見出し画像

誰も解ってくれない 阿修羅像⑨

リーディングマスター・まさみちです。問題の本質を紐解くのは、本人が思っても見なかったことを告げることになるものです。「現実がいつも全てが願いのまま叶っている状態にある」という知識は、聞かされても信じたくないものの一つです。真理が解っている人が少数で、解っていない人が多数ならば、解っていない人の理屈で、世界のルールを決めた方がみんな安心するとして、今の世界が支えられているとするなら、真理など得られる筈などありはしないと、そう考えるものです。(49/88)

三十三間堂二十八部衆は、独特な構成をしているようで、色んなものをごちゃ混ぜにしている感があるようです。仙人がいたりして、どんな意味合いでそうなっているのか解らない感があるものです。

それをリーディングという見えないものを読み解く力により、調べて、現代にわかるように告げるとすると、「こんな風に閃き降ろされました」という記事をここで書いているものです。

「阿修羅(あしゅら)」と聞くと、何を浮かべるでしょうか?

「戦いに明け暮れる存在」「どんな犠牲を払ってでもやり通すもののこと」など、怒りの形相で敵を薙ぎ払う「修羅の道」「誰の静止も聞かずに、己の信じた世界観を貫き通すもので、武士や剣士や柔術を極める者が好んで飛び込み活路を見出す世界のこと」として認知されるもののようです。

では、リーディングでいう「阿修羅」は、その仏像から何を受け取り、人生の指標や学びにすればよいのか閃き降ろしていきます。

阿修羅像(あしゅらぞう)⑨

スクリーンショット 2021-04-27 20.15.29

人は親や先生「教えたこと」の中でも、子や生徒「教わり、承諾したもの」とした確認作業をしたにも関わらず、その承諾(約束)を破られたりすると、とても不快な気持ちになるものです。

繰り返し「教え」、繰り返し「教えを破るのは止めて」と頼んでも、「教えを守って」とお願いしても、子や生徒が「教えを破るのを止めてくれない」と、親や先生は「教えることを嫌いになる」感覚(教え甲斐がない、達成感がない、承認された感が来ない)に染まるものです。

親や先生の側が「教えることを嫌いになる(どう教えていいか解らない感)」感覚を持つようになると、子や生徒の側も「親や先生に嫌られた感」を抱くようになるため、より教わったことが守れなくなり、更に険悪な状態へと発展して行くことがあります。

親や先生は、始めは優しく教えてくれたものの、覚えが悪いと「怒気を含む」言い回しや、「見放す」感覚を匂わすような表現が無意識に増えて行くものです。

「何かしら嫌うになる」感覚が増すようになると、親や先生は子や生徒から「敵視する(嫌っているに違いないと邪推する)」ようになり、「処罰する(逆らうから、躾をしている)」ことをして、どうにか「教えたことを守らせよう」と、指導者として厳守させようと徹底するものです。

人や、親や先生は「嫌なこと(困らせること)はしないで」と頼んだら、人や、子や生徒は「嫌なことはしない(困らせることはしない)と約束を果たす」と信じていたいものです。

それで子や生徒が「嫌なことはしない(困らせることをしない)」ようにすることが出来るなら、喧嘩や、仲違いなど起きないものです。

教え方を改めるより、教え方は正しく、言うことを聞かない側(子や生徒)が間違っていると、周りの大人(親や先生)たちは解釈してしまうものです。

言うことを聞かない側が悪いとした解釈を持つ限り、「教えを破る」問題は、習う側だけにあるとして退かない事態が発生します。

親や先生の教えは悪くなく、子や生徒の学ぶ姿勢が悪いという理屈を生み出してしまい、子や生徒が「言うことを聞いてくれない」と手を焼きます。

永遠のテーマのように、真剣に考えても「何が問題なのか?」が見えないものでもあります。

時間だけが過ぎ去り、辛かった子や生徒の立場が終わり、大人になるとされた同じ事(真逆のこと)をしてしまい、問題の根底は改善しないまま、どの時代でも子や生徒が悪いような扱いまま過ぎ去ります。

そこで生まれるのは「強い不信感」です。

何かしら、納得出来、教えを守る気持ちが備わり、守り続けられる人はよいのです。

そうでない、守ろうとしているにも関わらず、守れなくなっている理屈が見出せない人にとって、自分が自己制御出来ていない事実を前に、自分がどうしてそのような真似をしているのか、他人に上手く説明出来ないことがあります。

子や生徒は、自分の尊厳や、自分自身の身を守るために「学ぶ気がある事を訴えようとする」姿勢で臨むことが、「反抗心」として受け取られる現実があるのです。

この「強い不信感」を抱かされた側が、それでも学ぶ姿勢があると立ち上がろうとすることが「対立心」として周りから見られてしまう事実があります。

心は、取り入れてはならない「教え」拒絶する自然な反応があります。

しかし、親や先生は、既にその「教え」に毒されている場合、その異常性を感じなくなっているため、自分たちは無害だから、子や生徒にも無害と信じて疑わず「毒だと反発すること」そのものを否定しようとします。

どの部分に毒が含まれているかは、「教え」ではなく、「人」そのものを見なければ解らないものですが、「人」の心の中には「見せたくないもの」「知られたくないもの」「隠し通しておきたいもの」「そっとしておいて欲しい言いたくないもの」などある場合、大人はそれを「触れずに置く」ことは許されても、子や生徒の場合、その隠し事などのまま見過ごしてはくれなかったりします。

