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空中庭園【短編小説】

 ぐんぐん登る四角いガラスのエレベーター。細い枠組みだけで繋がった上下左右すっかり透明な箱に座り込んで、私は外の景色に見入る。

 道路上を動くミニカーみたいな車と家々の判別がつかなくなり、道路は街中に埋もれてくっきりと河川が浮かび上がり、やがてそれも、薄い雲間に見える青みがかった灰色の中に滲んでゆき、白い雲が増えていって、いつしか下は完全に雲で覆われた。
 地平線は白から薄い水色を経てくすんだブルーグレーになり、さらに上は鈍い紺色で、目を凝らすと、はるか上空に巨大な惑星のような、逆さの円弧がかすかに見える。あれは月だろうか、それとも知らない惑星だろうか、と考えるうち、出し抜けに景色は黒い壁に遮られて何も見えなくなる。
 そしてまた突然、明るくなると、ガクンという衝撃と共にガラスの箱は停止した。ガラス箱の扉が両側にスライドし、私は外の世界に足を踏み出した。地面は所々に雑草の生えた石畳で、白い霧が流れている。

 荒れ果てた廃墟。元は西洋風の庭園だったらしく、壊れた石造りの白い柱や壁の残骸の隙間を、枯れた植物が埋めるように広がっている。
 10メートルほど先は白く閉ざされて視界がきかない。私は構わず歩き続けた。動きにつれて撹拌された霧が渦を巻く。やがて前方のはるか彼方に光の筋が見えた。
 私はゆっくりと、庭園の端まで近づいた。地面が途切れて、目が眩むような断崖になっている。距離感も定かでない、下に広がる白い雲海の先。霧のなかに山水画のような、黒い山並みが見えた。
 山の連なりは水平線のあたりで青く染まっている。その上空の雲が途切れ、青い光が差し込んでいるのだ。光のすぐ下には、山に囲まれた海が、青い宝石のようにきらめいている。

 私は乗ってきたエレベーターのほうを振り返った。小さなガラスの箱は、霧にけぶる廃墟の中に、かろうじてまだ見える。──遠くまで来たな、と思った。
 もう一度、乗り込むこともできるだろう。でも、降りた先にはもう、私の居場所はない。元いた世界から離れたくない、そう思うと同時に、離れることだけが正しいのだと知っている。
 私はここに留まるしかない。この世の終わりまで、ひとりで。

✳︎✳︎✳︎

 通勤電車の中で何とか座席を確保し、ひと息ついたところでスマホを手に取った。Twitterをチェックする。
「@Setsuna_honjyo」というアカウントは、こう呟いていた。

“胃に染みる 夜明けのコーヒー 胃が痛い“

 顔がにやけそうになり、慌てて口元を引き締める。ああ本庄ほんじょうさん、昨日も泊まりかあ大変だ。けど自業自得だろう。
 彼が片っ端から仕事を引き受けている理由はこの時期は家に帰りたくないからで、それは六年前のこの季節に離婚したからで、離婚理由は奥さんの浮気が原因らしく、元奥さんはすでに次の男と暮らしているらしい……ちなみに前職は有名代理店の営業……ということを、うちの部署の女性社員は全員知っているのだった。
 なんでかって、本庄さんのTwitterのアカウントが特定されているから。特定する奴が勿論、悪いけど、割と珍しい名前をそのままアカウント名に使う方も問題だと思う。そして、身近に行動を観察できる人間が、ツイートと本人を照らし合わせて、ああやっぱりこのアカウント……と確信できるほど、馬鹿正直に自分の行動を呟いちゃうのも、問題だ。
 でも本庄さんでなければ、ここまで女性社員の話題にならなかったと思う。要するに、彼は目立つのだ。同世代の社員の中でも本庄さんは抜群に仕事ができるし、イケメンでコミュ力があって上にも下にも受けがいい。難を言えば駄洒落が好きなことと、少しだらしがないことくらい。なので彼のポエムは、うちの部署の女子の貴重な癒しであり、元気を貰えるネタだった。もちろん本人は、自分の詩作とプライベートがそうやって消費されている事実を知らない。


