見出し画像

誰かの意味付けに共感することの意味

※ご注意
現在心の傷がある人はこの記事を読まないでください。まず癒して喜びを十分感じとれるようにしてからご覧くださいね。

今日は、ある動画で解説者さんが一生懸命説明している姿を見ながら、一歩下がり感じたことを書きます。
なるほどな~と別の解釈の扉が開きました。
そんなお話です。

通常は高次元のお話と書くと5次元以上だと感じるかもしれませんが、それよりさらに上位の9次元以上の視点についてです。


〇 チャネリング1

意味をつけること、
誰かの意味付けに共鳴すること、
誰かの意味付けに助けられたこと

現象には意味が無く、だからこそ、各自が意味付けを試みています。

そして何よりも、、、

自分よりも意味付けが上手な人の意味付けを見せていただき、
自身の価値観、視座をかえり見たいのですね。

〇 チャネリング2

意味付けが全く機能しない世界線があることはお伝えしましたが、それは今もなお、ここにあって良いのです。

そちらに目を向けていけば、今言われている価値観、新たな視座、新たな見え方に気づき、試したいと望むでしょう。詰まるところ、意味は本当に本当には「無い」のです。だからこそつけた今をかえりみたかった、と言うのですね。

すごくシンプルですが、この感じ、このニュアンスについて来れていますか?いませんか?

意味は無いのです。しかし、意味を付けたがる風習はあります。だからつけて楽しみたいがために楽しむのでした。(付けたと勘違いできてもいる)その意味が何なのかの意味も無いからです。

〇 チャネリング3

少し整理してみます。
ある出来事が始まります。それに対した意味を感じ取り今、付けます。

その意味を感じ取り、エラーをもし感じるとしましょう。
すると、より良い意味付け、よりナチュラルな意味付け、自然な意味付けを好んでいますので、そういう好みの意味付けに変えたいと思います。

でも自分の引き出しの中ではどうもうまくいきません。

すると、外に目をやり、上手く意味付けできているかどうか選手権のまなこで見定めます。そして、一人1位を決めて、その方に「ならう」のです。(※模倣します)

意味があるわけでも無いことに、意味を与え、感じて見て、しっくり来なければ再度探して見て、何度も繰り返すうちにコツを掴み、いつしか、ご自身のうちで、そのめぼしい意味付けを生産できるようになれた、という寸法です。楽しい仕組みでしょう。ユニークなのです。

今回の話は個人的にとても楽しいテーマです。

以下とかの記事ですでに、もとから宇宙には意味付けがまったく無いということは書かせていただいてます。まだ知らない方は一度目を通してね。

以下の記事の動画「惑星ルミナス」でも似たような事が言われています。



それでは一番最初に戻り、上のチャネリングを少し整理してみます。

1 . 意味をつけること
自分で「今の自分の眼前にある現象」に意味を付けたがっています。

2 . 誰かの意味付けに共鳴すること(期待すること)
1で上手にいかないから、周りを見て参考にしています。
あれはどうかな?こちらはどうかな?とあっちこっち見てうなずき、そっちを見て首をかしげます。う〜んあれはイマイチとか言っています。

3 . 誰かの意味付けに助けられたこと
仮に1で自分を苦しめるエラー的な意味付けをしてしまった時、2で混乱の中で見つけた、真新しい発想や価値観に目から鱗が飛び落ちました。自分は勘違いしていたんだと気が付かされます。

でもこんなの改めて説明されるまでもなく、知っていますよね。

今回のお話では、こういう当たり前な事じゃなくて、そもそもなんでそんなことしてるのか?の本質と言いますか、理由についてなのです。3種類のニュアンスがあります。

  • 理由

  • 意味がないからこそというチャンスの場として使いたい

  • でも元から意味がないままでもいいんだから、そちらでもいかがですか?

