた。ある一人の児童がひまわりの成長に素朴な疑問を抱き、先生にこんな質問をしていた。
「どうして一粒の種から花になると、種も一つじゃなくてたくさん出来るの?」
それを観ていて、ハッとさせられる。
子供らしい発想だと感じつつ、その実、なかなか核心をついた問いだったからだ。
どうして、一粒の種から成長した花に、たくさんの種が生まれてくるのか?
なにか、植物の成り立ちに限らず、この世のあらゆる物事に通底した法則を感じさせるものがあった。
一粒の善行から、やがてたくさんの同じ性質の種が生まれて、それを蒔いた当事者の運命の上に収穫される。
逆もまた然り。
善きことも、悪しきことも、蒔いた種は種通り、それも大きく膨らんで、巡り巡ってまた元の場所へと戻って来る。
心で蒔いた一粒の種。
言動で蒔いた一粒の種。
行為で蒔いた一粒の種。
何もかも最初はほんの一粒から始まった些細な種が、収穫期を迎えるにあたり、何百何千何万倍ともなって、その種の性質通りの形で実って来る。
それなら私達は、日々どんな種を意識して蒔いていけばいいのだろうか。
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窓を開けると、雪がちらついています。
北国の長い冬もようやく後半戦に突入します。
春までのもう少し、もうちょい頑張る。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^O^)