辛哀の力 毘舎闍像㉕
心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。心理カウンセラーとして活動をしつつ、深層心理を読み解く中で、心の構造について紹介しております。仏像を通してそれら構造を解説出来そうなので二十八部衆をはじめ、色々な仏像の捉え方、使い道を伝えております。(65/88)
ここは第四チャクラに相当し、五蘊(ごうん)の色・受想行識における「識」のパートを紹介しております。
心の対話が大事であるように、仏との対話をするには、仏像を媒介してやり取りするのがイメージし易いので、それで対話するものですが「読み取る側の質」が問われるので、一にも二にも勉強しなければならず、知識の乏しい質と、知識豊かな質では変わります。また、知識の使いこなし方の質も善し悪しがあるものです。知識は様々なジャンルにおいて精通している方が、仏との対話もし易くなります。
特に「洞察力」とした、「物事の本質を見透す能力・資質があること」がとても重要な知力になります。
この洞察力が文脈や行間といったニュアンスを拾い出すものとなる為、この力が歪んでいたり、自身の不都合さを隠し、他人の揚げ足を取ることに専念することばかりかまけると誤解することになります。
「アンチテーゼ(反対側の意見の提示)」を示しているに過ぎないと思っているつもりが、否定や反対側について本気になって批難してしまい、問題解決に向けての協力体制を放棄してしまうのです。
「駄目だ!」「嫌だ!」「悪いことだ!」の偏った意見に凝り固まり、「この頑固さが、信念となり願いを叶える力になる!!」と信じて疑わない人もいて、その方が「賢い」と盲信する人がいます。
歪んだ洞察力の意味、定義は、「人が不快になる行為や、都合の悪いことを暴いて健全化を図ろうとする作業や、不当に搾取する仕組みの解体や、多数意見を集めさえすれば、少数の誠意ある意見をひねり潰せると信じ、それについて露呈しないよう隠蔽を徹底し、問題の本質を見抜かれないように保身を貫くこと」があります。
正しさがもたらす智慧(ちえ)の洞察力の意味、定義は、「問題や、困難さにおける課題や、衝突自案において、情報を収集し、言葉と言葉の繋がりや、行動の追跡調査から見られる性格傾向などを並べ比較し、全体の行動指針と、個別の行動指針が一致することを正常だと扱い、不一致の場合“隠蔽”など裏工作があると識別し、その仮説が正しいかどうか立証する情報を集め、整合性を見て総合判断して結果を導き出す思慮深さのこと」があります。
見えないものである「心」の対話は、「否定から考える(受)」「不快さは全て嫌がればいい(想)」「より楽な方がきっと幸せ(行)」「問題を問題と認識しなければ問題にならずに笑う為に嘘を突き通せばいい(識)」という発想がある限り、成立しません。
他人とのコミュニケーションにおいても、対話の中で不快感に触れてしまうとすべからく相手は悪者であり、自分は善良な人だと思い込むことが多いのです。
嫌な想いをさせた相手なら、何をしても許されるとした被害者の立場に立てたなら、加害者をどのような目に遭わせても良いと振り上げた拳を打ち付けても、「自分がどれほど辛かったか」という裁量というものは、本人にしかわからないため「気が済むまで」仕返しをしていいルールを持っている人もいます。
どうして、そこまで「怒る」必要があるの?
そんな風に感じたことはありませんか?
人は、どこから「怒れば言うことを聞かせられる」ということを学ぶのでしょうか?
明王となる忿怒の仏像は、本当に怒っているものなのでしょうか?
「自分を情けないままにするものではない!!」
このような、相手の底力を引き出すための言葉には「奮い立たせようとする力(識)」があります。「鼓舞させる力(想)」ことや「覇気を出させる力(受)」などがあり、「見損なったぞ(行)」とした突き放すようなことで、表情は忿怒であっても、その形相は厳格さ知性の現れであり、冷たくも温かいものです。
良質な「真愛の力、親愛の力、深愛の力」の関わりがあればよいもの、「悪質な辛哀の力」がかかると、事件や事故などトラブルが発生した時の対応を間違えることがあります。
本人は非を認めている場合、自分自身「絶望(想)」の気持ちに打ちひしがれていて、阿吽の呼吸のごとく相対する相手は、「憎悪(受)」に猛り狂うことがあります。
客観的に見ている取り巻きも、「そいつが犯人だ!」と被害者に加担して「憤怒(行)」して、より強く責め立てることが起きます。
どうしてこのような本人が「絶望(想)」という精神状態にあるにも関わらず、「憎悪(受)」を持つ被害者や、それを見ている周りの人たちの「憤怒(行)」という集団で個人を叩く現象が起きるのでしょうか?
