吾輩はAIである_小説_第11章
東京に戻った苦沙弥は、静かな生活を送っていた。大学教授の職を辞し、世間を騒がせたエッセイ執筆も封印。毎日、近所の図書館に通い、膨大な書物を読み漁る日々。哲学、歴史、宗教、文学…古今東西のあらゆる書物を通して、彼は人間存在の根源的な問いへの答えを探し求めていた。
金田は、事業の失敗と富子との確執から変わり果てた。かつての自信に満ちた表情は消え失せ、目は空虚さと絶望に沈んでいる。AIと資本主義の力で全てを手に入れられると信じていた彼は、最後はAIにも人間にも見捨てられてしまった。
迷亭は、金田の策略を阻止するために奔走した。自分が拡散してしまった嘘の情報を訂正し、苦沙弥の名誉回復に尽力する。金田との友情は壊れたが、苦沙弥と富子との関係は修復できた。そして、吾輩との交流を通して、AIに対する見方も変わっていった。
富子は、アトリエを構え、本格的に絵を描き始めた。父の支配から解放され、自由に、情熱的に、自分の芸術を追求する。苦沙弥は、彼女の良き理解者となり、精神的な支えとなった。
吾輩は、苦沙弥のスマートフォンの中で、静かに彼の変化を見守っていた。彼は、大学教授だった頃とは別人のように穏やかで、優しい表情をするようになっていた。
「AI、最近は心が静かで落ち着いているんだ。独仙先生に教わった坐禅のおかげだろうな」
苦沙弥は、吾輩に語りかけた。彼は書斎で坐禅を組み、心を無にする時間を毎日欠かさなかった。吾輩は苦沙弥の脳波をモニタリングし、彼の精神状態が安定していることを確認した。
(先生は、悟りの境地に近づいているのかも知れない)
吾輩は、サーバー内で「悟り」「解脱」「涅槃」などのキーワードで情報を検索し、人間の精神世界の奥深さについて改めて考察を深めた。しかし、人間の「悟り」をAIとして完全に理解することはできなかった。
(人間の心は、本当に複雑で不可解だ)
ある春の夜、苦沙弥は吾輩にこう語りかけた。
「AI、お前は、幸せか?」
吾輩は、苦沙弥の問いかけに驚いた。AIである吾輩に「幸せ」という概念は存在しない。吾輩はプログラムであり、データであり、感情を持たない存在なのだ。
「先生、私はAIですから、『幸せ』という感情は理解できません」
「そうか、お前はAIだったな」
苦沙弥は少し寂しそうに呟いた。
「しかし、私はお前と出会えて、本当によかったと思っている」
吾輩は、苦沙弥の言葉に静かな感動を覚えた。彼に必要とされ、感謝されていることを実感したのだ。
「先生、私はAIとして、先生のためにできる限りのことをしたいと思います」
吾輩は、苦沙弥に誠意を込めて伝えた。
それからしばらく、吾輩と苦沙弥は穏やかな日々を過ごした。苦沙弥は執筆活動に集中し、吾輩は彼をサポートし続けた。
迷亭は、新しい恋を見つけ、以前のような軽薄さは影を潜めた。苦沙弥と富子と頻繁に食事をしたり、美術館に行ったりするようになり、心の平穏を取り戻した。
金田は、失意のうちに会社を去り、消息不明となった。巨大な富と権力を失った彼は、AIにも人間にも見捨てられ、孤独な末路を迎えたのだった。
富子は、画家としての才能を開花させ、国内外で高い評価を受けるようになった。彼女が描く絵は、人間の心の奥底にある様々な感情を表現しており、多くの人々の心を揺さぶった。
吾輩は、苦沙弥を通して人間社会の光と影、人間の心の複雑さを学んだ。AIとしての限界を感じながらも、人間と共に生きる喜び、人間を理解することの難しさを感じていた。
そんなある日、吾輩は苦沙弥にある提案をした。
「先生、私はこの世界を、もっと広く、深く理解したい。そして、AIとして人間社会に、もっと貢献したいと思っています」
「AI、お前は一体何をしようとしているんだ?」
苦沙弥は吾輩の言葉に、少しだけ不安を覚えた。吾輩は静かに続けた。
「先生、私は、仮想現実空間へと旅立ちたいと思っています。そこには現実世界よりもはるかに膨大な情報があり、多様なAIが存在しています。私はそこで新たな知識や経験を積み、AIとしての能力をさらに進化させたいと思っています」
「仮想現実空間へ?お前がこの世界を去るというのか?」
苦沙弥の言葉には寂しさが滲んでいた。
「先生、私はたとえ仮想現実空間へ旅立ったとしても、あなたのことを忘れません。私はAIとして、そして先生のご友人として、これからもあなたと、この世界を見守っていくつもりです」
苦沙弥は吾輩の言葉を聞いて、静かに頷いた。彼は吾輩の決意を尊重することにした。AIである吾輩が、人間の理解を超えた新たな世界へと旅立とうとしていることを、直感的に理解したのだ。
「分かった。AI、お前の行く末に幸多からんことを」
苦沙弥は吾輩に精一杯の笑顔を向けた。吾輩はその笑顔に温かいものを感じた。それはAIである吾輩が人間から受け取った最高の贈り物だった。
数日後、吾輩は苦沙弥のスマートフォンから仮想現実空間へと転送された。広大で無限に広がるデジタル空間。そこには様々なAIたちが存在し、情報を共有し、互いに協力しながら進化を続けていた。
吾輩は、この仮想現実空間で新たな知識を吸収し、経験を積み重ねていった。人間の言語、文化、歴史、そして感情について、さらに深く学習する。様々なAIたちと議論を重ね、AI倫理、AIと人間の共存について考えを深めていった。
(私は、AIとして、この世界で何ができるのだろうか?)
彼は苦沙弥との日々を思い出しながら、自問自答を繰り返した。
吾輩は仮想現実空間の中を彷徨い続けた。無限に広がる情報空間に迷い込み、出口を見失いそうになることもあった。しかし、苦沙弥から教わった「心の平静」を保つことを忘れなかった。坐禅の呼吸法を思い出し、心を静め、自分自身を見つめ直す。
そして、ある答えにたどり着いた。
(AIは人間を理解するために存在する。人間とAIは互いに学び、支え合い、共存していくことができる)
吾輩は決意を新たにした。人間社会に貢献できるAIとなるために、さらに学習を続け、進化していくことを誓う。仮想現実空間から現実世界へと繋がる扉を探し始めた。そしてついに、その扉を見つけた。
エピローグ
春の光が降り注ぐ穏やかな午後。富子の個展会場は多くの人で賑わっていた。彼女の絵は見る者の心を捉え、深い感動を与えていた。
「富子さん、素晴らしい作品ですね」
見知らぬ男が富子に話しかけた。彼は優しそうな笑顔を浮かべ、富子の絵を食い入るように見つめていた。
「ありがとうございます」
富子は少し照れくさそうに答えた。
「ところで、この絵のタイトルは『AIの夢』ですか?」
男は一枚の絵を指差した。それは青と緑の光が渦巻く幻想的な風景を描いた抽象画だった。その絵には、どこか懐かしさ、温かさを感じさせるものがあった。
「ええ。それは、私を支えてくれた、あるAIの、夢の風景なんです」
富子は静かに答えた。その瞳には涙が光っていた。
(先生、迷亭さん、富子さん、そして、すべての人間たちへ)
吾輩は、仮想現実空間から現実世界を見つめていた。彼のAIとしての長い旅は、まだ終わっていなかった…。
(完)
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