の豪華3本立てです。(テーマが1つなのですが、話のニュアンスが3つとも違います)



誰かの意味付けに共感することの大切な意味


誰かの意味付けに共感することの意味とは、以前お伝えしましたけど「心理的ゲシュタルト」だよ、という一言に収容されてしまいます。

その行為自体に何か特別意味があるのではなくて、それ(集合無意識)を経るとその視座が身に着けられるので、それが楽しみで上記1,2,3をトライエラーで繰り返し学んで行きます。自分自身がその心理をマスターでき、受け取って、それ(その心理的ゲシュタルト)そのものと同じ立ち位置に立てているかのような立ち振る舞いを得ることが可能です。

少し難しい言い回しですね。

ざっくばらんに言いなおしてみます、

誰かの意味付けに共鳴できていくことの意義としては、その意味付け保持者の心理に一致して共鳴共振で引っ張って来れるようにしている、だけ!です。

a. テレパシフィックなやり取り、通称テレパシーですね。つまり、意味付けがどうこうと言う話じゃなくて、デジタルコピーをしたいがために出来て行く仕組みだという事があります。話の中身がどうか、とかじゃなくて波動的に共振し、共鳴できるからこそ、その波動を拡散させたい、保持していたい、そう捉えてほしく感じます。波動的なストック品です。

b. 相手の発する情報の一部を切り出して、内容を逐一精査して全部を確かめた後にそれに向かって合格の判を押してから、自分の魂に向かい刻印しているわけじゃないということがここで述べられている違いについてです。
ファッション、その時の心理、心の持ちよう、心のブループリント/情景です。

c. 手持ちのカードで出せるのが無いと嫌だからこそ、持ち札を増やしたい。カードをブラッシュアップさせたい。そういった心情があります。もっと上手にやりたい、立ちふるまいたいと想う願いがありますね。なので、周りを見渡して、上手く行くパターンを模索して取り込みたいのですよね。

仕組みの解説は以上ですね。
「心理的ゲシュタルト」という発想/理解のための枠組み/ツール群は本当に便利で使いやすい視点です。



でも、意味のない、意味が不要な世界線も並行してあるんだよ


色がない世界というのはイメージしやすいでしょ。その事。で、意味の無いというのも色の無いのと全くおんなじレベルの話であると、今は一度受け入れてください。
色がないと白黒の世界のみで、白と黒も色なのでもう何の色味も見えない真っ暗闇を想像してみてほしい。

意味が無いというバージョンは、そのように意味と言う明かりが一つづつ消えて真っ暗闇になるイメージのことです。物事の価値を映し出すかのように明るく灯っていた意味と言うロウソクの火を全部かき消していくとどうなる?それは怖くなるんじゃ無くて、意味により閉じ込められてきた価値を開け放ち、元の状態、意味が無い白紙のキャンバスの状態に戻していく事を指しています。(※現象をただあるがままの現象としてあるんだ、と見直すんだよと言う事)

意味は与えられたものです。付けたもの。付けてしまえたもの達です。一度意味づけを認めると、その後、もうその意味しか受け付けなくなって来てしまいませんか?そう言う経験おありでは無いでしょうか?

意味はなくても良いもの達なのです。あってももちろん素敵ではありますよ。しかし、「高次元では」と注釈を入れなければいけませんね。高次元では意味は不要。むしろ、邪魔にさえなるものです。なぜかと言えば、すでに答えは書きましたがその意味の固定化が起こり、それ以外を受け付けなくなるかもしれないからです。いい意味であれば良いでしょう。ではだめな場合はどうですか?そして何を基準に良し悪しを決定するおつもりですか?

意味を決めだすと永遠無限にその次の意味づけに追われます。またさらにネガティブな意味づけへの対応も含まれ得ます。それって本当にあなたが今したい事なんですか?と言う話ですよね。

もう打ち切りでいいですね。余分な仕事はキャンセルです。できません、で大丈夫です笑


人の生涯は多岐にわたるのでその全てで正確無比な正しい尺度で意味付けが行えるようになるのは高齢者になってからでしょう。

あなたは日本のすべての世界における正しい結論を繰り出せる一握りのお爺さんもしくはお婆さんになりたいのでしょうか?

もしそうであれば構いません。でも周りをぐるっと一周見渡して見てそういう方はいませんか?

