見出し画像

「半歩」前進/ASDの社会性について

今回の衝突を経て、一歩前進した手応えがある。いや、一歩にも満たない半歩くらいかな。
今思えば、「別居したい」って気持ちは完全に逃げだった。

彼に散々「(暴力は二度と辞めてほしいから)ちゃんと障害と向き合ってほしい」なんて言いながら、逃げていたのは私だった。苦しんでいる彼を一人ぼっちにしようとしたのだ。私は婚約者としてとんでもないことを考えてしまっていたのだなと思う。反省反省。

言い訳のようだが、本気でそう思っていたのではなく頭の隅っこに「そういう選択肢もあるんだよ」と自分に言い聞かせていた。ある種自己防衛だったのかもしれない。実際に随分と気持ちは落ち着くことができた。

話し合いのあと、時刻は深夜3時を回っていたがすき家に出かけた。仲直りをしたら気が楽になったのか、二人ともお腹が空いてしまったのだ。

道中、車の中で彼が黙ってとあるYouTube動画を流した。

それがこれ。

ASDと診断されたNINOさんはYouTubeで「ASDの人はこういう特徴があるんですよ」と発信している方だ。
本動画は、ASDの人は喧嘩になったときに何を考えているか、どういう気持ちで発言しているのか、なぜ相手ともつれてしまうのか?などについて。

ふと彼は「2人で乗り越えたいと思っている。こういうの諦めてたけどちゃんとまた見始めるよ」と私に言ってくれた。その言葉が真っ直ぐでとても嬉しかった。 

動画の中で、なるほどと思った一節がある。

彼が黙り込んでしまうときは、私は返答を引き出すために質問を畳み掛けてしまっていた。言語化の手助けができれば、なんて思って考えでよかれと思ってやってしまっていた。
これは大きな誤解だった。動画にもあるが、ASDの人が固まってしまうのはよくあることらしい。言葉を正しく伝えたいと言う気持ちが強いらしく、彼は正しい言葉を探している最中だったのだ。質問を畳み掛けるなんて完全に逆効果だ。ただでさえ混乱しているのに、さらに質問されると急かされているように感じて余計混乱させてしまっていたのだと言う。動画を見ながら答え合わせをするかのように色々と議論した。彼とも「次からはじっくり待つことにするね」「うん、そうして欲しい」という会話ができた。

ただ、動画が後半に進むにつれて私は何か違和感を覚えた。

定型発達の人の視点で「定型の人ははこういうとき、相手にこう言ってほしいと思っている(こういう返事を待っている)んです」と説明している部分が度々あった。
つまり遠回しに相手に《この言葉が欲しいんだよ》と伝えている、と。要するに、「察して欲しい」ってやつだ。

「察して」、私が一番大嫌いな言葉だ。

察して欲しいと求める人も、
察してしまう自分も嫌いだ。
だからこそ、それを考えなくていい彼を好きになったのだ。

動画を見終えたあと、
こんなのを目指さなくていい、求めていないよと彼に伝えた。彼は複雑そうに笑っていた。

言葉は口にしなければ伝わらない。超能力者でもない限り、気持ちはやはり言葉でないと伝えられないと思っている。恋愛や友情においても《会話》が一番基盤にあると思う。
だからこそ、みんな一生懸命言語化をしたいのだ。他の方のnoteを読んでてもそう思う。大半の方が、感情を言語化する練習としてnoteを始めた、という方が多い気がする。

人間は回りくどすぎる。もっとストレートに生きればいいのに。謝って欲しいならば「謝ってほしい」と言ってしまえばいいのだ。

ASDの特徴として《社会性・協調性》がある。

本人としては、私の想像もつかないほどの苦悩があると思うが、私はASDのこういった特徴はとても素敵だと思う。とりわけ日本は、その場の空気や文脈を汲み取ることを美徳とした文化が根付いているためもあるのだろうか。私はこれこそがとても生きづらいと感じる。

今でこそ都会から離れ人里離れた集落でのんびり生活しているのだが、ここがとても居心地が良い。心が凪のように穏やかだ。私はずっと人疲れしていたのかもしれない。

書いていくうちに話が逸れに逸れて、熱く語ってしまった。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
では、おやすみなさい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?