親や先生は、心を閉ざし、開けたフリで通用するものの、子や生徒は心を閉ざすことは許されず、心は開きっぱなしでなければダメだとする関わり方が、言い争いや、屈服させようとする対立が生まれます。

阿修羅とは、自分の姿同士の争いの姿のことで、自分の内面で引き起こされている出来事を具現化しているに過ぎない問題です。

「理解もせずに口を出すな」

という概念を持つ人は、自分の未熟さを心得ている場合、「口を挟まずに静観する」と信じているものです。しかし、本質は「理解していない未熟な段階から、物事に関与しなければ、解らないことが解るように育たない」と知っている為、何度黙らされても、口を開いて関与しようとするのです。

「理解出来ている側の自身の対話の関わり方が間違っている」のです。

親や先生など、先人たちが築き上げたことが、その当時は有効であったとしても、現在は違うと、子や生徒の態度や姿勢が反抗的であるなら、取り組み方そのものに問題が生じていることを告げているものです。

力なき者たちが、力ある者たちへの訴えの姿があります。

力ある者たちが、力ない者たちへの諭したい姿があります。

力のある、なし関わらず、問題はそこではないと見つめる姿があります。

この本質は「そこではない」と告げる中央の姿と、左右に分かれる姿三位一体がここに映し出されているものです。

子や生徒は、親や先生に不信を抱きます。

親や先生は、子や生徒の不信に不信を抱きます。

その両者を見守る純粋なる自分が、どちらも不信の抱き方に「待った」をかけようとしています。

色んな学び方、関わり方、生き方があるにも関わらず、「それしかない」という対立や反抗を示して、「嫌い合い続ける」現実を生み出すことがあるのは、双方の心が繋がり合い、客観視出来ない状態に陥ってしまっているからです。

それぞれの立場で見える自身の正義感が、相手の関わりに「愛」を見出せない時、相手を見捨てずにいられない優しさが、「それではよくない」責めてしまう姿を生じさせてしまうのです。

多様な価値観が、「結果を生み出さない問題に固執している状態」を示すものでもあります。

親も先生も、子も生徒も、「間違った姿のまま、許し、それでいいと受け入れ、充分な休息をもらい、それでいて立ち上がるまで側にいて支えてくれること」を互いに要求し合っているものなのです。

どちらも同時に「ごめんなさい」と、言い合うところからが「はじまり」なのです。

不信感を払うには、不信のままの姿を受容する大きな愛の器が「同時に求め合っているもの」と、解り合うことです。

その互いを受容しないで、反目し合い、あーでもない、こーでもない、と論争や対立をし続けることを「阿修羅」と呼んでいるのです。

一度、その対立の道に入り込むと、抜け出し方が解らないことを示すものでもあります。助けようがないのです。

それでも、双方の不信を一つにまとめ上げられる力を持つ人が、自分の心の中にいることを信じることです。新しい発想を、この場で、生み出すことが出来るなら、争い、正しさを立証することよりマシだと感じられる仏性の姿なのです。

戦いや争いを表すものではないのです。抜け出せないジレンマに、関わる全ての人が悲鳴を上げていることに気づき、全ての心を繋げ、まだ見たこともない世界へ踏み出す意識へと動かした時に、「最初に否定された心が間違いでは無かった」と、教える側も、教わる側も双方の「はじめて」が狂っていなかったと解り合えたとき、治るものです。

スクリーンショット 2021-04-27 20.17.58

いかがでしたでしょうか?

阿修羅(あしゅら)とは、阿(あ)は、「あらゆる方法論の中でも、その方法しか見出せないほど、それに固執している状態のこと」を指し示します。

修(しゅ)は、「学び深め、更により良いものを求める為に追及を止めず、自己鍛錬や、自己学習を繰り返し、自分で悪いところは改めていると信じて疑わない為、他者の指摘が納得出来ない限り、聞き入れる必要がないとした狭量さが隠れているもののこと」でもあります。

羅(ら)は、「絶対退いては成らない問題だと信じて疑わず、主観性の世界において、客観性を持ち得ると錯覚した状態から抜け出せない無限ループにハマっていることを示し、どれだけ客観性を求めようとも、それそのものが従えない指示であることに教える側も、学ぶ側も気づかなければならず、互いに背を向け合う関係性が永遠に続いていると見抜くようにと願うもののこと」です。

阿修羅像の三方、顔が左右に向いているのを、正面の顔が新しい提案をして、和解に至らせられるかがポイントとなるものです。

「不信」がいつ、どのように始まったか?

その根源に帰り着けるかが鍵となる仏像です。

それが、「そもそも正しかった閃き」を、『それはダメです』と否定されて教わった体験が不信の始まりだと思い返してもらってもいいものだと考えてみてください。


では、また。

リーディングマスター・まさみち。


いいなと思ったら応援しよう!

真空のまさみち 〜真理で紐解くカウンセラー〜
リーディングで閃き降ろして書く記事は、因果を無に還しながら気づきを届けていくものとなります。 あなたさまからの応援が有り難いです。 励みになります。 これからも頑張ります!! お互いが愛の力(パワー)みなぎる範囲でのチップでお願いします。