128.賢者の生き方は“幸福”を目的としない
目的の“幸福“ではなく、結果の“幸福”
小説家・村上龍。
説明するまでもないだろうけれど、1970年代、処女作「限りなく透明に近いブルー」をもって颯爽と文壇に姿を現し、同作で群像新人文学賞、そして芥川賞を受賞。以来、常に時代の風を敏感に捉え、鋭い発言を世に発信してきた表現者である。(個人的には彼の作品の中で『愛と幻想のファシズム』『五分後の世界』『歌うクジラ』が好き)
そんな彼のエッセー『賢者は幸福ではなく信頼を選ぶ。』を最近読んだ。
還暦を過ぎ初老を迎えた作家の目線で、日本国民の生活を蝕む経済格差のあらゆる断片に触れ、書き綴られている。
現代は、貧困層が一部の少数などではなく、最早社会の多数を占めているという。この先、今はまだ辛うじて置かれている足元の豊かさすらもやがて失われていくという現実を直視し、その上で将来に希望を見出す為に必要なのは“幸福を求める”ことではないと村上は語る。
何故か?
“幸福か否か”は、銘々が“今置かれている状態に満足しているか、いないか”で左右されるものだからだそうだ。
それがたとえ相対的に見てどうであれ、現状に満たされないものは、この先何を得たとしても、すぐにもっとそれ以上を、ここではないどこかをまた求め、いつまでも満たされることはない。
逆に言えば、現状の自分、環境に満足さえすることができれば、病人であろうと、路上生活者であろうと、幸福になれる。
幸福の基準とはそういう各人の主観で変わってしまうものだから、そこは目指すべきではない、そういったことを論じていた。
では、幸福ではないのなら、一体何を目指すべきなのか?
村上龍はこう提言する。
“幸福”を求める生き方ではなく、自分の以外の他者から“信頼”されるような生き方を目指すべきだと。
他者から信厚く、求められ、頼られる、そういう生き方を目指すことで、結果的にその人生は幸福と呼べるものに近づいていくのかもしれない。
心と身体は互いに影響し合う
仕事の合間にテレビをつけると、Eテレで『100de名著』が放送されていた。この番組は、古今東西、有名なものからそうでないものまで皆ひっくるめて今読むべき名著をわかりやすく25分・4週にわたって解説する教養番組である。
今回はフランスの哲学者・アランの代表作『幸福論』を特集していて、非常に興味深い内容だった。
プラス思考に転じれば、物事の捉え方が変わり、生き方が前向きに変わっていく…そんな風に思っていても、いざ大病や不意の不幸に見舞われると、想像を絶するような痛みや悲しみを前に人間の心は容易にへし折られ、絶望の暗がりに覆われ心は奮い立たなくなる。
あまりに大き過ぎる厄災を前に、一人ひとりの人間は、それだけ脆く頼りないようだ。
そういった時、心の苦しみを和らげる為に“思考を変える”ことよりももっと有力なのは、“行動すること”だという。
身体を動かし外側へエネルギーを発散させていくことが、苦しみから心を解放させる近道である。誰かに向けて惜しみなく心身の力を注いでいくことが、不幸に取り込まれない最善の道なのかもしれない。
【2017.12】
おまけ
先述の『100de名著』に指南役・講師としてゲスト出演していた明治大学文学部教授の合田正人氏の言葉が印象的だったことを記憶している。
正確な言葉はもう忘れてしまったのでニュアンスになってしまうのだが、
アランが述べている幸福とは、“自分が幸福であること”と“社会全体が幸福であること”、ここにねじれがない状態、こういったものなのだという。
なるほど~、と納得してしまった。
私はここにさらにもうひとつ付け加えて、
“神様がそれを見ていて楽しい”
この要素がここに絡んでくることで、
天理教の主たる目的“陽気ぐらし”の状態になるんだろうなと感じている。
“幸せとは”…これを考えるとホント尽きないもんだ。
私が突き詰めている“幸せとは”について、こちらで掘り下げております↓
更に、今回の幸福論から延長する“陽気ぐらし”的な在り方はこちらでもやや詳しく論じています↓
というわけで、本日はここまで。
読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^O^)