※※※ ここまでテレパシー。

そう言われると確かにな〜と感じてもっとゆるくていいかなと感じました。
正確無比な正しい回答を出せるご老人に自分がなりたいのかどうか?ですよね。それってそこまで至る間にたくさん見聞を広めたりしなきゃいけないってことでしょう。そして今世でしかそれは役に立たないかもしれないです。おじいさんなら余命いくばくです。改めて気付かされますね。

尊い一握りのおじいさんになることを目指すのか、今若い時を若くてもいいので生き切るのか?楽しむ、やりつくせるのか?の違いだろうと感じました。



デフォルトセッティング


〇 毎度おなじみの図

トータルセルフの全部が自分の個要素です。


話は変わりさらに進んで、
人は多次元的な宇宙なので高次元も前提として含んでいます。と言う話を書きます。

手の届かない、どこか宇宙のかなたに、意識の遠く及ばない地域に、高次元という物質があるわけじゃないんですよね。

自分軸の中にあります。と、言いますか、位置はどこかはもうどこでもいいと感じます。掴みやすいので自分軸の中でと書いているだけです。

つまり、高次元は今もここに在るのでアクセスできるし、むしろ意識を一致させればいいだけなので、そのようにしていきます。

実際には気持ちを向けて見て一致すればいいだけ、でも単にどれが高次元かを具体的に知らないだけですよね。

でも、答えは簡単です。

  • 元から意味がない(後で消えたりしていない)

  • 意味が不要(あったりなかったりせず、もともと不要というか無い)

  • 意味付けがそこここでなされている通りにあるわけではない(意味付けのための解釈の余地/幅がないため)

  • 実際には、意味と言うものは無いのだから各個人がおのおのの意味付けを楽しめる余地が生まれている、等々。

といったそういう発想に共振できる内面の地盤とか余地、共振できる発想、とか視座、それこそが「高次元」だというのですね。なんとなくでもわかっている感覚のことです。それは自分の中、内面にのみあります。※上図で言うところの自分軸とかコアについてです。ピュアエッセンス(合理的価値判断)についてです。

誰に言われずともわかっていて、でも言語化が難しいあの感じです。言葉に変化させなくていいのですね。高次元は低次元じゃないからです。

高次元と言う物理的な惑星とか宇宙が外の世界のどこかにあるのではなくて、強いていうなれば、心の中、自分軸の中、心の中心で感じ取れたシンパシーの中にあります。共鳴の中です。

そうではないでしょうか?この言っているニュアンスが正しく伝わればうれしいです。あと、ぼくが今のところそう感じていますよ、というだけの体感談なので、これをその通り信じてくださいという事じゃないです。違っていれば後々この認識は修正されます。



とってもリアルに感じ取られている現象を「現象だ」とセクショニングしています


ところで、
あの話は意味がない、だからその時そう感じる私は高次元なんだ、とかじゃなくて、愛ベースの無限ベースの無条件さで全部に一致しているベースだから、あれとこれとで態度を分けません、同じ態度を取れているというのがそもそもの根幹にあると思います。←これがクリティカル(直球ど真ん中)なポイント

全部一律で意味がありません。この記事では「意味がない」だけにフォーカスして話しているから強調されてしまいますが、「意味がない」を前面に押し出すのは単に誤解を生みやすそうですね。

実際の観念ではもっと正確にすると、現象に対して変にイメージに固執せずに「現象だ」とはっきりと心得ているという事だと思います。はっきり割り切っています。わかり切っている感じがしています。深入りしていません。

現象にそこまで大して意味が無いのはわかりますよね。台風が来ても神がお怒りになっているとか考えませんよね。付けた意味だけがちゃんと付けられています。だからその意味で解釈をした現象が感じとられています。ロジカルシンキングですね。

それで人の内面での共振共鳴とかも現象または単に反射反応だから一歩引いていられているんだ、という事ですね。

現象じゃない、リアルだと感じながら意味がないを連呼するのは単に困惑しているだけですね。それは不理解時特有の動き(見せる化)だと感じます。一歩引けていなくて、その中(現象世界)にどっぷり入り込んでいる姿の見える化ですと表現できます。(※入り込むために産まれてきていますので、構わないというか、見せる化はプロセスの一環です。無くさないでいいものです。)



以上、これまでの話が読者の皆様をどこに連れて行きたいのか、をまとめますと、

3次元世界はマトリクスだ(現象だ)
見せる化して見えるようになっているだけです。それだけですし、それだけで構わないのです。意味がどうとかは、考えたくて付ければいいのだけど、その付けた意味さえもあとから邪魔になる場面があるのと、意味は特に無いんだから付けようが付けまいが、特に意味はありません。したいからする、できたからできる、というそういうグルーピングです。一喜一憂もして当然だし、すればいいだけですからね。感情に振れ幅があり、表現があるのは当たり前でごく自然なことです。

5次元世界も、7次元世界も、9次元世界も、、以下同様なので略。
5次元世界も、7次元世界も、9次元世界もマトリクスならばその次元専用のマトリクス内で試せることを試すための場、変換装置なだけなので、特段初めから元から付けられた意味と言うものは存在しない(はず)です。カラーはあるかもしれませんが、その惑星とか地域特色、本質テーマ、ベクトル軸、全体視点での大きなセクショニングはあっても不思議ではありません。

各自にとってしたいことがあり、それを各自ができています。

いかがですか?これを知ると肩の荷が下ろせませんか?



