115.成人の代償
人の心の淀みを受け止める役目を請け負うことが多い。
日頃我慢して誰にも吐き出すことができないでいるうっぷんを、私の顔を見るなりここぞとばかりに吐き出して下さる、そういう方とご縁がある。
何だかゴミ箱のような役割だけど、それでその方が溜め込んでいたものがいくらかでも洗い流され、少しでも浄化されるのであれば、むしろ本望である。
どこの家の話に耳を傾けていても、無事平穏、苦しみのない毎日を送っているという方は稀で、大方は心身や経済上の不自由、あるいは家族等の近しいところでの人間関係に事情を抱え、頭を悩ませ暮らしているのが往々だ。所属教会の会長さんに不足し、関係がうまくいっていない信者の方も少なくない。
極論を言ってしまえば、そういう見聞きして心を曇らしてしまうような現象そのものが、その人の徳いっぱいの姿として他人という鏡に映ったその人自身だと思う。だから、己の運命をよく自覚し、内省し、心の内側から改善を試みていくことでしか解決を見ない気がしている。
…と、そんな模範解答のような解決策を提示したとて、人は容易に得心もせず、救われることもなく、心のゴミはただただ膨らんでいくばかり。
その今にも溢れ出さんとしているゴミを取り除かないことにはこちらの言い分も入っていかないだろうから、大抵は何も言わず、辛抱強く聞き役に徹している。
それにしても、人の悩み、苦しみは実に様々だ。
信仰していても、不意の災難には見舞われる。
「なぜ、どうして、私はこんな苦しい目に遭わなければならないんだ」
と、感情の塊を私にぶつけ、問いかけて来る。
見舞う不条理に対する意味を、答えを求めて来る。
ただ運が悪かったからだとか、そんなことではなく、理由はちゃんとある。
穏やかで、牧歌的な暮らしを毎日淡々と送れるのなら苦しみもなく随分人生も楽だろう。
でも、そこに心の練磨はない。
心をつかい、動かすことの少ない日々は、自ずと感動も薄い。
それは、神様が望んでいる生き方なのだろうか?
違う。
陽気ぐらしは、銘々の心が躍動して成される世界である。
衝突を回避して得た無難よりも、ぶつかって喜怒哀楽の感情を存分に発揮した上で尚喜んでいる姿をこそ、神は望んでおられる筈だ。
その過程で生じる痛みも、悩みも、苦しみも、自身を成長させていくための必要不可欠な代償であり、突きつけられたように感じるその重さは、対象である自身の魂のレベルに相応しいだけの難易度で設定された課題なのだろう。
【2017.10】
余談
今テーマと度々似たようなことを論じています。
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東日本大震災で大切な家族を失ったある女性の話。
あの日から数年経った今も、彼女は震災で娘を亡くした悲しみに暮れていた。
そんな中、周囲では徐々に、ようやく震災の痛みから立ち直ろうと前向きに歩き出す人が出てくるようになる。それなのに、未だにとてもそんな心境になれないでいる彼女は、元気を取り戻そうする誰かの姿を見る度に、更に傷ついていった。
それでもやがては転機は訪れる。
ある時、彼女ははたと気づく。
「私がいつまでも悲しいのは、亡くした娘を今でも愛しているからなんだ」
だから、その愛する思いがいつまでも変わらないでいられるのなら、自分はこれから先も悲しみ続けていいんだ。
そういう答えとの出会いを果たし、ついに彼女は自らの現在地、ありのままの姿を受け入れられるようになる。
彼女のこれからの歩みはそうやって始まり出す。
喜びであふれ、笑いの絶えない日々を毎日絶え間なく送ることができたら、それは確かに幸福といえるのかもしれない。
その退屈さに耐えうることができるのであれば。
嵐のような荒れ狂う日も、谷底のような真っ暗な悲しみも、いつかの晴天の喜びを深く、豊かに彩って祝福してくれる。その両岸で味わう感情と心境との行き来、体験の連続が“生きている”ことそのものだ。
涙をこらえることなく味わい尽くそう、どんな痛みであれ、悲しみであれ。
ここまでおつき合いいただきありがとうございました。
それではまた。