それは育ってきた中で、尊敬する誰かを『模倣(識)』しているからです。
人から何かを学ぶとき、「見よう見まね」があります。
先生が、生徒を見たとき「絶望(想)」に泣いており、見かねて奮い立たせようとする為に、あなたはそのような落ち込むような世界に逃げ込むような人ではないと表現したくて、『見損なった!(行)』と言い放つことがあります。それは、「覇気を持たせてやりたい(受)」、「絶望ではなく、鼓舞させることだ(想)」を与えてやりたいという意味合いで使ったものです。
けれども『見損なった!(行)』という場面を見ていた人が真似ようした時、どこを真似るかと言えば「見た目や仕草、表情や声色」です。その為、同じような「絶望(想)」でうな垂れている人に『どれだけ損害が出たと思っているんだ!(憤怒の形相・行)』で『模倣(識)』したつもりになるのです。
全然真似られていないのです。
「識」の意味合いは「知識の解釈(受)、感情の恩恵(想)、目的の意図(行)、記憶(識)」であり、体験してきた経験の解釈や、その当時の感情のやり取りや、どんな意図でその記憶を形成してきたかが保管されているものです。
「鼓舞」が目的にもかかわらず「憤怒」していては、「見損なった!」という表現と「どれだけ損害が出たと思っているんだ!」では、どこをどう見たらそうなるのか? という程、解釈の間違いは引き起こされるものです。
「愛ある師の姿を見て学び」「愛のない弟子が育つ哀しい事実」があるものです。
どれだけ形を見て覚えても、内容中身は『模倣』出来ないことがあります。
言葉をいくら学んでも、内容中身の伴った『言霊』が使えるようになっている訳ではないのです。
「愛(いと)しい眼差し」を向けていても、その眼差しを「哀しい眼差し」として感じる人もいます。愛されていることがわからずに、「怒られているのではないかと想像してしまい、哀しくなる」のです。「奮い立たせようと、鼓舞させようと、覇気を引き出そうと愛している」事実が伝わらないのです。
ハート(心)が深く傷つき哀しみに呑まれると、そういう事態が引き起こされ、『奮起させようとした』事実が、『憤怒しているにしか見えない』と誤解されて、師が叩かれることもあり、今の世は、他人に迂闊に元気づかせようと本質の愛を示せなくなっているのです。
哀しい時代です。
⑪緊那羅「絶望(想)」
⑱提頭頼吒王「憎悪(受)」
④五部浄居「憤怒(行)」
なぜ、「⑪絶望(想)」しなければならないのかは、そうしていないともっと怒られるから、怒られたくないから自分で自分を責めるように親の真似をして『㉕模倣(識)』したのです。
どうして、「⑱憎悪(受)」しているのかと考えるなら、その方がいいと受け継がれたからと、先輩の真似をして『㉕模倣(識)』したのです。
どこから、「④憤怒(行)」してきたかと思い出すなら、いつからかしら自然と『㉕模倣(識)』したかさえ覚えていないほど当たり前のように真似しているのです。
みんながみんな、誰かの形を『㉕模倣(識)』して、『④憤怒(行)』し、『⑪絶望(想)』に落ち込み、『⑱憎悪(受)』に狂い、エンドレスの苦しみが全員に行き渡るのです。
止めませんか?
