
ベンゾジアゼピンの減薬方法_26_外側の情報から得た観念よりも自分の内側の感覚に集中する
(この記事の内容は、私の個人的な経験に基づく見解になります。物事に対する観念や価値観は人によって異なります。この記事の内容が当てはまる方も当てはまらない方もいらっしゃると思います。必要に応じて、ご自身について振り返るための参考にして頂けましたら幸いです。)
この記事では、いくつか前の記事に書いた「ベンゾジアゼピン減薬時の不眠の原因」のうち、⑦の睡眠に対して自分が持っている観念によって不眠が気になっている場合について、私の経験を交えながら書いていこうと思います。
私がベンゾジアゼピンを内服し始める前から、たまたま私の周囲には何故か睡眠にこだわりがあったり不眠の治療に積極的な考えを持ったりしている人がたくさんいました。「不眠は心身に悪影響を及ぼす症状なので睡眠薬を飲んで治療すべきだ!」という声が四方八方から聞こえてくるような環境にどっぷりと浸かっているような状態でした。「眠れない事は食べられない事よりもずっと大変だ」と言う人達もいました。このため、私自身の価値観が少なからずその影響を受けていました。
私は以前、仕事でもプライベートでも大きなストレスのかかる様々な出来事が立て続けに起こった時期がありました。人間関係など様々な要素が絡んで解決が難しい課題が重なり、自分ではどうしたらよいのか分からなくなって、人に相談しました。そうしたところ、周囲の人が、私が眠れているのかとても心配してくれました。
「ちゃんと眠れているの?眠らないと病気になって大変なことになるよ。ちゃんと治療して自分のことを大切にしないと。」等と言葉をかけてもらったのですが、私はもともと寝つきが良い方ではなく、睡眠がストレスの影響を受けやすい体質だったため、眠れているのかどうかと問われると、確かにあまり眠れていませんでした。「人間は〇時間寝てさえいれば大丈夫だから、何とかなるよ」と励ましてもらったのに、私はその〇時間眠れていなかったのです。
もちろん睡眠は健康のために大切な事ではありますし、私に睡眠のアドバイスをくれた人達は自分の信じている事をただ良い事だと思って話していただけです。しかし、私が解決したかったのは自分に起こっている出来事だったはずなのに、それに加えて眠れない事が問題になり始めました。もうすでにそれまでに起こっていた出来事で周囲に様々な迷惑をかけていたため、「眠れないせいで病気になったら、またみんなに迷惑をかけてしまう」と思うようになりました。
また、減薬を決意してからも、「ベンゾジアゼピンは一生飲み続けるべき薬だ!」「ベンゾジアゼピンに副作用なんてあるわけがない!〇時間以上眠れていないのであれば病気になってしまって大変なことになるから、むしろもっとたくさん薬を飲むべきだ!」と説得してくれる人が何人もいるような状況で減薬を始めました。
その頃はまだベンゾジアゼピンの離脱症状や減薬の方法に関する知識がほとんど無い状態でしたので、自分がやろうとしている事に対する確信が持てておらず、人の意見に動揺し、右往左往していました。
こうして、眠れない事がストレスになり、眠らなければと思う事がストレスになり、結果的にさらに眠りにくい精神状態になっていたと思います。
私は、「○○さんって△△らしいよ」といった人の噂話のようなものを鵜呑みにして信じ込んでしまう事は少ないタイプだと思うのですが、科学的根拠のある事柄を強く信じる傾向がありました。不眠や睡眠薬の有用性・安全性などに関しては、これだけ沢山の人が同じ事を言うのだから、よほど確固とした科学的根拠のある話なのだろうと感じながら聞いていました。また、会話だけではなく、文章でも同様の記述を何度も目にしたこともあり、「適切な睡眠ができるように治療した方がいいんだ」と思うようになっていました。
私ほど、他人の言葉の影響を受けてしまった人は少ないかもしれませんが、テレビやネットには睡眠に関する正しい知識のようなものがたくさん出ていると思います。ベンゾジアゼピンの離脱症状には精神的に不安定になるという症状が含まれていますので、「〇時間眠らなければならない」という話を聞くと、とても気になって不安になる場合もあると思います。
何時間眠らなければならないと思っているのにそれが達成できないこと自体がストレスになって、さらに不眠の原因になっている場合もあると思います。
ですので、科学的に理想的な睡眠時間について私が考えるようになったことについて少し書いてみたいと思います。
例えば、ある研究で、睡眠時間が8時間の人は他の睡眠時間の人に比べて統計学的に優位に病気が少なく死亡率が低かったという結果が出て、人間の理想的な睡眠時間は8時間であると判明したとします。