✳︎✳︎✳︎

「本庄さーん、デザイナーさんからの納品、チェック終わったんでー、チームのフォルダに全部入れました。組み込み、お願いします」
 私は本庄さんに呼びかけた。本庄さんは、顎の無精髭を骨ばった左手でいじりながら「あいよお」と返事をし、ぐったりした表情で椅子の背にもたれた。平社員のより高価いオフィスチェアが軋んだ。こちらを眺める彼の目は充血している。
永久とわちゃん、お疲れ。今日はもういーよー……」
「了解ですけど、本庄さんもお帰りください。で、ご自分と服を洗ってください。チームのみんなの精神衛生のためにも」
「えー俺が会社に居続けることが、そんなに嫌なの、みんな?」
 彼は首筋を揉むと、うっそりと周りを見渡した。周りの若い子たち……高畑くん、みのりちゃん、笑子しょうこさん……は、コクコクと小さく頷いた。高畑くんが、言いづらそうに口を開いた。
「あの、すれ違いざまに、その……に、臭うっていうか」
「マジで!?」
 本庄さんはくんくんと自分の臭いを嗅いだ。
「タバコの匂いしかしないじゃん」
 みのりちゃんは苦笑して「そういうの自分じゃわかんないもんですよ」と言い、私と目を見交わした。私ははっきりと「臭いってことです。おっさん臭です。俺もがんばるお前らも頑張れって自分から残業してみせる上司とか最悪なんで。ほんとお願いします」
「容赦ないなあ、若いムスメは」
 苦笑いした本庄さんに、高畑くんが話しかけたのを機に、私はそれぞれの机に置いてあるマグカップを回収して、給湯室に入った。みのりちゃんも後を追ってくる。マグを洗い始めたところで、みのりちゃんが耳元で囁いた。
「本庄さん、なんかガムシャラって感じですよねぇ。心の隙間を仕事で埋めてる、みたいな。あー慰めてあげたーい」
「慰めてあげれば?」
「いいですかねえ。本庄さんならバツイチでもありっていうか。やっぱ男は三十半ばあたりが一番良くないですか?彼氏から乗り換えちゃおうかな。けど、同じ職場でデキちゃったら、別れるってなった時めんどくさいかあ」
 みのりちゃんはゴミ箱からゴミ袋を取り出して袋の入り口を縛り、新しい袋を取り出してゴミ箱にセットした。みのりちゃんの言葉は、少なからず、この会社の独身女性社員の心の裡を代弁しているんだろうなと思う。

 給湯室を出たところで、采地さいちにバッタリ会ってギョッとした。采地は「永久とわちゃん」と、微笑もうとして失敗したような表情を顔に浮かべた。私は唾を飲み込み、意識して口角を上げた。
「来る予定あったんですか?知らなかった」
「今日は二課の仕事だから。でもついでに、永久、さんの顔見れるかなと思って、このフロアに来て。今日はもう上がり?」
「今日は……」
 私が答えようとした時、後ろから来たみのりちゃんが、采地を見て明るい声を上げた。
「采地さん!えーなんか久しぶりじゃないですか?あ、永久先輩もう上がりですよ、そうかあ、今日デートだったんですね?」
 私は采地と顔を見合わせ、すぐに目を逸らした。そしてパチンと手を叩いた。
「あっ!そうだ、あの案件、忘れてた!采地、さん。ごめん、先に行っててくれる?」
 キョトンとするみのりちゃんを尻目に、自分の席の方に戻ろうとした私の腕を采地が取った。顔がこわばっている。
「永久ちゃん、来て。時間取らせないから」
「え、ちょっ」
 抗議しようとした私の腕を采地は強く掴むと引っ張った。普段は優しすぎるくらい優しい采地のこの強引さに、覚悟を決める。高畑くんと笑子さんが驚いた顔でこちらを見ているのを視界のはじで捉え、私は彼に引っ張られるまま、フロアを抜けた。どうやら屋上に行くつもりらしい。屋上は自販機とベンチと、喫煙スペースがある。屋上に入ったところで、私は自販機に半分隠れた喫煙スペースのベンチをチラッと見た。人の姿はなさそうだ。