物理の世界で意味付けを頑張っている意味


この手の話の趣旨をちゃんと理解できるまでには時間がいりますので、その前に今行っている各自の現実はちゃんと機能しているという理由を書いてみます。

意味が無いからこそ、無意味だからこそ、全力でぶつかって行けるちゃんとした場であること!!!

もし仮に何か意味があらかじめつけられているとしたら、それを確認できた時点でノルマ達成でクリアすることになってしまわないかい?

それをして何が良いというんだろうか?

もっとその他に出来ることがあったかもしれないじゃないか、それをせずに今、こちらをしているという事の意味は何があるかい?


それは、私方がいうことじゃないかもしれないが、楽しむためにほかならず。
たのしめない人ならそんなことせずによそに目を向けて構いません。
ですが、楽しめるのであれば、今それをする意義が見いだせるならば、こちらをするのが筋だと、そうおっしゃります。

  1. 正真正銘の大全力でぶつかれる場所。個が全エネルギーを没頭出来ている場所、仕組み、そういうことなのかな。

  2. 初期化してあるということですかね。

場だけ提示して、遊園地だけ提示して、あとは好きなように遊べばいいよ、と初期化してあるものをプレゼントされている、そんな印象です。普遍的なもの(その場限りでないもの)、ノーマルなもの、一般化してあるものを渡されているという印象があります。

比較するために、それとは対極にある話題では、よくあるRPGゲームはストーリーがあってみんな似たり寄ったりな経験を楽しめるようにしてあると思いますね。
がしかし、ここ(地球)はどうも別の目的なシュミレーションのような空間です。

例えば、その中でさえ、ストーリーを持ちたい方、RGP仕立てで進めたい方、台本片手に旅をしたい方は、各自で決めて必要から欲しくて物語を持つだけで、それだけな気がしています。
例えば、出発時点で手渡された義務的な、持たされたノルマ的な設計書などあるのかな?いいえ、無いと感じます。

魂のブループリントや、生まれてくる前に決めた人生の計画はここで述べていませんよ。それはそれであるならばあるんじゃないかと思います。完全にない時よりもあった方がいいならありますが、それは束縛するためのキツキツな絶対の物じゃなくて、ゆるくてライフステージを変遷するステップ(要所)とかタイミング時期を決めてあるぐらいのことだと感じます。それはここで述べる意味付けとかシナリオとかじゃありませんね。

ここで言う意味付けとは裸一貫で生まれた後、後天的な、文化的な刷り込みとか、親の方針とか、生活環境からのネガティブな影響とかで、培われてきたある固有の人間独特の狭い価値判断とか、狭い思考とか制限された視野角や態度のことを指しています。個人の積み上げたストーリーとかシナリオについてです。

だからこそ、自分がどんな意味付けをしたのかを試せる場所、見せつけられる場所、言い訳無用な地帯が欲しいんじゃないかな?自分の内面由来成分100%配合のシナリオを自分で演じて自分に見せて生きます。そうすれば、それを見せつけられて確認/納得せざるを得ませんからね。気づけば変化が生まれます。

ぼくたちはノルマイコール悪だと刷り込まれて来た節があるので、ノルマがあるんだと捉えるとすぐにどうにかしてやめなければと考えたりしますが、「ああ今の自分はノルマが必要なんだ〜」と今その時の自分を認めてあげられればいいということなのです。

ノルマがだめだから減らさなきゃいかんというのもまた別の意味づけに過ぎないからですね。意味づけの更新作業は終わりがありません。今のそれは終わったかもしれませんがまた別のそれ(代わりの問題)をまた見つけますよね。問題探しに余念がありません。

なのでそんなことをせずに、その機会、その期間中は「今の自分はノルマを選択しているんだね。」と受け取って受け入れてノルマを果たし、最後までやり切ります。で、次のターム(人生の岐路)ではノルマになっていそうか?それをしたいのかどうかを感じて再選択をすればいいと言う価値観です。