確かに8時間睡眠の人とそうでない人の間に明らかな差があったのだと思いますが、一方で、どんな研究であれ、睡眠時間が8時間以上だった人の死亡率が0%で、8時間未満だった人の死亡率が100%だったなどということはあり得ません。もっと緩やかな差であるはずです。研究に参加した人の中にも、8時間以上眠っても病気になる人や早死にする人はいたでしょうし、8時間未満の睡眠時間で病気にもならず長寿の人もいたはずです。健康や寿命は、睡眠のみによって規定されているわけではないからです。
実際には、人間が何時間眠るのが最適かという結論も研究によって違ってきますし、自然に8時間の睡眠がとれている人が最も健康で長寿だったとして、睡眠薬を飲むことで8時間の睡眠を達成する事がそれと同じ効果をもたらすのかどうかもまた別の話です。
実際、睡眠薬を飲むことによって病気になりやすかったり寿命が短くなったりするという研究結果もあるようです。だとすれば、睡眠薬を用いて健康に良いとされる睡眠自覚を確保しようとする試みは、むしろ逆の効果をもたらすことになります。一方で、睡眠薬を飲んでも病気にも寿命にも影響しないという研究結果もあるようですが、それぞれの研究によってこのような矛盾する結果が出ているということは、ある個人に必ず当てはまるような決定的な結論など無いという意味にもなります。
もちろん、より信頼性の高い研究手法で行われている研究結果を重視したり、複数の研究結果を集めてさらに解析したりと、論理的により正しい結論を追及していくことは可能ですし、それはそれでとても重要なことなのですが、そうして導き出された結論に世界中の人が従わなければならない理由などありません。
科学は人間が幸福のために利用すべき道具であって、人間が従うべき支配者ではないのです。なのに私は科学的正しさにとらわれていました。
例えば、研究によって人間の足のサイズの平均が25㎝だと判明したとしましょう。そして、25㎝が科学的に正しい足のサイズなので世界中の人は全員25㎝の靴を履くべきだと言われるようになったとします。実際、25㎝の靴がぴったり合って、とても快適に生活できる人の数はとても多いでしょう。しかし一方で、25㎝の靴が大き過ぎたり小さ過ぎたりして足を痛める人の数はそれ以上に多いだろうと思われます。これと同じように、人間に個体差があることを考えると、研究で導き出された最善の睡眠時間が、自分にとって最適かどうかは別の話です。足の大きさは目に見えて、実際に測定することができますが、睡眠時間は目に見えないため、個人差が可視化されていないだけかもしれません。
また、科学的な見解というのは時間と共に新しい研究結果によって上書きされていくものです。例えば、何十年か前は血中コレステロール値が高い人は卵を食べてはいけないと言われていましたが、その後、ある程度までなら食べても大丈夫だと言われるようになりました。
常に研究が進み、より正確性が追求され、更新され、発展していくのが科学であり、それが科学の健全な状態です。科学において、もし何か一つの結論が絶対的に正しい事だと固定されてしまって、それ以上誰も考えたり研究したりしなくなったとしたら、それは常に変化し続けている生き物のような存在であるはずの科学を殺してしまうことになります。むしろその結論を疑い続けることこそが科学なのです。
ですので、極端に表現するならば、今日は8時間睡眠がベストだと言われていたとしても、明日新しい論文が出たら6時間だと言われるかもしれません。明後日にまた新しい論文が出たら10時間に変わっているかもしれません。絶対に変わることの無い正しい睡眠時間の科学的な結論が得られることは永遠に無いのです。
ということは結果的に、「正しい睡眠時間」にストレスになるほどこだわる必要は無いということです。むしろ、そのストレスによって眠りにくくなったり、そのストレスが心身に悪影響を及ぼしたりすることの方が問題かもしれないのです。
これは書いてしまえば当たり前のことで、ベンゾジアゼピンを飲んでいた頃の私でも少し考えれば分かったはずですが、毎日わざわざこのような考えを巡らせているわけでも無い中で、日常的に「眠れない事は大変なことだよ」といった言葉を聞き続けていると、なんとなくそんな気がしてきてしまったというのが事実でした。
今となってはどうしてそうだったのか自分でも分からないぐらい、「睡眠薬を飲んでちゃんと寝てさえいれば健康になれる」とでも思っていたのかと思うほど、短絡的な考えに陥っていたように感じます。
そして、そのように科学的な正しさに短絡的にとらわれていたために、何時間眠れば自分の体調が良いのか・悪いのか、自分は薬を飲みたいと感じているのか・飲みたくないと感じているのかといった自分自身の感覚に十分な注意を向けることができませんでした。
むしろ、その自分の内側の感覚を自分自身の観念や他人の言葉によってマスクしてしまうような状況が生じていました。
