ものごとのとらえかたをとらえる~第75回寸心忌記念講演@西田哲学館
「難しいことはわかりません!」
聴いていてものすごく興味深かったのは確かなのです…
講演を聴講したその日の夜
見返せば見返すほどにワケがワカラナくなります
そう、夜も更ける頃だからや…
講演の記憶とかメモった内容が
難しいことはわかりません!こん平でーす!
というふうにしか見えないのは
こんな時間だからや…
寝て起きてからは違った見え方するはずや…
難しいことはわかりません!こん平でーす!
というふうには見えんはずや…
メモに書いたことは
今と
寝て起きた後とでは
変わらないにも関わらず
寝て
起きたあとは
今の見え方とは違った見え方に…
ZZZZZZ......
◇
◇
◇
「ものごとのとらえかたをとらえる営み?」
自分の身の回りにある、あらゆるものやできごと。
自分自身や、他人、他人たちの集合体である社会、それらの一大ステージとも言える自然を、自分たちは自分たちの持てる五感をはたらかせて「とらえて」いる。それで感じたこと、自分の中で思ったこと考えたことも「とらえて」いる。普段はそんなことを意識せずにボーっと生きているとしても、ときには五感をできる限りはたらかせて、しっかりと「とらえ」ようとすることは確かにある。
こういった、自分の「とらえかた」を観察して、そのとらえかたを「とらえようとする」何者かが自分の中に居る。たぶん、その何者かが「テツガクシャ」だ。
そして、そのテツガクシャが、自分のとらえかたを「とらえようとする」営みが「テツガク」だ。
たぶん、こうなっているのだ。
ほら
寝て
起きたあとは
前夜の見え方とは違った見え方をしているぞ…
ちゃーーらーーーーん!
◇
◇
◇
「『テツガクシャ』のテツガクぶりがスゴい人」
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、その他もろもろ…古今東西の高名な哲学者というのは、きっと、自分たち人間自身の中に必ず居るはずの「テツガクシャ」のテツガクぶりがトンデモなくスゴい人たちだということに違いない。
テツガクぶりのスゴさが世界レベルの日本の哲学者。なかでも世界的に最も名の知れている存在であろう、西田幾多郎。西田は、身の回りの現実や自分が見聞きしたものごとを「とらえる」自分の思考を、自分の身体感覚を以って、自分の五感をフルに使って、できる限りはっきりと、微に入り細に入りつかみ取る…つまり「とらえかた」を「とらえる」ことをとことん追求し、説明を試みた人だということではないだろうか。
西田が思索を巡らせていた時代までに世に出たあらゆるできごと、科学などの学問、宗教、哲学、さらには「テツガクシャ」までも徹底的にテツガクしようとした、いや、してみせた「スーパーウルトラテツガクシャ」ではないだろうか!?
そう想像してみたら、西田哲学に触れてみる、ということがすごく魅力的に思えてきた。おもしろそうやないか。
「西田哲学にじわじわと興味が…」
これまでは、西田の生まれ故郷・石川県かほく市にある西田幾多郎記念哲学館で開催されている一般向けの哲学講座へたまに出掛けて、哲学研究者の話を何度か聴きかじったことがあっただけ。自分で西田幾多郎の著書なり西田哲学の入門書なりを手に取って読んでみたことは全然なかったけれども、ここいらでちょっとひもといてみたくなってきた。さらにそこから、他の哲学者の哲学をひもとくことも出てくるかもしれない。
西田哲学を知っていくのが楽しみ。
他の哲学者の哲学を知っていくのも楽しみ。
自分自身がものごとをとらえるときの、その「とらえかた」をとらえて生きようとする…そうなっていく自分が楽しみになってきた。
あ、おかしいこと言ってますかね!?
大丈夫ですかねぼく!?
◇
西田幾多郎は物理学をどう「とらえた」?
講演で話されたことによると、物理学には大きく2つの流れがあって、それぞれ、時間と空間のとらえかたにこういった違いがあるという。
ニュートン力学を起点とする古典物理学:
「時間と空間(次元)はそれぞれ別のもの。
時間の長さ、空間の大きさは、
誰にも同じ条件で与えられているもので
誰にとっても同じく変わらない、絶対的なもの」
→ モノ(物質)の特性を説明し得る物理学
古典物理学以降の新しい物理学(量子力学):
「時間と空間(次元)は別のものではなく、
合わせて一体のもの。
時間の長さ、空間の大きさは、
全員一律ではなく、ひとりひとりの人にとって
スケールが異なり得る、相対的なもの」
→ 意識の特性までをも説明し得る物理学
後者の「ひとりひとりの人にとってスケールが異なり得る~」という件は、例えば、退屈な時間は遅く経過していくように感じる(長い)が、楽しいことに夢中になっている時間は早く経過していくように感じる(短い)、というようなことを指している。年をとるに連れて時間の流れが早くなっていく…というのもおそらく同等のものだろう。
このように、時間の変化(時間の長さ)というものは、実は人の意識が創り出すもの。そして、空間の変化は時間の変化に伴って生じるものだから、空間の変化もまた人の意識が創り出すものと言える。
では、空間に置かれている物体はどうか?
