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復活の 摩尼跋陀羅像⑮
心と言葉の研究者をしているまさみちです。二十八部衆の解読の後半部分に入りました。見え捉えられないものを感じ取り、それを言葉に具現化することで、こんな読み取り方、あんな読み取り方も出来ることを伝えております。広大無限に広がる心を解読し、心理カウンセリングに役立てております。(55/88)
千手観音菩薩は、あらゆる手立てを尽くして救済する仏として紹介されるものですが、仏=人であるのですから、あらゆる手を尽くして人が人を救済する能力が備わっていることを伝承するものです。
ではどうやって「人が人の心を救済するの?」という部分が欠落しているように思えてならないので、読み解いて解説してやろう! という偉そうな意気込みで取り組んでいる企画でもあります。
ここまで大がかりなものを後世に伝えようと、遙か昔から継承されるほどの力が働いているものです。
特殊相対性理論は、輪廻転生とされる因果の輪の内側で発生する現象だとリーディングでは読み解けるもので、輪廻中でしか現象化しない感情機能(貪り、怒り、愚か)もあり、輪廻が解かれると消えてなくなるものだけに「気づき」が訪れる前と後では、考えや価値観や、現象そのものが変化してしまうため「予測がつく未来」が、「予測がつかない未来」になると、輪廻を消すことそのものが予測がつかなくなる現実に至る為、体験していない人からしたら、心を救済することそのものを「余計なことをしてくれたな」といった、不快感の伴うものと言えてしまうのです。
仏像など後世から受け継がれるだけのエネルギーとした思いがあるから、大事にされたり、再建されたりするものの、その再建時の思いの力が弱ければ易々と破壊されてしまうものになります。創建時の思いが強くても、身代わりとして痛みを吸収して焼失という現象で庇うこともある為、思いが強く高いだけでは、破壊を食い止められるとは限らないものです。
壊れやすいから大事にしようとする思いが働くと共に、その大事にしてきても壊れてしまう悲しさは耐え難いものと感じる故に、壊れにくいものを求めて行くようになります。
結果、壊れにくいものを作ると大事にしなくなり、ぞんざいに扱われるようになると、魅力が大幅に失われることにも繋がります。
人の死が、易々と訪れる100年前、200年前、それ以前の時代においては「掛け替えのない生命」とした大事にすべきものとして思いが溢れ、集まっていたものが、人の死が、遠ざけられそれでいて大切にされ、貴重だと安全性が確保されると、「大した価値として感じようがない生命」とした感覚を持つ人が一部で増えてしまっている現実があります。
それでも、昔も今も貧困は変わらずにあり、虚しさはつきまとい、原因を調べれば貧しさと豊かさは、知性のなさ、知性の高さに相関性が認められ、貧しい人は「望んで貧しいままにしている」という言明する人もいるもので、何を見て、何を見ないかによって、自身の世界を構成する豊かさの質量を変えられるものとなります。
学びなさい、勉強しなさい。
とした、言葉に尽きるものなのです。
けれども、苦しさやしんどさが嫌であり、「命の尊さ」が過剰にもてはやされた果てに来る「生きて行きたい気持ちの無気力さ」は半端のない力で、希望の持てない毎日をもたらす中で、抗いようがないものとなり、自身を覆い被さってくるのです。
摩尼跋陀羅像(まにはだらぞう)⑮
人の心は受想行識と、何かを受け止めることで反応し、想いが溢れ、それが行動に移り、識別され記憶とされ補完されていくものです。
では、過去世などを紐解けるアカシックレコードなど、あらゆる情報は記録されている書庫のような存在があるというのだから、「いつから、そのように受け止めること」になったのだろうか? と考える事が出来るものです。
「知らなければ恐い」ものが、「知れば恐くなくなる」という程に、「恐怖」というものは、「無知さ」によってもたらされるものとわかるようになると、知り得る力を持てるように変わると、「恐怖」を感じることが困難になってきます。
現実に鉄製の金づちが投げられ、それにより自身の生命の危機か安全かの識別が困難なとき、未来がどのような結末に至るかわからない感覚と、寝ているときに突如襲ってくる恐怖の感覚は違うものです。
物理的な現実味と、精神的な現実味の恐怖の比較において、人の心はどちらも嫌がります。
しかし、後者の精神的な現実味の恐怖は、物理的な「破壊」がありません。
それでも繰り返される眠りにつけない不安や、襲いかかる恐怖感は辛いものです。
一体、それはどこからやってくるのでしょうか?
