ベンゾジアゼピンの減薬方法_25_減薬中の絶望と希望に関する考察
(この記事は、私の価値観や人生観に基づく個人的な考えについて書いています。物事の感じ方、考え方、価値観や人生観は人によって異なるものですので、減薬や症状に対する感じ方・考え方も、この記事に対する感じ方・考え方も人によって異なると思います。この記事の通りに考えないと減薬・断薬できないという意味で書いているものではありませんので、それぞれの方がご自身について考える参考としてご覧いただけましたら幸いです。)
不眠の原因のうち、「ベンゾジアゼピンの離脱症状とそれによって起こった環境の変化や減薬がうまくいかない事などについて色々と考えたり、それらに伴って様々な感情を感じることによる精神的なストレスが原因で不眠になっている場合」について、前回の記事では、外から情報を得ることが多少の解決になるようなものについて書きましたが、この記事では、情報を得るのではなく、自分で向き合う必要のある課題について、私の例を挙げながら書いていきたいと思います。
減薬について考え始めた頃、私はパソコンを立ち上げることすら大変な体調だったのですが、なんとか少しでも情報を得ようと減薬・断薬された方々のブログを少しずつ読ませて頂いていました。・・そんな中、私はある事に気付いてしまったのです・・。「このブログを書いている人達は、多少の離脱症状は出ていたとしても、『ブログを書くことができる体調』なのだ!!」ということにです。
その時、パソコンを立ち上げることすらできないような自分と減薬・断薬できた人達の歴然とした埋めようのない違いのようなものを感じて、「はたしてこんな体調の自分に減薬や断薬ができるのだろうか?無理なんじゃないか?」と激しく落ち込みました。
また、何度か書いてきたことですが、私の場合、マイクロピペットで減薬を始めた頃の見通しでは、断薬までに寿命よりも長い200年という年月がかかる予定でした。自分の中に、たとえ0.01mlでも薬を減らそうという強い気持ちがありましたので減薬を続けましたが、同時に、かなりの絶望感が併存している状態でした。
人によって場面や程度は様々だと思いますが、減薬が上手くいかなかった時や強い症状が出た時などに、私と同じように、心が折れたり絶望したりすることがあり得ると思います。
そして、そのような気持ちが、さらに不眠などの離脱症状を悪化させてしまうこともあると思いますし、結果的に減薬をさらに難しくさせてしまうこともあると思います。それがさらに精神状態を悪化させるというスパイラルに陥ることもあるかもしれません。
今も重い症状が続いている私が言っても何の慰めにもならないかもしれませんが、こんな私でも断薬して、今もこうして生きてこの文章を書いています。
そんな人がここに一人いるらしいという事を知っていただいて、自分には減薬や断薬は無理だと感じたり、症状がとても重かったりする方も、諦めないで頂きたいと思っています。
この「諦めない」は、「何が何でも減薬や断薬をしなければならない!」という思う事ではありません。力むのではなく、「そんな人もいるんだな」、「心が折れたり絶望したりする時だってあるんだな」と思って少しでもリラックスして頂けたらと思います。そうすることで悪循環を断ち切ることができるかもしれません。
私は減薬に何度も失敗した人も、少量の減薬で重い症状が出た人も、様々な工夫によって減薬や断薬ができる可能性があると本気で思っています。そして、私なりにできる範囲で減薬に役立つかもしれないと思う事について書こうとしています。
一方、「私もできたのだから、あなたも絶対にできるよ」と言いたいところですが、実際には私の経験や考えが役に立つ場合もあれば立たない場合もあると思います。ある特定の人が最終的に減薬・断薬できるのかを確実に予言することなど誰にもできません。なので、「絶対に断薬できるよ」などと気軽に言う事は無責任だとも思います。
ただ、減薬・断薬できるか否かという結果よりももっと広い視野で見た時、この離脱症状や減薬・断薬という経験が完全に無駄で無意味である事などあり得ないと私は思っています。
今までしたことのない経験をするということは、今までとは違う角度から世界や人生を見るということであり、今まで考えなかった事を考え、感じたことの無かった感情を感じるということです。
それが、様々な気付きや人との出会いなど、新しい発見に繋がるかもしれません。また、今まで無意識に自分を狭い場所に閉じ込め、縛り付けてきた自分自身の感情や観念から自由になり、自分が許容できる物事の範囲が広がるという、ある種の成長が得られる好機としてとらえる事もできると思います。
