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144.どうして信者は減っていくのだろう
天理教って、“最後の教え”ってそういう風に説かれている。
“究極の教え”なんだって。
じゃあ、なんでなんだろう?
どうして信者は減少の一途を辿っている?
どうして教会はどんどんお返しが進んでいる?
誰でも思っていることかもしれない。だけど、改めてどうして? と深く考え込むとこれがなかなか明確な答えは導き出せない。故に、有効な打開策も見当たらない。
ただ、ごく一部に限っては、今も信者が増えているという教会や布教所、布教師がつくるコミュニティは存在する。詳細な実態はわからないけれど。
今回は本当に思いつくままに書き込んでいる。結論も現状まだ見えていない。
どうして子に信仰は伝わらないのだろう
教内の切迫した課題だと言ってもいいだろう。
こどもに、自分達の信仰が伝わらない。
こども達が神様の方を向いてくれない。
親はとても熱心なのに、こども達はむしろそこから離れて行こうとする。
教会の子弟であっても、信者子弟であっても、それに限らず、とにかく多くの信仰家庭が次世代に継承されずに途切れようとしている。
これが教団を根底から崩していく最大の要因なのかもしれない。
だってこども達が自然に信仰を受け継いでいれば、信者は減少していくことはないのだから。
そりゃあ、日本は少子化一途なので多少減ってはいきさえするだろうけれど、それにしても、信仰の親子間での断絶は深刻の極みだ。
なんでこうなった?
皆さんはどう思っています?
その原因はいくつも複雑に混在しているかもしれない。
でも、本当に単純な話、信仰している親のその姿が、その生き方が、どこか、こども達にとって魅力的に見えないんだろうなということは容易に想像し得る。
教会や教団に、身も心も財産も捧げ、こども達のことを全く顧みなかったとしたら、確かにきっとこども達はその背中を見て後ろをついていこうだなんて思わないだろう。
なにも全員がそういうことだと言っているわけじゃないけれど、多少は該当する部分もあるんじゃないのか?
おかげ様で私のこども達はいまのところ天理教のことは嫌いではない。
両親とも信仰的には適当な感じなのに。
これは“運が良かった”だとか、“こども達の心根が良いから”だとか、“私の親の徳があるから”だとか、そんなことを理由にされでもしたらたまったもんじゃない。
そんなんじゃない。
私はこども達を“自分の人生の主人公は自分なんだ”という意識を持つことを伝えてきた。人生は、誰かに、何かに、捧げ尽くす為にあるんじゃない、と。と同時に、神様に守られているから自分達はちゃんとうまくやっていけるようになっているんだ、という手厚い神からの恩恵の面も言葉にし伝えて来た。
お父さんも、じいちゃんも、ひいじいちゃんも、ひいひいじいちゃんも、代々ずっと信仰してきたんだぜ?(熱心かどうかはさておき)
それだったら超優良会員じゃん?
だったら神様手厚いぜ。
とまあ、そうやって。
で、実際の行動の伴った信仰面は、かなりいい加減で適当だったけれど、それでもこども達は天理教に拒否感を持たないし、月次祭にも普通に手伝ってくれるようになっていった。
おぢばに帰ることも好き。
KОGも、少年ひのきしん隊も、学生会の活動も、強要せずとも自然にそういう形でおぢばに帰っていくし、そういうことが好きになってくれている。
だけど、世の中には親が熱心なのにこども達はむしろどんどん離れていく家庭だって少なくはない。高額の御供えを捧げ、自分の時間も労力も捧げまくっていた筈の親だったのに。
それなのに、こども達が信仰しない。
おかしい。もっと強く、きつく神様のことを伝えるべきだったのでは?
…とかなんとかおっしゃっているベテランシニア信仰者を見たことがある。
他人である私に、そこらへんの内実はわからないけれど。
じゃあさ、
“信仰に熱心であること”そのものの意味を改めて問い直しても良くない?
色々根底から見直すべきことなんじゃないかって、そう思うんだよね。
状況打破の活路は布教推進にあるのか?
教祖年祭も仕上げの年になってきたからかもしれないけれど、最近やたらと布教推進の気運が私の周囲から高まってきているようにも感じられている。
私も布教ばっかしていた時期があった。
布教そのものは全く否定しない。
そこに大きな意味が含まれている。
自主的なことならば、むしろどんどんやっていいことだと思っている。
…自主的なことなら。
そう、自主的であることが、布教活動の大前提なのだ。
そこに有効な意味を感じ、気持ちがちゃんとのっているから、たとえそれが数枚のポスティングであってさえ、やり手のいんねんは良い方に切り替わっていく。
逆に言えば、一時間路傍講演しようが、神名流しを100回しようが、戸別訪問100軒まわろうが、やらされてやっている、促されて、推進されて、半ばノルマ的にやらざるを得ない状況下でやっていることにはほとんど意味はないと私は思っている。
だけど、どんどん布教熱をあげて、実働実働と、押し上げていこうとする働きかけが、現実に様々な大教会等でそういう流れがあるのだということは聞こえてきている。
そこにいるひとりひとりの心の声に耳を傾けるべき時に、大きな流れをつくって巻き込んでいこうとする。
そういう感じの信仰って、こども達に伝わらなくない?
かえって気持ち、離れて行かない?
教団内の多くは、なにか壮大な過ちを犯し続けている気がしている。
祈りの力は無限なのに、祈れない者の心を(型にこだわった)祈りの中にはめていこうとしているようにそう感じている。
そういう“祈り”が、はめられていく人達にとって“呪い”とか“縛り”として作用している気がして、なんというか、切ないんだ。
私は天理教人としてこれからもきっと在り続けるだろう。
だけど、おそらくきっとその中の突飛なマイノリティとして、面倒くさいやつとしてそこに居続けると思う。
あー、それでもどうやっても、教団がどうあがいても、大教会がどうもがいていたとしても、ひとりひとりのをことを見つめない限り、信者はもっと、きっとどんどん減っていくんだろうな…。
【2025.2.14】