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Eat Me,Drink Me【#シロクマ文芸部】

 聞くところによると、僕のお爺さんのお爺さんの、そのまたお爺さんのお爺さんは、地球に住んでいたらしい。
 当時、星間旅行はまだ始まったばかりで、ほんのひと握りの人しか宇宙に行くことができなかったらしい。そのころ地球に住んでいた人たちは、産まれてから死ぬまで惑星から出られなかったわけだ。今の感覚だと気の毒な感じもするけど、そこに生きていた人にとっては、それが当たり前だったんだから、特に不満に思うこともなかったのかもしれない。
 ちなみに地球という星は、いまはもうない。膨張した太陽に飲み込まれ、住んでいた生き物もろとも焼き尽くされて溶けてしまった。
 一部の生き物と人間は脱出して、宇宙の各地に散らばったと教科書で読んだ記憶がある。だけど僕は今まで生きてきて、地球系列の人に会ったことはない。

 僕が仕事でこの星に来てから、ひと月経った。
 本社から期間限定で出向している僕を、現地の社員は暖かく迎えてくれた。ここはとても仕事がしやすい。みんな優しいけど、なかでも親切なのはSATOさんという女性社員で、職場でのきめ細やかなサポートだけじゃなく、仕事が終わってからも毎日のように、いろんなところに案内してくれる。最初は単純に嬉しかった。でも最近はちょっと、いやかなり、困っている。こういっちゃなんだけど、SATOさんがあまりに魅力的すぎるのだ。彼女の見せる親しみの態度は、明らかに同僚付き合いのラインを超えている気がするけど、まわりもにこやかに見守るばかりで何も言ってこない。この星の常識は僕とは違うのか。だとしても、あまり近付き過ぎると別れが辛くなる……。
──いや、もしかしたらもう遅いかな。最近は、彼女をつい目で追ってしまい、なるべく見ないよう意識して努力しているのだから。彼女が僕に向ける笑顔、僕を見つめる眼差しには、ほかとは違う熱がこもっている気がするんだけど。いや気のせいだ、やっぱり気のせいじゃない、と、一日に何度も自問自答する。

 そんな胸の内を知ってか知らずか。
 夜の繁華街のなかの、賑やかな居酒屋の一角で。僕はいま、彼女と向かい合って座り、三杯目のビールのジョッキを飲み干すと、空の皿の隙間に置いた。僕は酔いの勢いに任せて、この星の酒や食べ物は、どれも甘い味がする、と口に出した。
「……いえ、嫌いな味じゃありません。けど、たまに刺激的な味のものが食べたくなるんですよね……本社で同僚が言ってたんですよ、この星に行く時はコショウを持って行った方がいい。MYコショウを持ち歩くことをおすすめするって。僕は割となんでも食べるたちなので、鼻で笑ってたんですが。経験者の忠告は聞いておくべきですね。身体が、なにか足りない、そう訴えてる気がして」
 SATOさんは甘い笑顔を浮かべた。
「当ててみましょうか。AKIさんは、地球系列の方じゃないですか?」
 僕は驚いた。「えっ、どうしてそれを。もしかして僕、訛ってますか?」
「いいえ。言葉じゃなくて、味覚の話です。以前にも地球系の方が同じようなことを言ってたなあと思い出して。その時の会話でひとつ大きな発見があったんです。この星と、地球の最大の違いについて」
「最大の違い?」
「それについては……ここで説明してもいいんですけど、海に行ったほうが早いです」
「海?」
「ここから歩いて十分くらいで海です。酔い覚ましに、ちょっと行ってみませんか?」
「行きます」
 夜の海。ロマンチックなシチュエーション。砂浜の上に横たわる彼女の妄想が目の前にチラついた。