A,「知らない」と「恐い」
B,「知る」と「恐くない」
と、考えたいものですが、人の感じ方はこうではありません。
Bの「知る」体験をすると、恐さが消え去ります。無くなったものを識別は出来ませんので、「何も思わない」状態になる為、「恐くない」とは感じないものです。
Aの「知らない」も識別は「知る」との比較が出来て可能なものですから、本来のAにおいては、ただ「恐い」から始まるのが適当な表現と言えます。
A',「恐い」
B'「何も思わない」
といった表現になり、「知る」という体験さえ識別しようとはせず、ただ、「何も思わなくなった」が知った体験で得られたものとなります。
知れば知る程、何も思わなくなっていく行程になるものです。
知る程に、何かを哀しみだと認識しなくなることを豊かになると解釈出来ればいいですが、知る前の恐れに囚われている状態において、「知りたい」と願望を思いつくことが可能かどうか、予測すると「困難さ」を思いつくものです。
人が、恐怖を乗り越えて「知りたい」と願い、「知る」体験に繋がるには、「知らない方があまりにも辛い、辛すぎる」とでもならなければ、恐怖を消し去りたいと真摯に向き合うようなことはしないものです。
心との対話において、「恐怖」から逃げる発想と、「恐怖」と向き合う発想との境界線に立つ仏の姿が、摩尼跋陀羅(まにはらだ)というものです。
摩尼跋陀羅(まにはらだ)の意味は、
摩(ま)とは、「これまでと、これからとの間において継続か変化をどうするかを検証する働きがあり、どれとどれを合わせたら良いのか? どれとどれだったら解決へと至るのか? 数字で例えるなら、1と1か? 1と2か? 1と4か? 1と8か? はたまた4と5か? と、あらゆる組み合わせを考えて、現状維持か、現状打破か、を思案するもののこと」を意味します。
尼(に)とは、「既に一人ではないと気づき、孤独は錯覚だと気づき、自分の中にもう一人の仏となる存在を感じており、その存在と対話し、①創造か? ②破壊か? ③維持か? ④回復か? ⑤融合か? ⑥超越か? ⑦根源か? を7仏に問いかけて解答を得られる状態にあると知り、困難であっても進んでいくと決めているもの」とした意味があります。
跋(は)とは、「②誰かに虐げられると解釈するか、①あの人を支えていると解釈するかにより、価値観は変わるものです。③恩があるから尽くしたいとするか、④働く場を与えてくれていると捉えるか、⑤力を合わせていたと気づくか、⑥この状態がもたらす恩恵は何かと閃くか? と、価値観を飛躍させていくかにより意識の持ち方も変わるものです。⑦そもそも何がどうなってこのような状態に陥っているのか? と事の始まりを知ろうと、人生の足下を見る意識の持ち方」とした意味があります。
陀(だ)とは、「①どんな状態でも微笑むことが出来ること。②どんな相手とも笑い合えるよう高め合うこと。③大勢を巻き込んでも変わらぬ笑顔を届けること。④どこまで破壊された心でも回復させて笑わせてあげること。⑤時代や環境や風習や文化に溶け込んで、その中で必要とされる笑顔に出来る世界をもたらすこと。⑥難しいとされることや無理だと諦めなければならないことの中からでも困難を乗り越えていき、最後には笑い合える道を開ける境地を育むこと。⑦事の始まりは「あなたを笑顔にするために来た」人生であったと思い出すこと。とし、いかなる状況や状態からでも微笑みかけられる存在に到達すると決めてきた意思がここにあったとする」とした意味があります。
羅(ら)とは、「無限に続くと信じてしまう輪廻の苦しみの中でも、必ず突破できるその日が来ると信じて、道を探し続けるもののこと」とした意味があります。