 采地は腕を離し、私は彼と向かい合った。彼のこんな険しい顔は初めて見る。そこまで気持ちが乱れているんだと思うと、こんな時なのに、ほんの少しだけ嬉しかった。
「あのLINE、本気?いや本気だとしても『別れよう』ってひと言だけで、あとはLINEも電話も無視とか、一方的過ぎない?一体なに、どうして別れたいの」
 私は意識して、正面から彼の顔を見返すと冷静に答えた。
「理由なんてない。ただ、もう無理ってだけ」
「そんなの納得できるわけないって」
「逆に聞きたいんだけど?あなたは終わりにしたくないの、それとも納得したいだけなの」
 采地は何か言いかけ、顔を歪めて口をつぐんだ。……沈黙が彼の答え。心臓がぎゅっと痛くなった。なにこれ、誘導尋問ってやつじゃん。私は言って欲しかったのか『終わりにしたくない』って。バカか、無理に言わせてどうすんだ。私は大きく息をついた。落ち着け。
「じゃあはっきり言うよ、ほかに好きな人ができたのでっ。そんでその人と、今いい感じなんで、だから、もう──」
「…………」
「もう、LINE見ないし、答えないから。けど仕事はあくまで仕事として、ビジネスでのお付き合いはこれまで通りでお願いします。会社へのメールは普通に対応しますんで、じゃっ」
 一息に言葉を吐き出すと、私はその場を逃げ出した。
「永久ちゃん」
 背後から聞こえる采地の声は語尾が掠れて消えた。私は固く口を閉じて、歯を食いしばった。ここで泣くな。早く彼から離れろ。これ以上いると余計なことまで喋ってしまう。二人のこの先に重いナニカを背負わせてはならない。


✳︎✳︎✳︎


 最寄り駅近くのスーパーで買い物するころになってようやく、気持ちが落ち着いた。スマホに手が伸びそうになるのを堪えた。采地からのLINEを外で不用意に見るのは危ない。やっと静まった気持ちがまた乱れてしまう。
 食材を買い込んで、帰途につく。今日は久々に煮込み料理にしよう。コーンクリームとソーセージのシチューにしようかな。なんか胃に優しくて力のつく料理が食べたい。

 シチューができると同時に、妹の二三ふみが帰ってきた。私は妹と二人暮らしで、二三は幼稚園の先生をしている、優しくてよく気がつく自慢の妹だ。先生は天職だと思う。けど、穏やかで気が回る二三は、しんどい事も多そうだった。
「ただいま。ねえお姉ちゃん、これ見て。表紙。采地さんじゃない?」
 二三は鞄を居間に放り出すなり、嬉しそうに雑誌を持ってキッチンに入って来た。采地が表紙を担当している小説の作家の十周年記念企画、と銘打たれていて、雲間から射した青い光の中に、黒いスーツを着て白い羽根を広げ、廃墟に立つ天使が描かれている。ふと、今朝みた夢の情景が浮かんだ。廃墟にさす青い光と彼方に見える海。この絵からのイメージかもしれない……あそこには天使はいなかったけど。
「あー『サラリーマンは天使の夢を見る』。へえ、文庫本と違って、雑誌で見ると印象変わるなあ」
「これ描いてる人が彼氏とか、お姉ちゃん鼻が高いでしょ。私も同僚に自慢しちゃった。采地さん、ほんと凄いね」
「まあ、それはいいから。手を洗って来なよ。シチュー食べよ」
「美味しそう」
 二三は微笑み、雑誌の表紙に目を落とすと数秒間それを眺め、絵の天使をそっと撫でると、大事そうに抱きかかえて部屋に入って行った。私はその背中を見送った。