あまりに自暴自棄になると、それすら見逃してしまうことがあるかもしれません。ですので、諦めずにリラックスして頂きたいと思っているのです。
落ち込むこともありますし、絶望することもありますが、減薬・断薬という結果以外にも、その過程にまだまだ沢山の事があるのです。
一例として、減薬中に私が経験した事について書きたいと思います。
ベンゾジアゼピンの離脱症状が強い場合には、仕事ができなくなるなど、様々な分野に影響が及ぶことになります。
どんな理由であれ仕事を失ったとしたら、健康な人であったとしても、「夜も眠れない」と表現するような状態になる人は多いのではないかと思います。
さらに、ベンゾジアゼピンは抗不安薬・精神安定剤として使用される薬剤です。元々は精神的な症状以外の症状(めまいや肩凝り等々)に対してベンゾジアゼピンを用いていた人であっても、そしてまた元々は不安などを感じにくい性格だった人であっても、ベンゾジアゼピンは脳全体に作用しますので、ベンゾジアゼピンを減薬すると、精神的に不安定になりやすい状態になることが予想されます。結果として、環境の変化による精神的ストレスが原因で不眠になる可能性がより高くなると考えられます。
私も、仕事ができなくなった事で色々と考えてしまい、様々な感情を感じて眠りにくくなりました。
今回はそのうちの一つを取り上げてみます。
「働かざる者食うべからず」という考え方があります。社会で時々言われていることだと思いますし、私は子供の頃によく聞いた言葉でした。ただ、私自身は個人的にこの考え方にしっくりきたことがなく、自発的にそう思ったこともありませんでした。ですので、働くことができない人に出会ったとしても、その人に対して「働いていないくせにご飯を食べるなんておかしいよね」という考えが自分の中から生じた事が無く、結果として、この観念を他人に適用して不快な感情を感じた事はありませんでした。
しかし一方で、私は気付かぬうちに、「子供の頃『働かざる者食うべからずだ!』と他人から言われていた自分」に対してだけ、何十年もこの観念を抱き続けたままでいたようでした。自分に対する他人の考えや感情を、無意識に取り入れてしまったまま解除する機会が無かったのです。
私がもしこの「働かざる者食うべからず」という観念に基づいて、本当はやりたくない仕事を「働かないとご飯を食べちゃいけないんだから!」と思いながら頑張ってやっていたとしたら、その時点で気付いていたかもしれません。しかし、私は自分がやろうと思った仕事をしていたので、この観念が仕事をしていた主な動機になっていたわけでもなく、仕事を続けている限り、自分がこのような観念を持っていることに気付くことはできませんでした。
このため、ベンゾジアゼピンの離脱症状によって実際に働けなくなった時に初めて、「働かざる者食うべからず」という観念が私の中に浮上し、「ご飯を食べてはいけないような気がする、生きていてはいけないような気がする」という苦痛に襲われることになりました。
(なお、「働かざる者食うべからず」の本当の意味は、働ける能力があるにも関わらず怠惰のために働かない人や、労働者に働かせて自分は何もしない資本家に対する言葉だったようですが、私は、「年齢や病気などいかなる理由があったとしても働く能力の無い者に生きる権利など無い」という意味で使用されているのを聞いてきましたのでこのような経過をたどることになりました。)
この苦痛は、怪我をした事によって生じる体の痛みなどとは質的に異なる苦痛です。具体的な現象として今ここに原因が存在している苦痛ではなく、物理的には存在していない何かを自分が思い込んでしまったために起こっている苦痛です。
働けなくなった結果、「ご飯を買うお金が無くてお腹がすく」という苦痛は今ここに具体的な現象として起こっている肉体的苦痛ですので、ご飯を手に入れる具体的な行動を起こすことが必要になります。一方、働けなくなった結果、「『働けない事』と『自分の存在価値』が頭の中で結びついてしまっている」がために精神的苦痛を感じている場合には、自分の固定観念や感情そのものを扱う事が必要になるのです。
存在に気付くだけで消えてしまう観念や感情もありますが、私の「働かざる者食うべからず」は、強い無価値観や恐怖などと互いに絡み合って固定されていましたので、気付いただけで消えることはありませんでした。
そこで、その感情と観念に少しずつ向き合う事を、時間をかけて繰り返しました。そうするうちに徐々に気にならなくなっていき、働いていない自分が許せるようになっていきました。
