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「軽井沢のセンセ」からの暗号(6)〜『失われた「40」年』からのブレイクスルー!!!

開かずの扉がひらいた時

 その、翌日だ。運命が変わった、あの暑い日のことはよく覚えている。偶然なのか、あるいは前から気になって潜在意識でずっと意識していたからなのか、ランチに入った涼しいレストランが、あの「浅見光彦記念館」のすぐ近くだったのだ・・・。ついに訪問のチャンスが訪れた。

 やっと見つけた。記念館の建物の前に、作品によく出てくる「浅見光彦の愛車」ソアラを見て大興奮、暑さなどいっぺんに吹き飛んだ。ドキドキしながら涼しい館内に入館すると、入り口に『北区内田康夫ミステリー文学賞』募集要項のパンフレット。なんとなしに手に取った。長身の素敵な男性が迎えて下さり、貴重な先着プレゼントの『扉』を頂いた。『扉』とは、例のミステリー文学賞の昨年の受賞作品の冊子だ。

 館内は、楽しいミステリー空間だ。二階へ向かう階段の途中におみくじがあったので引いてみた。すると…… 二月生まれのひろこは、これまたラッキーナンバーの二二を引いた!

 「乗馬をしたり、旅先で短歌を作ると運気上昇。また、歴史について調べると、失った何かを取り戻すことができるでしょう。ラッキースポット……滝。 おススメの一冊……『日光殺人事件』」

 その時のひろこは、留学までさせてもらい就いた仕事を後にし、家業の手伝いをしながら、お見合いもしていたものの、どれもうまくいかず、本当に人生が行き詰っていた。いつだってぱっとせず、いったいどうしたらよいのかもわからず、もがいていた。

 祖国日本は「失われた30年」とよばれる不況続きで、先が見えないトンネルの中を突っ走っているようだった。そこへもってきて、コロナという、何が原因で、どうやって防いだらよいのか、実際のところあまりよくわからない、感染症らしいウィルスによって、人々は未知の恐怖にさらされ、全体的に内向きになっていた。

 日本、いや世界中がもはや、方向性を失い、どうしたら良いのかわからず、全てが根底から覆されていた時期だった。

 そんな時、たまたま、手に取ってしまった文学賞のパンフレット。引いてしまったおみくじ。記念館に行く前はお先真っ暗だったのに、そちらを後にして軽井沢駅で上野に戻る新幹線を待つ頃には、パフェをほおばりながら、短歌をつくっているほど元気になっていた。その時の、母親との会話を覚えている。

 「あらあら、早速、文学少女を気取っているの?」

 「短歌を作るといいらしいの。ミステリー文学の神様からのメッセージを素直に実行したら、意外といいことあるかもしれないじゃない?」

 新幹線内では、内田先生の本を早速ネットで注文した。一冊目はもちろんすべてのきっかけとなった『追分殺人事件』、二冊目は映画化もされたという代表作『天河伝説殺人事件』、三冊目は、おみくじでおススメされていた、『日光殺人事件』。

 大学も大学院修士課程も文学部ながら、日本文学ではなく英文学。小説を書くことに憧れはありつつも、将来の仕事のために勉強すべきは英語で、実際ひろこはそちらを優先していた。6歳から子供英会話をはじめ、文法はニガテだったが、音で感覚をつかむのが性に合っていたのか、英語はほとんど唯一の得意科目ではあったが、同時に、長年学んでいる割に、満足できるほどの英語力ではないことを自覚し、恥じていた。

 したがって、文学賞の〆切も迫る中、まさかひろこは、自分が応募させて頂くなどとは夢にも思っていなかった。はずなのに、コロナで世の中すべての価値観が逆転し、それまでずっと追い詰められ、焦りや不安が頂点に達していたところに、世界の混乱で、逆にふっきれ、踏ん切りがついた。それまで、好き勝手しつつも、やるべきことや求められる人生を生きようとしていたものが、お陰様でついに、これまでフタをしていた本当にやりたいことに舵をきることができてしまった。

 気が付けば、両親に家業の手伝いを少し休むという許しを得て、北区をはじめいろいろな土地に取材に出かけ、モーレツに書いて、何とか応募出来た。文学賞と一緒に燃えていた夏!!!

 その文章はその後、当たり前ながら、『扉』に掲載されることはなかったけれど、初めてひらめきや思い込みを何とか形に出来た感覚があり、まさに『扉』が新たな次なる道を拓き、人生の扉を、大きく開けてくれたのだ。それは、ある夏の、ありがたい「思い出」だった。

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たきのさくら
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