 食事とお風呂のあと。テレビの前の座卓で、二人でお茶を飲んでいる時、私は二三に切り出してみた。
「あのさ……采地と別れることにした」
 二三の顔にポカンとした表情が浮かび、ついで衝撃が広がる。目を見開き、身を乗り出して私の両腕を掴んだ。座卓のカップが揺れて、お茶が少しこぼれる。
「え、え!?うそ、なんで。何があったの?喧嘩?」
「落ち着いて。喧嘩じゃない」
「だって……そんな。待ってよ……どうして」
「んーなんか、飽きたっていうか。優しすぎて物足りなくなったっていうか。こう、一緒に居てもつまんないんだよね。やっぱ合わないかなーって」
 二三はショックを受けた顔をした。私は言わなくてもいいことを言わないように、心の手綱を引き締める。
「しん……しんじらんない!お姉ちゃんいつも言ってたじゃん、今までの彼氏と違って、心から大事にしようと思える相手だって」
「優しいのも過ぎると、刺激なさ過ぎて飽きちゃうんだって。なんか早く次を探した方が、お互い時間を無駄にせずに済むかなーみたいな」
「ね、もう一度考えてみなよ。仕事とか色々、辛いこと多いかもしれないけど。落ち着いたら考えも変わるから。あっさり別れたりしちゃダメだよ」
「何度も考えたよ」
「……お姉ちゃん、どうかしてる!あんなにいい人、もう二度とあらわれないから!ぜったい後悔するから!」
「しない」私は静かに断言した。「後悔はしない」
 彼女は目を伏せ、両手を私の腕から放して俯いた。そのまま彫像のように固まる。妹を心配する心と、冷静に観察する心が私の中でせめぎ合う。私はそれを踏みつけて、ポケットから小さな緑色の封筒を出した。二三の目の前のテーブルに置く。
「それ、前に采地からもらってた。ほらさっきの雑誌の企画で、個展やるって。中に場所書いてあるから。私は行く気ないからさ、二三、行って来たら?さっきの絵の原画とか観れるよ。丸ついてる日は、采地、現場に居る日だって」
 二三は封筒を取り上げ、中身を取り出した。その顔が辛そうに歪み、視線が私を探るように見た。
「お姉ちゃん……」
 私は二三の視線を振り切るように「もう寝るね、今日は疲れたから。お休み」と立ち上がった。

 その日以来、二三とは会話するものの、お互いに目を合わせることができない。

 采地と付き合い出して、二年目になる。彼は、会社が外注先として抱えるフリーデザイナーのひとりだった。とある企画の打ち上げで意気投合したのがキッカケで親しくなり、仕事以外でも時々、LINEをやりとりするようになり、遊び友達を経て付き合いはじめた。二三と私は個人的に采地の絵のファンだったので、時々三人でご飯を食べたり、美術館や水族館に行ったりした。燦然と光り輝く、完璧な日々の完璧な幸せ。
 二三はよく「采地さんが義兄さんになったら嬉しいなあ」と言っていた。去年の私の誕生日は、二人でサプライズパーティーを企画してくれたこともあった。その頃が、たぶん私の人生の、幸せのピークだった。ピークっていうのは過ぎたからこそ分かるもんなんだね。


✳︎✳︎✳︎

 その週の土曜日。
 私はショッピングモールに併設された、コーヒーショップのガラス越しに、とある建物を見張っていた。賑やかな通り沿いにある小さなギャラリーの入り口で、訪れた人々と楽しそうに話をしている采地の姿が見える。今、あそこでは彼の個展が開催されていて、週末ということもあり、ファンや関係者の訪問が絶えない様子だった。
 二三に教えた“丸のついた日”は、今日だった。采地の後からギャラリーのオーナーも出てきて、客と話した後に、二人並んで帰る客を見送っている。
 私は、オーナーと一緒にギャラリーに戻る采地の姿を眺めながら考えていた。彼女が来ても来なくても、本当は関係ないはずだ。この間、別れを告げたんだから。だからこれは、二人でいるところを確認して、絶望して、ちゃんと恋を殺すためだ。

 ──でも。
 彼女が来なかったら……

 右肘を軽く突かれて、そちらを見ると、男が立っていた。私は驚きのあまり息を詰まらせた。
「本庄さん!?」
「やっぱ永久ちゃん。よっ、何してんの?」
 そこに立っていたのは、本庄さんだった。職場ではオフィスカジュアルで、シャツにジャケット姿の彼が、今日は白いTシャツに長めのカーディガンとジーンズというシンプルな出立だった。こざっぱりして見えるのは、いつもの無精髭が綺麗に剃られているからだろう。
「本庄さんこそ……何でここに」
「俺は采地くんの陣中見舞いに。彼の個展、近くでしょ。ここで土産買ってた」
と、片手を上げてみせた。細長い紙袋の中に酒瓶が収まっている。個展と聞いて咄嗟に、私はギャラリーの方に視線を走らせた。そして、私の目は通りを歩いてくる女性の姿を捉えた。
 二三だ。予想していたはずなのに、ズシリと胃が重くなったように感じた。淡いグリーンのワンピースが風にふわりと揺れる。いつか采地が色を誉めたことがあったっけ。二三はギャラリーの入り口に近づくと、そこで立ち止まった。ギャラリーのガラス扉の前で、おそるおそる中を伺うそぶり。それから突然、身を翻してその場から歩み去ろうとした。ギャラリーのドアが開いて、采地が飛び出してきた。采地は二三に何か呼びかけて駆け寄る。彼女は足を止め、二人は数秒間そこで話した後、一緒にギャラリーに入って行った。

