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映画『はたらく細胞』感想
予告編
↓
こじつけ
人間の体内にある細胞たちの様子を擬人化して描いた同名漫画『はたらく細胞』、ならびにスピンオフ作品『はたらく細胞BLACK』を基にした本作。アニメ化もされている人気タイトルな上、僕のように原作未読でも問題なく楽しめる内容でしたので、細かな説明は不要かもしれません。
本作の主人公は、健康的な生活を送る女子高校生・日胡(芦田愛菜)と、不規則で不摂生な生活を続けている父・茂(阿部サダヲ)であり、同時に、そんな二人の体内を駆け巡る赤血球(永野芽衣)や白血球(佐藤健)などの細胞たち。細胞側と人間側の様子が平行して描かれていくのですが、それぞれの世界での事態が相互に作用していくため、物語がとてもわかりやすい。
何より、体内での出来事の多くは誰もが経験していることばかりなので、如何に大仰に、ドラマチックに、誇張気味に描いたとしても、観客が置いてきぼりを食うことがない。
他にも、たとえば「赤血球」や「白血球」といった名称からイメージしやすいデザインの衣装も然り、「細胞」や「血小板」など役割や固有名詞が印字されただけのシンプルな衣装も然り、一目で認識・理解できる世界観も本作のわかりやすさの一つ。こういった見せ方は、本作の魅力というよりは原作の魅力がそのまま再現されていた、と言い換えた方が良いかもしれません。
大仰な演出の数々が面白さに寄与していたシーンは他にも。本作の見どころの一つでもあるアクションシーンにおいて、(「擬人化」という時点でリアリティも何も無いかもしれませんが)生身の人間が演じることで迫力やリアリティが醸成されていたわけですが、既述のド派手なビジュアルや外連味のあるセリフ回しのおかげで痛々しさだけは軽減されていた印象があります。
また、怪我や不調など、宿主の身体に起こった不具合に関しても同様。傷を塞ぐ過程をボールプールで表現していたり、ウイルスなど外敵を排除する不随意運動(くしゃみ)を打ち上げられるロケットで表現していたり……etc. 痛々しさや苦々しさが緩和されていたように思います。
アクションの見せ方にせよ、外敵のCG・エフェクトにせよ、どこか特撮ヒーロー作品っぽい演出が散見されていたことも、子供にも観易い世界観やわかりやすさに繋がっていたんじゃないかな。
他方、「病気」や「怪我」といったものをコメディチックに描くことは、ややもすると不謹慎に思われかねないものですが、奇抜なビジュアルや外連味たっぷりのお芝居など、先述したような誇張気味で大仰な表現の数々が、逆にすべてをまろやかにし、エンターテイメントへと昇華させてくれる。
そう考えると、これでもかと地方ディスを入れ込みながらも多くの人に愛され大ヒットを叩き出した『翔んで埼玉』シリーズの武内英樹監督が本作の監督を務めたことにも合点がいく笑。
……ちょっと “こじつけ” が過ぎるかな?
せっかくなので、ついでにもう一つ「こじつけ話」をしようかと笑。
その数、およそ37兆個とも言われている人間の細胞ですが、普段はその一つ一つの存在を意識することはない。そういった方がほとんどだと思います。ましてや、本作で描かれているような細胞たちの頑張りや働きなんて知る由もありません。
しかし本作は、そんな “はたらく細胞” たちにスポットを当て、同時にその体の持ち主である人間側のドラマも描かれていく。(ネタバレ防止のため詳細は割愛しますが、)この二つの世界線が交差することで、クライマックスには、普段はあまり認識されていない細胞たちの日々の働きぶりを人間側が意識する瞬間も訪れます。それは、ついつい「当たり前」や「偶然」だけで片付けられてしまいがちな “健康” や “生命” を維持してくれている “はたらく細胞” たちへの感謝であり、体内世界でのシーンで語られていた「何か一つ、誰か一人が欠けてもいけない、それぞれが重要な存在」というメッセージにも呼応するもの。
さて、こじつけの本題はここから。僕は以前、『翔んで埼玉~琵琶湖より愛をこめて~』感想文にて「エンドロールを最後まで見せる工夫があり、その工夫はクレジットされているすべての人物・団体への敬意を示すことに繋がる」といった旨の感想を述べました。演者やスタッフなど、関わった方々の名前を載せるというのはそういうこと。
そして、同じく武内英樹監督作である本作も同様。エンドロールを最後まで見せようとする工夫が施されている。クレジットと共に流れる「本編で登場した細胞たちの名前や役割を紹介する映像」がまさにそれ。人体を構成する “はたらく細胞” たちを紹介してくれる映像も然ることながら、クレジットを最後まで見せようとすることは、「ここに名前が載っている方々全員がいたから本作が完成した」という感謝・敬意であり、先述の「何か一つ、誰か一人が欠けてもいけない、それぞれが重要な存在」という言葉をも思い起こさせてくれるもの。
本作は人間の体内を「あくまで一つの世界」であるかのように描いているため、そのミクロな世界観とは対照的に、人間の体の外側——世界や社会——さえも想起させてくれる不思議さがあります。
だからこそ、小さな体内世界で語られたこのセリフが、逆説的に世界や社会、人類、世の中といった大きな視点でのメッセージにも重なって感じられてくる。映画の世界の内側(物語や登場人物)のことだけではなく映画の世界の外側(作り手や観客)のことまで考えて(こじつけて笑)しまいたくなってしまったのは、そんな理由からなのかもしれません。