『平和主義とは何か』を読んで

戦争は誰しもイヤなはずなのに、民主主義の国でも戦争が起こるのはなぜ?という疑問を少しでも持ったことがあって、でもなんとなく考えるのを諦めてしまったことって、ありませんか。

わたしは、大きなトピック(たとえば、戦争についてとか)について根本的に意見が一致しない場合、それは相手の考えが浅いからとか、相手と自分の関心の方向や強さが違うからだと考えてしまうことが正直あります(SNS上であふれかえっている言葉には、そういう前提で相手を攻撃しているものがけっこうあると思います)。つまり、相手には自分の見えているものが見えていなくて、それを見ようとしない相手が悪いと考えてしまう。
でも、それでは議論がかみ合わない。なぜなら、筆者の言葉をかりれば、「議論の土俵」を共有できていないからです。

戦争や暴力に反対するためのなにか強く感情に訴えかけるようなメッセージを求めて読むならば、この本はかなりドライに感じられるかもしれません。しかし、それはこの本が戦争や暴力に反対する意見に冷笑的だからではまったくありません。この本では、「人々の支持を得られ、説得力のある平和主義のあり方」(p.ⅲ)を探るために、非平和主義的な立場との対話という形式をとりながら、それでも平和主義を選択するとすればどのような論理でそれが主張されうるのか、が検討されます。非平和主義がどのような論理のもとで主張されるのかにも、かなりの紙面が割かれることになるのです。

わたしは読んでいる途中で、「そこまで相手の言い分を聞いてしまってはこちらが言い負けるのでは…」と感じたり、「あれあれ、平和主義がかなり形勢不利になってきたぞ…」と不安になったりもしました。この本の興味深いところは、非平和主義者との対話において議論を前にすすめるために、平和主義の立場からは合意できないようなことも「いったんここまでは認める」という段階を(仮にであっても)ふむところです。しかしそれは単なる妥協ではありません。異なる人々が納得できる平和主義のあり方を読者とともに探っていくために、筆者が敢えて採っているアプローチなのだと思います。普段そんなふうに考えてみたことがなかったからこそ、読んでいて思考が揺さぶられました。

この本を通して読んでみて、政治哲学が「政治的・社会的なある種のインフォームド・コンセントを促進するためのものである」(p.221)という筆者の考えがとても腑に落ちました。わたしにとっては、それが示されている終章に、特に発見が多かったです。ここで冒頭の疑問に戻りますが、民主主義においては、主権者に選択肢が与えられているだけでは不十分で、それを選ぶことはどういう立場にたつことなのかがちゃんと分かるような情報が与えられていることとか、それをふまえたかみ合った(同じ土俵に立った)議論がされることとかが不可欠なはずです。でも、それって当たり前のようでいて、なかなか実現できていない。

政治哲学の論理性は、絶対的な解決方法を提示するものではないけれど、わたしたちが議論の土俵を共有し、立場の違いに対して、感情的に否定する以外の方法で対話を重ねていくための道具として使えるのだということをこの本から学びました。

※ 立場の違いを越えてどのような対話が可能なのか、については、いろいろ考えたい切り口がたくさんあるので、また取り上げていきたいと思っています。

(✏️:K)

松元雅和,2013,『平和主義とは何か—政治哲学で考える戦争と平和』中央公論社.

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