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映画『型破りな教室』感想

予告編
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PG-12指定


可能性の扉


 治安最悪の地にある学校を舞台に、突如赴任してきた教師が型破りな指導法で生徒たちを導いていく物語。日本でも『GTO』『ごくせん』『3年A組』…etc. 型破りで破天荒な教師が主人公の人気作は多々ありますが、本作はまさかの実話。2011年のメキシコでの出来事が基になっているそうです。それだけでとても興味深い。劇場で予告編を目にしてからというもの気になって仕方がありませんでした。



 新しく赴任してきた教師・セルヒオ(エウヘニオ・デルベス)が独自の指導法で生徒たちの常識を覆していくのですが、その中で「たとえ話」や「先人の言葉」などが引き合いに出されることが度々ありました。
 形式張った教育を押し付けるのではなく、子供たち自身に “学び” という内的な欲求を芽生えさせるために、或いはその内なる欲求が知識や閃きによって満たされることで生まれる喜びに気付かせるための訓話や寓話。

 そういった訓話や寓話が物語の中で回収されていくのが面白い。話が長くなってしまうので流石に一つ一つの話を事細かに述べることはしませんが、中でも「井戸に落ちたロバ」の話が忘れられないんです。


 セルヒオの生徒の一人、パロマ(ジェニファー・トレホ)は、クラスの中でも突出した才能の持ち主。しかし家庭の経済事情や本人の控えめな性格などもあり、夢や理想を諦めてしまうこともあった。

 パロマの父(ヒルベルト・バラーサ)はゴミや廃品を漁って生計を立てているため、彼女の家の横にはゴミの山が、それも「そびえる」と呼べるほどの大きなゴミ山がある。同級生のニコ(ダニーロ・グアルディオラ)とその頂上まで登り、望遠鏡でテキサスにあるスペースX発着場の様子を眺め見るシーンがあるのですが、ここから僕は(本当に “なんとなく” でしかないのですが)「井戸に落ちたロバ」を想起させられたんです。

 ゴミ山は、彼女の家の経済事情を象徴し得るもの。けれどそんなゴミが積み上がって山のような高さになっていたからこそ、スペースXという “彼女の未来や可能性を思い起こさせる存在” を目にすることができた。ゴミの山は、「投げ込まれた土を積み上げたことによってロバが井戸を脱出した話」とリンクするようだし、なればこそ頂上からスペースX(≒未来・可能性)が覗ける状況は、ロバの話に準えるところの「耳が見えていた」状態にも等しい……。


 さて、先述したように “学び” とは「内的なもの」。一方、本作の最後に表示されるアインシュタインの言葉——「私の学びを妨げる唯一のものは教育である」——が示すように、「形式張った」「押し付ける」といった性質の “教育” は「外的なもの」と呼べるのかもしれません。
 パロマの件に限らず、本作では内的なものが外的なものによって阻まれたり妨げられたりしてしまう現実が幾度も描かれていますが、井戸に投げ入れられる土や積み上げられていくゴミは、まるでそういった外的な要因による妨害・阻害を暗喩していたかのよう。

 けれど一方で、「投げ入れられた土を利用して活路を見出したロバの話」が教えてくれたように、その外的な妨げによって内的なものまでが消滅するわけじゃなく、何もかもが絶対不能になるわけじゃないとも読み換えられるのも本作も魅力の一つ。選択や行動、それに繋がる勇気の大切さも同時に示されていきます。
 終盤、再びゴミ山の頂上でのシーンが描かれますが、貧困などの環境的不利という “井戸” の中から、果たしてパロマは飛び出せるのか……。

 随分と遠回りになりましたが「ロバの話」が印象的だと思えたのは、以上の理由から。セルヒオの、そして生徒たちの物語がどんな着地を決めるのかは実際にご覧になって頂きたいところです。



 そんな本作、実は冒頭とラストシーンをメインではない登場人物が担っているんです。その正体は、車椅子を押す裸足の少年。冒頭、彼の足元のみが映されるところから始まるのですが、自力では歩けないからこその “車椅子” の車輪部分と、靴さえ買えないことが窺い知れる “裸足” の部分だけが映されることによって、観客に〈不能〉や〈不足〉を無意識に印象付けようとしていたのかもしれません。
(同時に、犯罪や貧困が日常化した地域であることも窺い知れてしまうシーン。)

 この裸足の少年は、物語中盤にも登場します。彼は、セルヒオたちが行っている独特な授業風景をフェンス越しに眺めていました。その姿からは “学び” への興味が窺えるものの、残念ながら彼は学校の生徒ではない。“侵入を阻む”フェンスの存在は、彼の “学び” への興味、延いては希望や可能性を阻んでいる〈不能〉や〈不足〉のメタファーにさえ見えてきます。

 そしてラストシーン。彼は再びスクリーンに現れます。今度はフェンス越しではなく、校門の前に……。
 繰り返しになりますが、犯罪や貧困等々、治安の良くない地域ですから、自宅の門が閉め切られていたり、検問やボディチェックなどが行われたりする様子が何度も描かれる本作。しかし何故かこのラストシーンでは校門が開いたままになっていた。まるで「〈不能〉や〈不足〉を象徴する少年が、開かれた門扉の前に立ち、その中の様子を覗き見る」という構図が、希望や可能性の扉だけは開かれていることを象徴していたかのよう。


 たしかに、どれだけ理想を並べ立てようとも現実の何もかもが好転するわけじゃない。実際、残酷な現実が描かれることもあった。
 けれども、たとえそんな地域だったとしても、子供たちの未来を変える、いや、自ら変えられる力を持っていることを子供たち自身に気付かせる。そういったことこそ、セルヒオが目指す教育や指導の在り方だったのかもしれません。型破りなセルヒオの教師としての生き様、そして本作の描かんとするテーマが集約された素敵な締め括りだったと思います。


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