自分の持っている固定観念によって辛い感情を感じている時は、このようにその観念や感情そのものに向き合うことで精神的な負荷が軽減し、気持ちが穏やかになり、夜眠りやすくなりますし、減薬や現実的な困りごとの解決のために割けるエネルギーも増えることになります。
感情を扱うことに関しては、感情の解放・手放し方・統合ワークなどと検索すると様々な方法が出てくると思います。色々試してみて自分にあった方法を見つけるのが良いと思います。
上手くいく方法は一つとは限らず、その時々で効果のある方法は変わってきますので、いくつか方法を知っておくと、より感情が扱いやすくなると思います。
感情に向き合う際に重要なのは、感情を否定したり、感情に抗ったりせず、可能な限りリラックスすることだと思います。ですので、自分がどうしたらリラックスできるのかという方法を見つけることも大切だと思います。
また、考え方に関しては、体に緊張が走る考え方ではなくて、体の緊張が緩まってしっくりくるような考え方を選んでいく方が良いと思います。
自分がどうしてその観念を信じてしまったのかについて振り返ることが有用な時もあると思います。
この話は私の一例として取り上げただけで、私は誰かに向かって「働かざる者食うべからずと考えてはいけない」と言いたいわけではありません。それは個々人の自由です。
ただ、私にとっては明らかに苦痛を生む考えであり、また、他人の考えを取り入れてしまっていただけで、自分から自発的にそう考える理由も無かったので手放したいと思いました。
一人一人にその人なりの感じ方がありますので、この記事を含め、このブログのどの記事も誰かに強要するものではありません。この記事に書いてある事は私の個人的な価値観になりますので、この話自体がしっくりこない、ピンと来ないという場合には無視して忘れて頂きたいと思います。
一方、もしこれを読まれていて、自分が今まで持っていた何らかの観念がしっくりこない、苦痛になっていると気付いて、もしやってみようと思われるようであれば、ご自身の観念や感情そのものに向き合ってみるもの良いかもしれません。
ただし、辛い感情に向き合うことでさらに強い苦痛を感じてしまうこともあると思いますので、離脱症状でしんどい時にわざわざ掘り起こしたりはせず、無理の無い範囲で少しずつ取り組むのが良いと思います。
また、この話は、誰も働かなくて良いとか、ご飯を食べなくても生存できるとか、そのような物理的な話ではありません。「働いているか働いていないか」という「人間を測る物差し」から自分の価値が自由になることについての話です。
自分の価値が何らかの物差しの影響を受けなくなるという事は、一つの精神的自由の獲得であり、自分の固定観念から生じていた苦しみが一つ消滅することを指します。
そしてそれは、人間を測る様々な尺度の背景にある根本的で普遍的な人間の価値を体感するきっかけになり得ます。この体感こそが、自己および他者に対する肯定や愛の根源になるものであり、このような体感を得られる経験は、お金を得たり娯楽を楽しんだりする事などとはまた違った、深い意義のある人生経験だと私は思っています。
そして、このような人生経験には、知識や技術を身に付けたり出世をしたりするのとはまた違った、人としての深みや広がりを得るような種類の成長が伴うものであると思います。
ここまで書きましたように、私の場合には、「働かざる者食うべからず」という観念とそれに伴う感情からの解放という経験があったわけですが、私がこの観念・感情に気付いたのは自分が初めて働けなくなったからでした。
ということは、私がこの固定観念を手放し、一つ成長するためには、原因は離脱症状でなくてもよかったかもしれませんが、自分自身が働けなくなって、この考え方に起因する激しい苦痛に出会うことが必要だったと言えるかもしれません。
そのような視点に立った時、人生に起こる出来事は常に意味があるし、無駄な事など何も無いと言えると思います。
かなり個人的な話になってしまったのでどこまで参考になるか分かりませんが、私とまったく同じという事はむしろあり得ないものの、難しい減薬の経験は、それぞれの人がその人なりの何かに気付く機会になると思います。
自分はこの経験で何に気付こうとしているのか、何を学ぼうとしているのか、どんな成長をしようとしているのかという切り口で、ご自身の経験をとらえてみる機会を作ってみられるのも良いかもしれません。
長くなりましたが・・、減薬が上手くいかなくて、症状が重くて、辛い気持ちになって、不眠の症状で眠ることもできなくて・・という時には、こんなことを考えている人もいるのかと思って頂いて、少しでも気分が変わりましたら幸いです。