ノンデュアリティは事実専門です
ノンデュアリティは事実専門です
ノンデュアリティの本題に入りましょう。
ノンデュアリティは事実を示すことですので事実を示してみます。
事実専(門)ですね。
遠くの方で虫の鳴き声が聞こえたり、雨が降ったり風が吹いたりすることは「自然現象」だとわかっています。という事実があるのに対し、自分が暮らして生きていくということは「自然現象」だと捉えられずに、あれやこれやの意味をくっつけて「自分がしている」または「自分で動かせるもの」だと捉えています。それはなぜでしょうか?
また、身近すぎるものも自分がしているとは思っていなくて、自然に起こっていると感じています。食べ物が消化吸収、排泄されたり、血液やリンパ液が流れたり、傷口を修復したり、細菌感染を防いだり、髪の毛や爪が生え変わったり、そういう「生理現象」を自分で止められるとは感じません。
しかし、自分の感覚がある範囲だけは、何故か自分でしていると考えています。なぜかといえば、立とうと思えば立てるし、歩こうとすれば歩けるし、行こうと思えばコンビニにも行けるからです。
そのポイントが実は実状とは異なるよ、という指摘がノンデュアリティがユニークなポイントです。
大きく分けると2点を指摘します。
一つ目は、自然現象を自然現象じゃないと間違えていること。(盲点)
二つ目は、自然現象を個人的に受け取って間違えていること。(所有)
です。
1. 意味付けは後付けです
まず最初に一つ目の盲点を紹介します。
事実は、全部が全部「自然現象」だから自然現象に向かって「意味づけ」を行い「リアルなこと」として味わっています。
自然現象であるというのは、現実をリアルタイムに生きているのではなくて、先に現実(自然現象)の方が現れてその現実に対してどう感じるのかを都度フィードバックしているので、タイムラグがあるということです。つまり、体が動いてからコンビニに向かって歩いているんだと認識するのです。
思考は後からやってきて、さも自分が考えたからそれに体が追従しているかのように感じています。実際には、思考ができるのは体が動いてからその意味を捕捉し、「スルー」(そのまま)か「ブロック」かで行為の抑制をするということです。とてもプログラミング的なのです。
こう書けばわかりやすいかもしれません。
量子の世界線が動き、次に原子の世界線が動かされ、その次に分子、次に神経、感情、思考という流れで波及しています。
シンプルにすると、気づき → 無意識 → 神経 → 感情 → 思考 、ですね。
なんでこんなことを知る必要があるのか?と言うと、
思考の中身(つまり意味付け)は「後付け」であるというポイントを押さえたいからです。
意味付けは後付けで事実とは異なります。これは盲点ですね。
全部が全部、切れ目のない自然現象なのだけど、それを自然現象じゃないと間違えていることが盲点なのです。
2. 意味付けは自己裁量です
二つ目は、意味付けの自己裁量についてです。
良い悪いが無いことから、所有の概念を自動発動させて自己都合でいつも出来事を所有します。
こう書くとわかりやすいかもしれません。
大元の気づきというのが無劣化版のCPUだとすれば、思考というのが機能制限版のCPUです。気づきが無条件にすべてに気づくのに対して、思考は個に必要な成分のみ抽出して残りはパスしている、そんな感じです。無限の情報量が多すぎて処理熱が高くなりすぎてしまうので、機能を一部に削減して個に必要な仕事だけ割り振っています。
つまり、今持っている情報だけでいつも自己決断をするということです。方向性をあらかじめ決めたうえで情報をピックアップし、その範囲で結論を持ちます。自己都合次第です。
今書いた仕組みを知った上で、個人的な経験はないという論点に戻して、ぎゅっと一文にまとめて書くと、
「個人で生きているという意味付けがまったく違うよ」です。
ここで取り上げたいポイントは社会集団の中で暮らしているから個人では生きていけないよ、という人間ドラマの生活基盤や倫理の話ではありません。(※経験を個人的に受け取る意味と役割については後々発表します。)
そうではなく、そもそもが個人的では到底ないよ、と言う生命であるという「基本原則」のことを指しています。
てやんでぃのおやっさん風に書けば、「個人がいる?そんなわけあるかい、まあ聞け、生命(いのち)というのはなぁ、全体で一つの統合されたデザインなんだよぃ」です。
どのような意味も持たせず、自然現象自体はタイムラグ無しで即時展開されているのに対し、思考は後から遅れてやってきます。しかしそのタイムラグは、人にとって無視できるほど小さなものなのでリアルタイムに感じられているよ、ということです。没入感を得るために脳内補完するからです。
そのあと、その出てきた思考を自分好みに本調理します。これがいわゆる肌身離さずその意味付けを「持ち歩く」ということです。自分好みに味付けをして愛着があるのでいつも一緒です。
ノンデュアリティは自己裁量をはさまない世界線
じゃあ、
後付けの意味付けの全く無い、自己裁量の全く無い世界線とはどういった感じなのしょうか?
それを今のノンデュアリティではこう表現されています。
聞こえた瞬間に聞こえているという事実。
味がする瞬間にその味がしているという事実。
触れた瞬間に触れているという事実。
余計なものを挟まないのですっきり即時です。意味付けが全くありませんので、書いてある通りのそのままのことで想像は膨らませられません。これだけのことです。
良い悪いではなくて実際にあるのはこれだけである、ということです。脚本やシナリオのない、ストーリーのない世界線が今すぐここにあるんだよ、という意味です。
それと、プラスして、それは個人的ではないでしょう?と言われたりして複合して教えてくれますでわかりにくいかもしれませんね。
わかってしまえば、驚くほど当たり前のことを言っているだけ、というのがノンデュアリティの基礎部分です。
見どころ(11:45 ~ 23:00)
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