「金閣寺の燃やし方」酒井順子
著者・酒井順子が本書を書いたのは、三島由紀夫「金閣寺」と水上勉「五番町夕霧楼」が金閣寺放火という同じ事件をモデルにしていたという事実を知ったのがきっかけとのこと。酒井順子にとってこれは「驚愕の」事実であったらしい。こうして、全く個性の異なる二人の作家は、金閣寺を通じて、酒井順子の中でつながることとなった。
私はというと、水上勉のことはほとんど知らず、「五番町夕霧楼」という名は――酒井順子と同様に――そんな映画があったような気がする、という程度である。一方、三島由紀夫作品は好きで――この点も酒井順子と同様だ――、少し前に平野啓一郎の「三島由紀夫論」を手に取りわくわくして読み始めたのだが、読みこなすことができず非常にもやもやしていた。そんな折に、ふとテレビで本書のことを知ったのだ。
本書では金閣寺自体の話以外に、二人の作家の人物像や生き方の背景などの紹介に多くのページを割いてあり、その違いを金閣寺炎上に対する二人の捉え方の違いに照らして見ることができる。平野啓一郎に挫折した身としては、わかりやすくてありがたい。
よく知られていることであるが、三島由紀夫は実際の放火犯・林養賢の証言から「美への嫉妬」という点に反応し、ここにフォーカスして「金閣寺」を書きあげた。このような「金閣寺」という作品に対し、水上勉は違和感をかなり持っていたようだ。「お寺の長い廊下をふく、ぞうきんの冷たさだけだと思った。ぞうきんにはにおいもある。そのにおいを私は書きたかった」と言っている。これだけを見れば、水上勉からだけではなく、三島由紀夫「金閣寺」は人物の描き方が浅いというような指摘も受けそうである。さらには、三島由紀夫自身が林養賢に対して「現実には詰ンない動機らしいんですよ」とか、金閣寺のこと(焼失前)を大して魅力のない、大して美しいと思った記憶も残っていない、その点では主人公(青年僧・溝口)への共感はあまりない、ということも言っているのだ。
なんとなく三島由紀夫自身も水上勉の指摘を認める余地がありそうな、主要人物(溝口もしくは林)に対するある種冷めたような距離感を感じる。でも、実際には「金閣寺」は高い評価を受けている作品。どこに「金閣寺」のうまさがあるのだろうか。
酒井順子によれば、水上勉が林養賢とほぼ一体化して「五番町夕霧楼」「金閣炎上」を書いたのに対し、三島由紀夫「金閣寺」は、金閣の側から書いている気がするとのこと。主人公は青年僧・溝口ではなく、あくまで金閣寺。この視点を具体的に、どのような技術を使って巧みに書きあげたのかまでは言及されていなく、残念である。興味がそそられるところだ。
そもそも三島由紀夫は人(他人)にはあまり興味がないのかもしれない。自分と、自分を取り巻く世界・時代に関心があり、それを小説に落とし込むセンスが抜群であり、それが「金閣寺」にも反映されているといえるか。
この視点でもう一度三島由紀夫「金閣寺」を読んでみると、また面白く読めそうである。
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