私の場合、このような状態になってしまったのには、先ほど書いた難しい出来事があまりにも立て続けに起こったことで、自分が何か根本的に間違っているのではないかと感じ、自分の感覚を信じられなくなっていたことも関係しています。また、それらの出来事について考えたり対処したりする必要があり、仕事や生活もしなければならなかったために、睡眠や薬について考えるために割ける時間やエネルギーが残っておらず、しっかりと考えてみる機会が無かった事も原因になっています。
私ほどでは無いにせよ、減薬で強い離脱症状が出るなど何かきっかけがあるまでは睡眠などの症状や薬についてしっかりと向き合ってみる機会が無かった方もいらっしゃると思います。ですので、この機会に、自分が無意識に思い込んでしまっている事が無いか考えてみることで何か気付くことがあるかもしれません。
そして、人によって様々だとは思いますが、例えば、自分が頭で思い込んだ理想的な睡眠を体にさせようと躍起になっていた事に気付くこともあるかもしれません。
睡眠は健康とは無関係だと言いたいわけではありませんし、眠れないと次の日のパフォーマンスに影響するなど、実際に困ることも多々あると思います。しかし、減薬中に一日も欠かさず理想的な睡眠時間を達成することを目指してしまうと、かえって不眠の原因になるほどのストレスを抱えたり、減薬が進められなくなったりする可能性もあると思います。
健康な人や離脱症状がまったく無い人でも、ほとんどの人の場合、睡眠時間や睡眠の深さの自然な変動があるはずです。横になったとたんに眠り込んで、1分1秒違わず毎日同じ時間だけ寝て、その時間が来たとたんにパッチリ眼が覚めるような正確な睡眠を毎日とれる人はむしろ少数派ではないでしょうか。なぜなら、日によって体調や日中の活動による疲労などが違いますし、気温・湿度や日照時間などの影響もあるでしょう。その日その日の体調に合わせて体が自然に適切な睡眠を行ってくれることによって、計測値としての睡眠時間には変動が現れるはずです。
もちろん、離脱症状として不眠の症状が強く出る場合には、何日も文字通り一睡もできなくなったりすると思いますし、苦痛もとても強いと思います。健康的だとか自然だとか、そんな言葉とは無縁な状態になると思います。
不眠の症状の程度によってはステイしたり内服量を元に戻したりするアクションも必要になりますが、ベンゾジアゼピンの減薬を行う場合、完全に症状が出ない状態で減薬していくことは難しいでしょう。そんな時、眠れないという事に対して、「悪い事だ」と考え、その症状に抵抗すると、苦痛は確実に大きくなりますし、症状も悪化する場合が多いと思います。特に不眠の場合には、よけいに眠れなくなる可能性が高いと思います。
ですので、前の記事で述べたことと重複しますが、不眠は悪い事だと強く信じているとしたら、その観念自体に働きかける必要が出てくる場合もあると思っています。その観念が恐怖など様々な感情と結びついている場合には、その感情と向き合うことも必要になります。
そしてまた、細かい減薬量の調節が必要な体質の方々の場合、適切に調節していくためには、自分の体や心の感覚に気付く事が必要になってきますので、今まで頭の考えを優先してきた人の場合には、そちらに注意を向けるよう意識することも大切になってくると思います。
何時間眠らなければならない等という観念から自由になると共に、その観念に向けていた注意を体や心の感覚に向けられるようになると、小さな離脱症状の兆しや症状の悪化因子に気付けるようになります。そうすると、強い離脱症状が出る前に、減薬のスピードを緩めたり、悪化因子を取り除くことができるようになり、結果として減薬がはかどるようになる可能性があります。
また、自分の心や体がどうしたら楽なのか、今どうしたいと感じているのかに意識を向け、それに合わせて行動することで、心身にかかるストレスが自ずと軽減し、結果的によく眠れるようになったり、離脱症状の改善がみられる可能性もあると思います。
そしてこれが、少量の減薬で強い離脱症状が出たり、減薬に何度も失敗した人ができる、更なる減薬のための工夫の余地の一つだと私は考えています。
なお、私の信じていたものが科学だったため、今回は科学的に正しい睡眠について考察していますが、これは、偉いお医者さんや学者さん、有名なインフルエンサーさんや占い師さん、親、学校の先生などが言う事、そして、このブログを含めた、ベンゾジアゼピンや睡眠・健康などについてのあらゆる情報も同じです。その人や情報が間違っているという意味ではありません。科学も、有名な人も、どんな情報もどんな人も、それが自分ではないという点において全て同じなのです。
いくつか前の記事に書いた情報を得る事と矛盾するように感じるかもしれませんが、ベンゾジアゼピンの理解や減薬のために情報は必要です。しかし、それらはあくまで参考にすべき道具であって、自分の感覚以上に優先すべきものでは無いということです。
私自身が減薬していた時に完璧にできていたわけでは無いのですが、今改めて振り返ってみると、減薬のためには、自分の外から学んだ正しさに囚われ過ぎず、自分自身の心と体の声に耳を傾けることがとても大切になると私は思います。