映画『クレイヴン・ザ・ハンター』感想
予告編
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R-15+指定
自己認識
「今後のSSUはどうなることやら」といった話はライトなアメコミ映画ファンでしかない僕には難しい。「SSUの最新作で~」「原作ではスパイダーマンの宿敵で~」等々、調べれば調べるだけ期待値が膨れ上がるような要素が多く、それだけにSSUという大きな流れを意識してしまいそうですが、実のところ、特に鑑賞前の予習や関連作の知識が無くても楽しめるのが本作の良いところの一つ。今しがた述べたような懸念は杞憂にしか過ぎませんでした(もちろん関連知識があれば、なお楽しめることでしょうけれど)。
冒頭での大暴れで主人公セルゲイ/クレイヴン(アーロン・テイラー=ジョンソン)の超人的能力を目の当たりにさせられ、そこから過去の回想へと移り主人公の動機付けや超人的能力の源泉に触れ、現在のパートへと戻ってくる……。身構えていたわけではなかったのですが、とてもわかりやすい導入だったことに加えて、見ているだけで楽しいアクションシーンのおかげも相まって、気軽に物語にのめり込むことができました。
そんなアクションシーンに関して、主に飛んだり跳ねたりなどCG表現によるアクションも多かったのは事実ですが、格闘シーンやカーアクションではバッチバチに体を張っていて面白い。これは実際に観て楽しむしかないのですが、「俺TUEEE」みたいな無双ぶりwと、それら超人的な身体能力を納得させてくれる肉体美や鋭い眼光がクレイヴンというキャラを魅力的に仕上げてくれていました。
一応、異なる世界線とはいえマーベル映画(『アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン』)にも出演経験のあるアーロン・テイラー=ジョンソンが再度マーベル作品に起用された理由が窺い知れます。
超人的能力で言うと、個人的に好きなのが “嗅覚” の見せ方。「百獣の王」の力を身に宿したセルゲイは単に怪力だけではなく、その他五感も鋭くなっている。
まず先に視覚や聴覚についての話をさせてください。雑多な音が反響するように音が流れてきたり、空間が歪曲するような映像を用いて遠い場所の様子を描いたりすることで、並外れた視力・聴力が表現されています(全編に亘って通常のシネマスコープのスクリプト比ながらも、各劇場でIMAXやドルビーで上映されていたことは、以上の見応えを堪能するためのものだったのかもしれません)。常人には不可能なほどの遠距離でも目を凝らすだけで視認できることや、通常では聞き取れない音ですら聞き逃さないことによって生じる “セルゲイだけが気付いている” という状況もまた、先述の「俺TUEEE」感を引き立たせてくれるよう。
そして嗅覚に関して。ある時、すれ違いざまに接触しそうになってしまった一組のカップルに対し、小さく謝罪の会釈をすると共に “香水の匂い” を褒めてあげた紳士的なセルゲイ。感謝はされたものの……
とまぁ、これは実際に観てもらった方が早いシーンなので詳細は割愛しますが、コメディというほどではないにせよ、少しばかり頬がゆるんでしまいそうな会話の中で、さらっと彼の超人的嗅覚が、それこそ観客に “におわす” ように描かれていたのが面白かったです。物語が停滞しない程度の短いシーンだったことも良かった。
……そういえば先述したIMAXやドルビーに加え、一部劇場では4Dでも上映されていたみたいですが、もしかしてこのシーンで何か匂いの仕掛けでも施されていたのでしょうか?(誰か教えてくれないかなぁ笑。)
さてそんな本作、この『クレイヴン』ないしはSSUが続いていくのか打ち切りなのかが現時点(12月14日現在)では判然としませんが、今後が楽しみな締め括りではありました(※明確なネタバレではないと思いますが、ここから終盤の展開に言及していくのでご注意ください)。
長男として、男として、後継ぎとして……etc.
父・ニコライ(ラッセル・クロウ)から期待されていたセルゲイ。ですが、それは見方を変えれば「〇〇であるべき」「~~らしさ」という “ある種の呪い”。若かりし(16年前の)セルゲイは部屋に置いてあった鏡に目をやり、そこに映った自分自身の姿に何を認めたのかまでは明示されませんでしたが、まるで父親からの “呪い” に縛られかけている自分自身の現状を認めたくないと言わんばかりに独り旅立ちます。家父長制に限らず、様々な社会的呪縛から解き放たれ自由意志を掴もうとする姿を象徴していたのでしょうか……。
しかしながらその後の彼は、弟のディミトリ(フレッド・ヘッキンジャー)や、能力発現のきっかけにもなったカリプソ(アリアナ・デボーズ)が口にしていた「罪悪感」「業(カルマ)」といったものに突き動かされていたようにも見受けられる。
そして物語はクライマックスへ……。本作で描かれた物語、戦いを経て、しがらみから抜け出せたかに思えた矢先、まさかまさか、セルゲイは実の弟から根本を否定されてしまう。自身の行動や想いに対し、まるで「お門違いだ」とでも突き付けられたかのような展開に唖然としていたのはセルゲイだけではなく観客も同様だったかもしれません。
思想や信念こそ “自由な意志” によるものですが、それを弟に覆されてしまったセルゲイ。じゃあそんなセルゲイには何が残っているのか……それをドンッと提示しての終幕! 前述した、若かりしセルゲイが鏡を見たシーンと呼応させる見せ方もかっこいい。キザに見えるかもしれませんが、こういった外連味というか大見得を切るような締め括りを持ってきちゃえるのはアメコミ映画らしくて良いんじゃないかな。
何とも言えない表情を崩さぬままゆっくりと椅子に座るセルゲイの姿は、自らに流れる〈血〉——百獣の王、実の父親——というやつを鏡越しに見出し、受容していたようにも見受けられる。
鏡を見ることは自分を見つめる行為。自分の置かれた状況や運命を受け入れなかった男が、長い時を経て(その善し悪しはさて置き)ようやく自分を受け入れた。自己の否認から始まった物語が自己認識によって終幕する……。
こういった解釈もまた、アメコミ映画、且つ男臭いキザな映画を観終えた後味らしくて、とても心地が良い笑。