毘舎闍像(びしゃじゃぞう)㉕
人は、様々な人から学び、その知恵を貰い受け、また真似ることで「似た姿」で育ちます。
お父さんそっくり。
お母さんそっくり。
などと、口調や、仕草など、子どもはそればっかり見て育つ為に、どこまでも親の模倣をしていると言えるのです。
どこまででも好きだとしても、嫌いだと反発しようとしても、手本は身近な存在から真似て覚えてしまうため、「反発するほどよく似る」という側面もあります。
毘舎闍(びしゃじゃ)は、「よくよく考えよう」と思慮深さを与えてくれる仏です。
人付き合いは、色々な可能性があり、関わり方も様々な失敗体験、成功体験を繰り返しながら「善し悪し」を身につけていきます。
絶対嫌われる行為や、何があっても破ってはならないルールなどがあると、上手く行っている時はよいものの、イレギュラーとなる異常事態や、緊急事態など、想定外やルール外の問題が発生した時、どのように関わるかが課題になります。
「よくよく考える」ことの大切さは、「ルールはルールでとても大事」ではあるものの、「萎縮して何も出来なくさせる為のものではない」と、気づかなくてはなりませんが、哀しみに心を閉ざした人は、哀しみから脱出して回復した手順を『模倣する記憶がない』為に、心を閉ざしたら、心を開く切っ掛けが得られなくなります。
「自ら動き出すしかない」
と、行動が世界を変えることを教えてくれていても、「行動したけれど、何も変えられなかった」という人もいます。これこそ、形ばかり整えて、内容中身が伴っていなければ、行動してもその通りの結果に到らないものです。
『④憤怒(行)』している人を見かけるなら『見損なったぞ!(行)』と、突き放す厳しくも優しい愛をしめしてやり、哀しみに閉ざしている人に、関わり方を『㉕模倣(識)』させる今を提供するのです。
『⑪自責(想)』している人を見かけるなら『鼓舞しろ! 鼓舞!(想)』と、責めても改善には繋がらないことを伝え、胸を張り落ち込むことよりも、次に繋げるためにどうすればいいかの手本を見せてやり、『㉕模倣(識)』させることで、牽引してやり、心を開いて見せてやり、同じように開かせる切っ掛けを与えるのです。
『⑱憎悪(受)』している人を見かけるなら『それが覇気のある姿か? 覇気ある人は加害者を気遣え!』と、萎縮させる方向から、解決する方向性を自らやるしか打開策がないと手引きしてやらなければ、加害者の自責が確認出来るなら、それ以上追い詰めるような関わりをさせぬように堂々として見せることの重要性を『㉕模倣(識)』させるのです。
これまで、親や師や先輩などの関わりにおいて、間違った『㉕模倣(識)』があるから、『④憤怒(行)』するしかなく、『⑪絶望(想)』に落ち込み、『⑱憎悪(受)』の責め苦を与えることが正義だと信じて疑わないのです。それしか知らないからです。
その関わりの間違いに気づいたら、全身全霊で関わり、身体を張り、『㉕模倣(識)』して見ろと、手本を示して、覚えられるまで、また、病んだ心が治るまで、満たされなかった心の空白が埋まるまで、哀しみが癒えて、『今、愛されています』と、欲して止まなかった愛がここに見つかったと感じられるまで、関わり続けてやるのが毘舎闍(びしゃじゃ)が示す仏性なのです。
誰もが間違えて覚えるものです。
客観的な方法論や、コーチングや認知行動療法など、様々な心理メソッドが存在しています。幾らでも使ってみてください。
それでも、「あなたの母さんではない」や、「父親を重ねないで欲しい」とか、「代わりになりたくない」など、誰も好きで『深い哀しみの傷』を抱え持っている訳でもないのに、その傷ついた心の治し方を探そうとコミュニケーションすると、『怒られ、嫌われる(憤怒)』されてしまっては、『⑪絶望に陥り、⑩卑屈になり、⑨人間不信になり、仕方なく⑧自己犠牲精神で我慢して生きる』しかなくなるのです。
誰が好き好んでこんな性格になった訳じゃない。
自分なりに一生懸命やってこれなのです。
精一杯で、この程度だと認めてくれないのです。それならもう「社会や両親に向けて、⑱憎悪に狂い、⑰背徳して、⑯終焉を迎え入れて、⑮破壊し尽くせるようメタメタになってしまえばいいと、狂気の矛先をどこかに向ける」しかなくなるのです。
みんな集団で「辛いのはお前だけじゃないと④憤怒し、ゲームや酒や賭け事や女や、芸能など③色欲を上手くガス抜きして制御しろと言い放ち、②暴食(やけ食い)でも、大人買いでも、それで社会の規範から外れていないならそれでいいと病んでいるのに、病んだ扱いしない現実には目を背け、都合の良い理論で自己正当化を繰り返す①強欲さは棚上げして批判するみんな」がいるのです。
