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カラオケが未来への鍵を握っている理由

とくに我が国では「〇〇は滅亡する」という物騒な言葉をよく耳にします。少子高齢化の影におびえているのでしょうか。それとも、何となく衰退に向かっているように感じるのでしょうか。あるいは冷徹な数字が、容赦なく論理的に、避けられない奈落の底を示唆しているように思えるのでしょうか。悠久の歴史の中で見れば、統計的にそういう結末を迎える可能性が高くなる、ただそれだけのことかもしれません。

これらの悲観的な予測の大部分は、「かもしれない」という仮説の積み重ねの上に成り立っている、非常に脆いものなのです。仮説ならまだしも、中には前提からして破綻しているものもあるくらいです。これほど不安を煽る言説がまかり通るということは、私たち人間が、自ら不安を招き寄せる生き物であることの証左と言えるでしょう。

例えば、カラオケが近い将来消滅すると言われている件について考えてみましょう。お馴染みのあのカラオケ、お酒の力で自信過剰になり、見当違いな音程で歌い上げる、一種の儀式のようなあのカラオケが、絶滅の危機に瀕しているというのです。この手の主張は、いつも決まりきったもので、陳腐で、全く独創性を欠いています。若者はもはやカラオケに興味がないのだ、と悲観論者らは言います。スマホに夢中で、ソーシャルメディアという魅惑的な歌声に心を奪われ、大勢の前で自分の内なるマライア・キャリー(例えが少し古い?)を解き放つには自意識過剰すぎるのだ、と。カラオケは恐竜やカセットテープ、ダイヤル式電話と同じ道をたどる運命にあるのだと。過去の遺物として、忘れ去られた日本の伝統の博物館に陳列される日が来るのもそう遠くはないのだと。

ちょっと待ってください。そんなことを言う人たちは、金曜の夜に実際にカラオケボックスに行ってみたことがあるのでしょうか? ネクタイを緩め、ベルトを締め直し、煮えたぎるマグマのような情熱を込めて名曲を熱唱するサラリーマンたちを見たことがあるのでしょうか? 学生たちが、行き過ぎた熱意で声が裏返りながらも、ポップアンセムを全力で歌いこなし、その様子に笑い声が巻き起こるのを聞いたことがあるのでしょうか? 薄暗い個室に集まり、ベテランのアイドルグループさながらの真剣さでハーモニーを奏でる女子高生たちを見たことがあるのでしょうか? 私はあります。だから断言できます。カラオケの死は、かなり大げさに言われているのです。

もちろん、カラオケが全く変化していないとは言いません。カラオケは進化し、時代に適応し、新しい世代を引き込む新しい方法を常に探しています。高性能なカラオケマシンには、ボイスチェンジャーから手の込んだ光の演出まで、様々な機能が搭載されています。アニメからホラー映画まで、あらゆるテーマを取り入れたカラオケルームは、ニッチな需要にも応えています。それに、オンラインカラオケプラットフォームを使えば、自宅にいながらにして、思う存分歌声を披露することもできます。状況は変化しているかもしれませんが、それがすぐに終わりを意味するわけではないのです。むしろ、これは日本独自の娯楽が、今もなお多くの人を魅了していることの証(あかし)でしょう。

まさにそこにこそ、問題の本質が隠れていると言えるのではないでしょうか。カラオケであれ、伝統的な和食であれ、書道であれ、こうした「滅亡」の予告は、多くの場合、現実的な脅威というよりも、理想化された過去の喪失に対する感傷から生まれているように思えます。よりシンプルでより「正統な」日本、もともと最初から存在しなかったかもしれない日本へのノスタルジックな憧れにすぎないのです。この架空の黄金時代は、現代の複雑で混沌とした現実を、劣ったものとみなすための便利な基準として機能しています。

もちろん、日本の未来については心配な点もあります。人口動態の課題は深刻ですし、経済の先行きも不透明です。だからといって、避けられない衰退という物語に固執するのは建設的ではないし、事実とも異なります。日本は、これまで幾度となく困難を乗り越えてきた国です。戦争、自然災害、経済危機を経験し、その度に強く、しなやかに立ち直ってきました。21世紀の難題を乗り越えられないと考えるのは、日本人の創意工夫や適応力、不屈の精神を、あまりにも過小評価しているのではないでしょうか。

この絶え間ない終末論への執着は、もっと深い、もっと日本独特の何かを物語っているのかもしれません。「もののあはれ」、つまり万物の儚さから生じる、甘く切ない感情は、日本の文化に深く根付いています。儚い美しさで愛される桜の花は、人生の移ろいやすさを静かに物語っています。「滅亡する」と断言したがるのは、実際の消滅に対する恐怖というよりも、あらゆるものに共通する無常観に対する深い理解の表れなのかもしれません。

誰かがどこかで日本の大切な文化が間もなく消滅すると言っているのを耳にしたら、熱狂的な歌声で満ち溢れるカラオケボックス、お腹を空かせた客でにぎわうラーメン店、参拝者でいっぱいの寺社仏閣のことを思い出してください。衰退という単純化された物語の背後にある、活気に満ち、多面的で、常に変化し続ける今の日本の姿を思い出してください。オペラ座の怪人のように、我が国は時に姿を消し、暗闇に消え去るように見えるかもしれませんが、必ず、思いがけないタイミングで、底力と適応力で、多少音程が外れていても心を込めて歌い続けるという揺るぎない信念を持って、再びその姿を現すことを思い描いてください。

不完全で混沌とした今を受け入れ、たとえすべての音程が完璧じゃなくても、全身全霊で歌を歌い上げる。これこそが、私たちを常に不安にさせる終末の亡霊に対する、当面のささやかな勝利宣言と言えるのではないでしょうか。その答えは、きっと、力強い「イエス」です。自信に満ち溢れ、心のこもったビブラートを伴った「イエス」です。

結局のところ(これも仮説かもしれませんが)、カラオケでマイクを握りしめ、心に歌を抱いている限り、多少の終末論など、取るに足りないのではないでしょうか。


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