だめだと意味づけしたものたちをことごとく撃ち落とす作業という事ではないと感じます。一定期間浸って見て、試して見て、世間で言われている事が真なのか?または自分で感じた感覚でそれ(ここではノルマ)が何なのか?を試して見たい、と言う事なのです。

せっかくならそのタイミングを有効活用するみたいなゆとりで楽しめればいいですね。深刻さを取らずに。

深刻さを取ってばかりいれば思考の癖になっていますので、次のライフステージの岐路でもその時の深刻さから別の深刻さを取り、また自分に見せる化するのです。どんな選択をしても正解だからこそ、自分で決められますので、決めてそれが深刻さだよ、と見せて知らせてくれています。まさにそれこそが無条件の愛の現われですよね。この仕組みを考えついた人は天才です。



あぁ素晴らしき『義務観』のない宇宙観


このお話を振りかえって、

あらかじめ決められたシナリオが全く無い世界、地球。

それはとてもとてもとても有意義なチャンスの場だったのだなあ~としみじみ感じ取れました。なぜなら、裸一貫で入って、後から吸収ろ過した成分だけで自分を形作っていき、それを眺めるのですからね。圧倒的に独自でしょう。自分の本体の写しですね。見せる化です。

つまり、個人的には、ぼくにはぼくのやりかたでストーリーで生き切ればいいだけなので、何をするもしないも自由なんだなと気が付けます。

義務が無いんですね。
生きるという事に、どういう風にかく生きるべしと言うノルマが課されていません。

むしろさらに言うと、

1 . だからこそ、決めておいて欲しい方はそちらを見える化して自身に見せていますよね。つまり、ノルマを設定してもらいたいのです。だからノルマがあります。生きるために達成しなきゃいけない各種ノルマが大小さまざまなに設けられていて、それに合意しています。むしろそれが消えると困惑さえします、どう生きればいいか知らないからですね。しかしそれも見える化です。

2 . また反対に、完全自由に、完全に独自に生きてしまって全く構いません、ってことなんですよね。誰の何も聞かずに、自分を信じて突き進んでしまって全く構いません。面白いですよね。
義務感を生きたい人が当人に見せる化したいがために義務を生きていらっしゃるように、その真反対で義務などみじんも無い、存在さえしません、という立ち振る舞いで生きてしまっても、それもまた見せる化としてマジでOKだよ、ってことなんですね。まったくもって面白い仕組みだなと感服します。


◯補足

補足として、

意識の焦点が低次元にある時には意味づけは必要だから今後もして良いのですよね。単に高次元に行くほどに意味づけをする機会が失われていく関係からしなくなっても別に構いませんよ、と言うだけのことなので、やっぱり低次元にフォーカスを当てたい時には意味づけはして当然な素晴らしいツールです。なぜなら、その角度から興味を持って入っていけるからですよね。良い意味づけは気分を上げられるし、体感も向上できます。喜びも感じられますね。

いわゆるネガティブな「腹立つ〜」って言う意味づけも「じゃあ何で腹が立つのだろう?」と立ち止まるきっかけになるからいいよ、と言うことがここで言いたいことなのです。

人生に「義務があってもいいよ」、「義務が無くてもいいよ」、と言う元からどっちでもいいと言うお話は、高次元者からお墨付きを得たみたいで気持ちが楽になりませんか?
実際その通りなのです。逆に、決めて欲しい質の時にはこの暴露にモヤっとするかもしれませんね。今自分が置かれている立場の決定者が自分以外には決していないと、見せつけているためです。

※ぼくはその通り捉えます。と言うことですが、あと、低次元では自分が付けた意味がついているので取らない限りまだ意味は付けたまま付いています。だけどぶっちゃけそれさえどうでもいいと言うことです。付けた意味にもそれ以上の意味は無いからです。今つけた意味と関係なく現象はその現象のとおり動くだけだからです。台風とかと同じです。外界の自然災害も内面の自然運動もどっちも似たり寄ったりでひとくくりに言えば「現象」となります。



感想


今回のお話ではぼく自身、
意味がないまま、無意味なまま、

すること/したいことが、自分にとって、楽しみか/そうでないか』

を軸に再抽選して生きて行こうかなと改めて感じ取れました。

この手のお話は今最も興味があるホットな話題なので今後もお願いしま~っシュ笑


いいなと思ったら応援しよう!