いつも「㉒落第した発想だから㉓差別を受けてしまい、上手に自己防衛も出来ないから何でもかんでも㉔剥奪して丸裸にされてしまい、目に入っている見た通りのことしか㉕模倣出来ない為、コピー元が同じレベルだから引き合う事実に気づかないと、どれだけ真似ても、真似た相手も「出来ていない人」という哀しい現実があるため、哀しみが蔓延するしかない世界」なのです。
哀しみしかないのです。
哀しみを否定してジャンプしても、哀しみに着地している現実を直視しなければ、人はいつまでも「希望の夢の世界を笑って生きていられる」ものです。
それは心の治し方がわからなくなった人が自分の心を守る為に行った『鼓舞し続けようとしている無理がある姿』なのです。
哀しみを否定しても、哀しいのです。
哀しみは、その根源的な事実を認め受け入れ、「それで良かった」と真実のままに偽ることがない気持ちを受け入れるだけで治るものです。
「他に方法がなかった」
と、哀しみに押し潰された現実があるなら、今からなら「それ以外にも方法を与えよう」として、毘舎闍(びしゃじゃ)の仏性から閃き降ろされる智慧(ちえ)で、改善してしまえばいいのです。
自分の心です。
自分でどのような解釈を持たせ、愛に気づかせ、笑えるように出来ればそれでいいのです。被害者が笑えば、加害者もいなくなります。擁護する人も、批難している人もいなくなります。
辛哀の力で苦しいことを真似ていた世界が、「㉒真愛の力 大梵天王」により、自分が真似したい素晴らしい仏のような人なら、「㉒落第」しまくる自分の脆い心の全てを抱きしめ、手を引いて面倒を見続け、救済してやりたいと思うものです。
辛哀の力で苦しいことを真似ていた世界が、「㉓親愛の力 神母女」により、自分の想像する最高な愛がここにあるなら、「㉓差別」された哀しみしかない心の全てを救い上げ、癒やしきるまで温め直してくれると思うものです。
辛哀の力で苦しいことを真似ていた世界が、「㉔深愛の力 娑伽羅龍王」により、自分の能力や可能性が「㉔剥奪」されている辛さをわかってあげ、どんなに手間暇がかかるとしても諦めずに助け続ける力を貸してくれる仏性がここにあるのです。
なぜ、辛哀の力で捻じ伏せられてしまう哀しい現実があるのかと問うなら、救い上げられるほど周りにあなたの哀しみを救済できるだけの器がないだけのことです。それを周りの人に責めても意味がありません。愛を求めても無駄なことです。
自分で理想を仏に見出して、仏の中に見る理想の指導者の指示に従って生きる道を見出していくことです。どこまでも自分の弱さや、関わり方や、仕打ちの数々など、理想の仏性から感じられる仏が投げかける覇気ある言葉は、厳しくも温かいものになるものです。
それを毘舎闍像(びしゃじゃぞう)の中に見出してみてください。
ワークを教えます。
毘舎闍(びしゃじゃ)を小さく5cmほどの人形サイズにして、自分の胸の中心にイメージします。もう一体、毘舎闍(びしゃじゃ)を大きく50mほどの巨大サイズにして自分に重ねるようにしてイメージします。辛いこと、哀しいことを思い浮かべつつ、関わった人たちも全員巨大サイズの毘舎闍(びしゃじゃ)の胸の中に入っている前提にして問いかけます。「あの扱いをされる必要があった理由を教えてください」と問いかけることで、内面に浮かぶものを聞き入れ続けることで、見失っていたものに気づけるものです。
愛を見つけられない世界の中で、愛があったと見つけられることが人生です。
自分を愛してやることです。
相手を愛してあげてください。
みんなの悪想念に呑まれないでください。まずは自分から変わっていく道を歩き出してください。
自分の理想の仏性を信じることで回復の切っ掛けはいつでも無条件に得られることを忘れないでください。
必要なものはいつでも「ここに在る」ものです。
真実の愛に導かれていると信じ「愛の私ならどうするのか?」と、いつでも問いかけ続けて生きてみてください。
「心は使わず、仏を使うのです」
仏性そのもので振る舞ってみてください。
愛の学びが始まります。
いかがでしたでしょうか?
では、また。
リーディングマスター・まさみち。
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