摩尼跋陀羅(まにはらだ)とは、「どんなに心が破壊され、打ち砕かれても、その状況下に陥っても純粋な真心はいつも側にあり、微笑みかけてくれていて、“諦めるな”と励ましてくれていて、どこまでも裏切らない存在が見えずとも居ると信じたとき、世界は変わり、輪廻を越える力を授かるもので、超越した視座と、内包したまま心閉ざした視座の両方を兼ね備えた存在の心」とした意味があります。
①〜⑦は7仏であり、それぞれチャクラに相当する概念で解釈すると識別し易くなります。
摩尼跋陀羅(まにはらだ)は、「破壊」された心の修復を担う仏であり、「破壊」=「創造」と繋がり合う表裏の関係だとわかることで、心の中の灯火となります。
はじめはとても小さい明かりであり、見失ってしまうようなものです。
それでも破壊された恐怖の暗闇の中では、その明かりが心の支えであり、価値のあるものとして見えるものです。
その明かりが①錯覚であり、②幻想であっても良いのです。③価値がない浪費するだけの意味の無いものでもいいのです。④他人に理解されなくても仲間内だけで戯れているだけでも安らぐのです。⑤取るに足らない戯れ言や、やる気の無い羨望であったとしても、その時の高揚感や憧れる気持ちで頑張れるならそれでいいのです。⑥遠くから見ているだけでいいのです。近づけたら尚いいけれど、触れてしまったら壊れてしまいそうだから、声にならない声援を贈らせてもらえるだけで不幸が和らぐのだからそれでいいのです。⑦何もかも失っている自分の盲目の眼に、何かが見えているならそれだけで充分なのです。
自分が信じて、心の支えにしているものがマイナス思考や、ネガティブ感情だとしても、それがあるから「復讐してやるまで死ねない」という力を持てているように、「謝らせてやる」とした日を夢見て、屈辱にまみれた世界でも耐えられているのです。
でも、本当は探しているのです。
摩尼跋陀羅(まにはだら)と共に探しているのです。
自分を救い出してくれる存在を。
暗闇の中から見ている灯火の中で、自分を助け出してくれる智慧(ちえ)を与えてくれる存在を探しているのです。
知らないから否定を否定で返して、その反発心や抵抗力を源にして生きているのです。
否定されなければ、存在出来ないのです。
「お前、馬鹿だろ」
「馬鹿って言うな!(笑)」
相手が投げかけてくる言葉を否定することで、会話を成立させて「痛み」を「笑い(自嘲)」に変えて行くのです。
自分の事を自分で笑ってみせられるようになるしか方法が見つからないからそれをしているのです。
「馬鹿だなぁ、こう塞ぎ込んで思考停止しているんだろう? こう考えてみたらいいんだよ」
「あぁ、本当だ。馬鹿にされたのに賢くしてもらえた」
このようなやり取りを誰もが暗闇の恐怖の中で待ちわびているのです。
自分が自分に必要な情報を探しに行くしかありません。
みんなが見ている情報の方が安心だと感じる為、恐怖がより少なく感じる方、自嘲するものの方へと誘導されてしまうのです。
知って賢くなると、これまでの辛さが無くなりわからなくなると共に、辛い人たちの存在が見て取れるようになり、手を差し伸べてあげられる人へと変われる道が開かれるのです。
自分が相手の暗闇の恐怖の中にいる「摩尼跋陀羅(まにはらだ)」になり、手を引いてやれるようになるのです。
心のどこかで知っているのです。
手を取り合えば、道が開かれることを。
差し伸べている自身の手を、自身が受け取るところから、物語は始まるのです。
いかがでしたでしょうか?
摩尼跋陀羅(まにはらだ)は、分岐点の仏です。
チャクラごとに解釈(①〜⑦)が変わり、どの心とどの心が結びつくかによって気づきも変化も大きく変わります。
自分の手を引いてくれる自身と、それを投影し、その姿で具現化してくれる友との出会いが世界を変えてくれます。
一人でも、暗闇の恐怖の中から立ち上がり、歩き始めた時、あなたを信じる人と出会えるのです。
では、また。
リーディングマスター・まさみち。
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