 私は大きく息をついて、カウンターに突っ伏した。心がどんどん重くなって、ここの床を突き抜けて奈落へと落ちていくような感覚。はい終わり。ジ・エンド。本庄さんの声が遠く聞こえた。
「……その様子だと、入って行った女の子は采地くんとなんかワケあり、とか?」
「…………」
「“他に好きなひとができた”のは、彼の方だった?」
 私は頭を伏せたまま、少し顔をずらして本庄さんを横目で睨んだ。彼は肩をすくめ「屋上でね」と短く言った。「なんで君は、あんな嘘を」
 私は腹が立ってきた。わかってんならどっかいってくんないか、空気読めよ、おっさん。そのまま黙っていると、本庄さんは薄笑いを浮かべた。
「さっさと失せろってか。じゃあ部外者の俺は、空気を読まずに、土産を渡しに行こうかな」
 その場を離れようとする本庄さんの腕を慌てて掴んだ。本庄さんは首を傾げた。
「いつもの永久ちゃんなら、浮気現場に踏み込んで『正体見たり枯れ尾花』ってな場面じゃない?」
「いいんですよ。もういいんです」
「何がよ。全然良くないって顔して」
「…………」
 ふと、本庄さんは視線を窓の向こうに飛ばした。私もつられてギャラリーの方を見た。
 采地と二三が出てきたところだった。采地はリュックを背負い、客からの土産なのか紙袋を下げていた。采地は出入り口でオーナーと言葉を交わした後、二三と連れ立って通りを歩きはじめた。
 隣を歩く二三が人を避けた際に、彼は咄嗟に背中に手をまわした。そして躊躇ったのちに、その手をゆっくりと下に下ろした。二人は並んで人混みの中を遠ざかっていった。
 本庄さんは大きくため息をついた。
「なあ永久ちゃん……前に話した、美味しい焼き鳥の店ってこっから近いんだけどさ。せっかくだし飲みに行かない?奢るから」
 私は彼から手を離した。
 確かに、アルコールが必要だ。

✳︎✳︎✳︎


「どうして神は、こうも僕らをお試しになるのか」

 ポツリともれた弟の唐突な言葉に、俺は戸惑った。何だ、いきなり、神?
 その時、俺たちは遊覧船に乗っていて、あたり一面は青い湖面と空、強い風が服をはためかせていた。
 それまでの会話の文脈は「俺の仕事、広告代理店の営業はいかにハードな綱渡りか」だったから、俺は違和感を覚えつつも「俺を試してるのは神じゃなくてクソ上司だけどな」と答えた。弟──時生ときおは視線を俺に移して僅かに微笑んだ。そこへ、飲み物を買いに行ったはるかが戻ってきて「刹那せつな、お待たせ。Asahiしかなかった。いいよね?」とビールの缶を渡してくれた。俺たちは礼を言ってそれを受け取り、向かい合って缶を開けた。彼女は「時生さん、就職おめでとう」と言い時生は「兄ちゃん、義姉さん。二人ともありがとう」と答え、缶を打ち合わせて乾杯した。

 そう、あの言葉を口にしたとき
 ──彼は妻の遥を見ていたのだ。


 物心ついた頃から既に薄々、気づいていた。幼い子供が気づく程に、親の愛は一方的に俺だけに注がれていた。
 俺……本庄刹那ほんじょうせつなは、自慢じゃないけどガキのころ、物事をこなすのに苦労したおぼえがない。無意識のうちに周りの大人を観察して、この世を生きる上でベターな選択肢はこれ、と学び取って実践できる子供だったんだろう。幸い見た目もまあまあ良かった。けれど四つ下の弟は、見た目こそ俺に似ていたけれど、それ以外は正反対と言ってもよかった。物事に取り組む時、人一倍時間がかかり失敗も多くて、何をやっても微妙に出来が悪かった。いつもすごく頑張っていたにも関わらず。
 生まれて数年の子供の話だ。その差はただの、生まれつきの資質……つまり“運”だ。俺は運が良く、彼はそうでなかった。だが親は弟への失望を隠そうともせず、ことあるごとに弟と俺を比べて彼を貶めた。