 彼女の言葉通り、少し歩くと港が見えてきた。街頭の灯りに浮かんだ夜の埠頭をそぞろ歩く人影が、ちらほら見える。
 彼女のあとについて塀に挟まれた狭い道を抜けると、視界が一気にひらけた。
 水平線でふたつに分割された膨大な空間が、どこまでも闇で満たされている。赤と青と、二つの月が黒い海面に光の筋を伸ばしている。足元はずっと先まで続く砂浜だ。
 月に照らされた彼女の輪郭は半ば闇に溶け、彼女の瞳の引力が悪魔的といえるくらいに高まっていて、僕は必死で心の手綱を引っ張った。
 彼女は波打ち際まで歩いていくと、しゃがんだ。そばに行こうとすると、彼女は立ち上がり、両手に何かをすくって僕の前まで来た。彼女の手の中に、水が煌めいている。
「海の水です。味見してみて」
「え?舐めるの?」
「そう。ちょっとだけなら大丈夫。さあ」
 僕は前屈みになって、雫をこぼす彼女の両手の器の水をすすった。口になんともいえない味わいが広がった。
「甘い!砂糖が入ってるみたいだ」
 思わず叫んだ。彼女はにっこり笑うと、両手をひらいて滴り落ちる雫を眺めながら
「地球の方には、この水は甘く感じられるみたいですね。私たちは感じないんですけど。この星の生物は、地球系列と進化の仕方が似ていて、もともとは海に住んでいたと言われてます。海の水に含まれている成分は、この星のほとんど全ての生き物の体液にも含まれているの。だから、地球系列の人たちの舌には、ここの生き物の肉が、甘く感じられる……」
 言いながら彼女は僕に近づき、正面から身体を密着させてきた。背中に濡れた両手がまわされる感触。至近距離からたちのぼるヴァニラのような甘く魅惑的な香り。意識が蕩けて思考が麻痺する。
「私の汗も、舌も。隅から隅まであなたには甘い……ねえ、味見してみたくない?」
 僕は磁石に引き寄せられるように、彼女に顔を寄せて唇を重ねた。
 そのキスは文字通り、蜜のように甘かった。キスだけじゃない、彼女の頭の先からつま先まで柔らかな全てが蜂蜜のように甘く……その肌に、何度も歯を立てそうになってどうにか堪える。これは性欲なのか、食欲なのか、自分でもわからないまま翻弄されて、


 ……どろどろした蜂蜜のなかを懸命に泳いでいる夢をみて、目が覚めた。
 早朝のうす青い光に満たされた部屋と、ベッドサイドに立つ下着姿の彼女。僕は手を伸ばそうとして、両手両足が固定されていることに気がついた。なにこれプレイ?SATOさん、もしやSM系のひと?
「AKIさん、おはよう」
 彼女は僕を見下ろして嫣然と笑みを浮かべ、小さなリキュールグラスを口元に持っていくと、なかの黒い液体を少し舐めた。唇についた赤い色を蠢く舌が舐めとって、ふう、とセクシーなため息をつく。「はあ、美味しい……」うっとりした呟き。それから首を傾げて「なんとも言えない旨味があるよねぇ。ほんと地球系の味、さいこう」
 傍らに赤く染まった注射器があった。僕は彼女が味わった液体の正体に思い至ると冷たい衝撃で総毛立った。
──僕の血だ。
 両手両足を必死に動かそうとするが、ぎっちり縛りつけられていて、ベッドのフレームを少しガタつかせることしかできない。
「SATOさん、なんなんだよこれ、いったい」
 彼女は聖母のような優しげな眼差しで僕を見つめている。
「AKIさん、安心して。血の一滴、毛の一本まで余さず使うから。地球産の生物って、この宙域ですっごく人気の食材なんだよ。特にあなたは味が良い、私の目に狂いはなかった」
「食材!?」
「あなたの血も肉も、丁寧に処理して最高価格で売ってあげるからね。うちの会社、食品業界に進出するんだって。富裕層向けの食材として、地球産を探してるところ。あなたは元々そのために雇われたの。私は目利き役というわけ。断言するわ、あなたは最高の食材になれる」
 そんな、嘘だろ。こんなの悪い夢だ。悪夢から醒めないと、はやく。恐怖か、裏切りが悲しいのか、たぶん両方だろう、涙が出てきた。彼女は目を見張って、涙を指で拭うと口元に持っていった。ピンク色の舌がひらめいて、美しい眉をひそめる。
「はああ、なんて味……。涙も美味しいね、あなた」
 ようやく気がついた。僕は裏切られたんじゃない。彼女の眼差しにこもる欲望を勘違いしていただけだ。
 愛欲ではなく、食欲……。
 途端に。これは捕食者を前にした被捕食者の本能なのか。自分のなかの奥深くで何かが切り替わり、鋭い恐怖が昏い甘さに塗り替えられてゆく感覚に呆然とする。こんな綺麗な人が僕を欲しがり、僕を味わってうっとりしているなんて。嬉しい。叶うなら今すぐにでもこの女に食べられたい。頭の先からつま先までじっくり味わいながら。
「食べて……」
 僕の言葉に、彼女の喉が唾を飲み込んでごくりと動くのを見届けて、陶然と目を閉じた。

──ああ。


(完)

#タイムオーバー

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