物体の変化は、やはり空間や時間の変化に伴って起こるものだとすれば、すべての物体は人の意識が創り出すものということまで言えてしまう…!
そもそも物体の変化は、例えば、人がその物体を動かしたことによって変化が生じたということだろう、物体があることには変わりないことに人の意識もなにもあるかい?…と言いたくなってもくるのだけども、それはそれで、人がその物体を動かすという時間的変化を与えているということになり、物体を動かす人にもまた、時間の変化に伴って自分の所作の変化が生じているわけで、結局のところ、物体の変化も人の意識の産物だということになる。
つくられてつくる、つくることでつくられる
さておき。
新しい物理学が出現したとき、古典物理学の立場からは「そんなものは頭の中でだけ考え出された、現実のものから導かれたものではない、ただの理屈だ」というような批判が出たらしい。
ところが、西田はそうは「とらえ」ないで、
「古典物理学こそ頭で考えて導いただけのものに過ぎない。むしろ新しい物理学のほうこそ、自分の生身で感じた、自分自身の『身体感覚』を拠りどころにした物理学である。新しい物理学が出現したことによって、ようやく身体の実感を伴って(『身体的自己の自覚』によって)あらゆるものごとの事象を捉えられるようになった」
…というような「とらえかた」をしたそうだ。
すごく平たい感じに言ってしまうと、西田は、新しい物理学である量子力学をこう「とらえた」ということのようだ。
働きかけることによって、見る:
自分の身体を動かして、事象に働きかけることによってこそ、事象を知ることができる
見ることによって、働きかける:
自分が実際に見たものから推測することによってこそ、事象の性質を知ることができる
わたしたちはつくられてつくる:
つくることでわたしたちはつくられる:
自分自身というものは、他者から作用されることで形作られていく
そして「自分の生身で感じた、自分自身の『身体感覚』を拠りどころにする」というのは、禅の精神にも通じるそうだ。そういえば確か、西田の思索の原点には禅の修行体験があるということだったかと…。
日本人の「人の目の気にしかた」の奇妙さ
さて、生身で体験した感覚を基にした相互作用を重要視するという西田の「とらえかた」を踏まえて、世間のある事象に目を向けてみると…人の目を気にしがちな日本人の、昨今の「人の目の気にしかた」の奇妙さにはっきりと気がつく。
例えば、電車の中で優先座席を譲らない人。優先座席ではなくとも、座っている人と人との間の、詰められる隙間を詰めようともしない人。昨今こういう人がやたらと目につくようになった…というか、ほぼ全員スマホから目を離さず、すぐ目の前にいる人たちに自分の意識がまったく向いていない。いや、意識はあるのかも知れないが、意図的に頑なに気に掛けないということかも知れない。
いずれにしても、公共の場であるにも関わらず、自分の意識は自分の世界にしか向かっていない…というのは言い過ぎだとしても、自分の意識の中に占める「他者や外部の世界の割合」が極端に少なくなっているというふうには確実に言えるだろう。電車の乗客の話はこういう憶測をわかりやすく見て取れる恰好の例だ。
公共の場であっても、自分の意識は、自分が手にしているスマホの画面の先にだけ向いていて(向けていて)、すぐ目の前にいる人たちやものごとには向いていない(向けていない)。それが嵩じると、生身の感触で直接的に体験でき得るものごとを、自分の生身で直接体験した感触を伴って自分の意識の中に落とし込む機会が減少するはずだが、そうなってしまった人にとって当たり前に体験している感覚というのは、生身の感触で直接的に体験でき得るものごとまでも、間接的に擬似的に感じ取ることになって、目の前の実物に意識を向けることのほうが非日常で異質な体験であるという状態になっていくわけで…
そうなると、目の前の実物に向かう意識はますます希薄になっていく…
ものごとの事象や性質をほんとうに知ることができるのは「自分が生身で体験した感覚を伴ってこそ」であるとするならば、自分の意識の中で他者や外部の世界が希薄になればなるほど、他者排除、異なるものに対する不寛容の意識が大きくなるのは道理ではないのか。
ちょっと脇道へ:奇妙さはそれだけでは済まず
人の目を気にする…そのくせ、電車の中で優先座席を譲ろうとしない。隙間を詰めようとしない。意地でもと思えるほどにスマホから目を離そうとしない。そんな姿を間近にいる他人からマジマジと見られているというのに。
一方で、座席を譲ったら譲ったで、譲ってもらえたほうが「いいえわたしは大丈夫ですから!」と変に遠慮することがある。
優先されて然るべき方が、優先すべき方の労を忖度してさらに譲り返す。譲った方の譲る動作に対して「わざわざ自分なんかのために譲る気持ちと動作を発動する面倒さ」に配慮したという見方もできるだろうけども、このような謙り(へりくだり)の遠慮をなかば反射的にしてしまうことで、人の好意を無下にしてしまっている。こうされてしまうと、譲った方は実にバツの悪い思いをする。
譲り合いの意識がますます希薄になっていく…
座席を譲ろうという気が起こらない要因の一端は、こういう「人の好意を無下にすることに対する配慮の欠如」と、それが引き起こす「譲る行為を面倒臭く認識することの連鎖」にもあるのではないか。
おかしくないか?
