公共は行政だけが担うべきなのか

現在、地方創生に関わる仕事をさせて頂く中で、行政機関と一緒に仕事をする機会が増えた。私の所属する組織は公益財団法人であり、国の管理監督を受けながら仕事を行っており、ある種行政に近い組織といえるかもしれないが、成り立ちや組織の性質からいって、民間の立場で仕事をさせて頂いていると思っている。

そうした中で、改めて民間と行政の違い、民間にできて行政にできないこと、はたまたその逆は何なのか、ということについて考えている。

国の借金が1,000兆円を超え、コロナ対策でさらにその額が増える中、この先も未来永劫、国や行政機関が社会インフラを支えていくことは可能なのだろうか。有識者の間では既にこうした議論も様々に行われているようだが、今一度一市民として、「公」や「公共」は誰が担うべきものなのか、ということについて考えてみたい。

今自分の住んでいる鳥取県では、冬になると雪が降る。ここ最近は暖冬傾向でそれほどの大雪はなかったのだが、5年程前には33年ぶりに1メートル近くの大雪となった。今冬も寒波の影響で大雪となることが予想されている。

このような時に、市民は当たり前のように雪かきを行う。それぞれが家の前をかき、そして道路も少しづつかくことで、町全体が除雪されていくことになる。これもいってみれば一つの公への参加の仕方だろう。

これが全て行政任せということだとしたらどうだろうか。

市民は行政によって手配された除雪車が来るまでは何もしないかもしれない。その結果、除雪がすぐに行われるところと、遅れて行われるところと、バラツキが生じるはずだ。全ての地域に同じタイミングで万遍なく除雪車を配備できるほどの余裕はないはずだからだ。

そうすると、市民の間には不満が生じるだろう。何故税金を払っているのにちゃんと除雪してくれないんだ。これは行政の怠慢だ。のように。

実際にこれに近いような話は、近年国内のあちらこちらに生じている。

国家、行政機関がさらに努力をする余地がある、ということはそうかもしれない。しかし、一方で国や行政への過大なる期待、あるいは依存は、私達市民自身の力を減衰させることになってしまうのかもしれない。

「アメリカのデモクラシー」を書いたフランスの思想家、トクヴィルによれば、「行政の集権には市民の公共精神を絶えず減衰させる傾向があると考えられる。」のだという。

今回のコロナ禍で、我々は国による判断を期待したが、その多くは失望に終わったように思う。

隣国のように強権的な手法で感染対策を行うことに否と言うのなら、私達自身の手で公に関わることを、もっと考えていかないといけないのかもしれない。

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