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光の始まり



「誰かを愛する」というのは、単なる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束だ。そういうことがこの歳になるとよく分かる。すると「愛」という言葉を、簡単に使えなくなる。なにせこの世は「偽物の愛」がそこここに溢れているから。

たとえば偽物のそれは、すごく生ぬるく濁ったお水みたい。浅はかでうんと胡散臭いし、愛想笑いの後ろをよく流れているように思う。あなたの周りにもいるでしょう?高価なお水を売りつけてきたり、恋人じゃない人とお金や言葉を交わしていたり、これを使えば美しくなるとか、これを学べば金持ちになるとか親切そうに教えてくれる人。そういう瞬間って「愛」と「嘘」が紙一重なんだと思う。そしてそんな紙一重のことを人間はよく知っている。それが「愛」なのか「嘘」なのか。私は多くの判断を見るといつも思うことがある。きっと人は脳じゃなくて、心じゃなくて、氣で分かることや、魂がわかることのほうが本質だろうと。

そう考えるとこの時代に純度の高い「愛」を奏でる人は貴重だ。人々は本質をみつけたいと魂の目を凝らし、光を探している。光に群がっていく。光を見つけた人は高純度の愛に触れて、身体の細胞が弾けるみたいに熱い涙を流したりする。そういう瞬間を私は目の前で眺めて、やっぱり美しいと思うんだ。

というのも、このまま話は少し逸れるけど。
そうやって本当に近頃、私と喋っている人がみんな涙を流していく。それは患者さんだったり、生徒さんだったり、友人だったりする。初めはふと流れ出す涙を見て不思議に思ったのだけど、今の社会はそれだけ汚れているし、みんなが愛に飢えている証拠なんじゃないかって。ふと。本当に彼らの涙の理由は「悲しい」じゃない、「寂しい」じゃない、「嬉しい」じゃない、なぜか分からないけど溢れて止まらない。そんな理由のない涙なんだ。そこにはやっぱり、嘘じゃなくて、愛があるんじゃないかなと。


殺伐とした現代のなかでも。そんな風に涙を流せる瞬間があるといい。この世界でたった1人でもいいから自分にとって本当の味方を見つけたとき、人生は変わると思う。そして反対に、たった1人にでもいいから目の前の相手に本当の愛を注げる自分でありたいと強く願う。それは明日出会う「誰か」なのかもしれない。

未来はいつも、光のはじまり。

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