このように振る舞ってしまう人の心の中にも、なんとなくにしろ、おかしいという感じは少なからずあるのかも知れない。だけどもそれを行動を改めるほどのおかしさとまでは感じずに、「人の目を気にする」故に譲り合いを無意識に上塗りすることによって、むしろ譲り合いの気持ちを削ぐ状況を作ってしまっているのだとしたら、わたしたちは一体何のために人の目を気にしているのだろうか。
こういうことを踏まえて…
自分たちは、それでほんとうにいいのだろうか?
働きかけることによって、見る:
自分の身体を動かして、事象に働きかけることによってこそ、事象を知ることができる
見ることによって、働きかける:
自分が実際に見たものから推測することによってこそ、事象の性質を知ることができる
わたしたちはつくられてつくる:
つくることでわたしたちはつくられる:
自分自身というものは、他者から作用されることで形作られていく
そもそも、わたしたちは一体何に気を遣っているのだろうか?
テツガクすることによって、人はバランスを保つ
ここまでに語ったことのような、人の(自分の)働きによって、他者あるいはものごとに働きかけが生じて、人が(自分が)形作られていく…という視点を「ある程度は」持っておくのが大切なのではないか。
もっとも、こういう視点がすべてになってしまったとしたら、自分から見た異物を完全に排除する方向へ向かってしまう危険性がある(だから「ある程度は」という但し書きが付く)ということもあるし、誰が見ても変わらない同じものごとが存在する(ように「とらえる」ことでまったく差し支えのない現実があることもまた確か)なので、双方の視点も併せ持って自在に行き来できる柔軟性を持っておくことが、自己と他者の意識にバランスが取れた振る舞いとなって外に表れ、他者への働きかけにつながるのだろう。
働きかけを実感して、実感したことから真理を見い出して「知(科学)」として表そうとする行為が「哲学」。「テツガク」することによって表された「知(科学)」はさらに体験されていき、その実感が表されていき…
このサイクルはどこまでも続いていく。
ものごとをどうとらえているかを「とらえる」
西田の命日(6月7日)の時期、西田幾多郎記念哲学館で毎年開催される寸心忌記念講演において、今回の講演者の松丸さんは、そういったものごとの「とらえかた」と、哲学館へ到着する前に目の当たりにしたことで「とらえた」問題提起を、演台の周りを左に右に歩きまわりながら話されていた。
それを聴講した自分…の中にいる「テツガクシャ」は、記念講演の光景と内容を、自分の生身の感覚でもって、こう「とらえた」。
どこまでが正しくてどこからが間違っているのかはわからないが、これが現時点の自分の「とらえかた」であることには間違いない。
◇
西田哲学、いや、そもそも「哲学」というものから受ける深遠さ、高尚さ、あるいは面倒くささというイメージは、その難解さから来るものではなくなってきた(実際には、その哲学を正確に「とらえる」ことはとんでもなく難解なのだろうけども)。
それは、人の意識のメカニズムや真実(原理)の「とらえかた」に少しでも迫れるものではないか、その一端に少しでも触れられるものではないか、というワクワクした直感に変わってきた。
「テツガク」することによって、きっと、幸せな循環が生まれる。
そのくらいには、今では「とらえられる」ようになってきているのだ。
この雑文をダラダラと書いた「テツガクシャ」は。
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