 学年があがり、親以外の大人を間近に見るようになってようやく、俺は自分の親が弟にいかにひどい仕打ちをしているか気づいた。そして弟がいないところで何度も両親に訴えた。俺たちを平等に扱ってくれ。弟が上手くできないからといって、失望しないでくれ。それが難しいなら、せめて隠す努力をするべきだと。
 母は言った「しょうがないでしょ。親も人間なんだから。出来のいい子供は可愛いしそうでない子は見ててイライラするもんよ」と。父の意見も似たようなものだった。そこで俺は、自分の親が普通と違う、愛情に格差をつけることは心の虐待なのに、彼らはそれを自覚しているにもかかわらず改める気がない、と思い知った。いわゆる毒親というやつだ。

 弟も小学校に入る頃には、どう頑張っても自分は兄のようには……いやそれどころか世間一般の基準並みにも……物事をこなせない、と自覚していて、それを子供離れした達観で受け入れているようなところがあった。
 そんな過酷な環境下にも関わらず、彼はいつも穏やかで、失敗を周りの子供に笑われても決して怒らず、親に反抗もせず静かに、でも寂しそうに、家の隅っこで大人しくしていた。その分、俺の方が荒れて、常に怒り狂い、親や教師を罵倒し暴れて手を焼かせた。心の隅で、俺に失望した親の愛が時生に向くことを期待しながら。だがそれは逆効果だった。俺が荒れると、両親はそのストレスを弟にぶつけた。俺は地域の底辺高に入ったあたりで、反抗をピタリとやめた。努力の方向を変えることにしたのだ。俺が独立して金を稼ぎ、弟を親から遠ざける。それしかない。


✳︎✳︎✳︎


 采地くんと一緒にいた女の子は、彼の恋人の妹だった。

 そしてその恋人(いや、元恋人か)は今、鶏の油と炭火の匂いと喧騒に包まれたカウンター席で、隣に座ってビールを飲んでいる。
 妹、と聞いて微かに嫌な予感がしたけど、永久ちゃんには愚痴る相手と酒が必要そうだった。職場での彼女はクールで仕事ができて、自分の感情をあまり外に出さないタイプ。職場の飲み会でももっぱら後輩の世話を焼いたり上司にちくりと皮肉を言うくらいで、悪ノリすることもなくさっさと帰る。なので、入社以来の付き合いにも関わらず、こんな彼女は初めて見た。永久ちゃんはコップをカウンターに置くと、手で口を覆って酒臭いゲップをした。

「浮気と言えるかどうか……だって二人とも、誰かを押し退けて自分の幸せを、ってタイプじゃないし。けど、妹とは長い付き合いなんで分かるんすよ。会話にやたらと『采地さん』ってワードが入って来るし。で、采地の方も同じで。『二三ちゃんは、二三ちゃんが』って。お互い遠くからそうっと見つめあってる感じ。脇で見ててなーんか、切なくなって来ちゃって。さっさとイチ抜けしちゃいました。まあ正直言って、大して好きでもなかったし。私が引っ込めば二人は幸せになってハッピーエンド、それがベストかなって」
「ふうん」
 俺は彼女のコップにビールを注ぐと、お猪口の日本酒を舐めた。永久ちゃんは据わった目で俺をじっと見てきた。
「さっきから私ばっかしゃべってますね。ねえ本庄さん、うちの会社に来たのって奥さんの離婚と関係あるんすか?」
「離婚のこと知ってんだ」
「知ってますよ。あとおー離婚は奥さんの浮気が原因らしいとかー…最近のマイブームはコンビーフをつまみにトマトジュースと胡椒と日本酒をカクテルにして飲むこと……リコピンとタンパク質同時摂取、とか何とか」
 俺はギョッとした。「何で知ってんの?」
 永久ちゃんは、あははと笑った。
「うちの部署の女子は全員知ってますう。本庄さんのツイッターのアカウント、特定されてるんで。こないだの俳句も傑作でした。『夜明けのコーヒー胃がいたいー』」
「はあ!?」
「あと何だっけー……『会議中 ケツが痒くて 聞き逃す』とか『コンビーフ それと醤油と マヨネーズ』いや、どんだけコンビーフ大好き」
 永久ちゃんは爆笑した。ヒステリックな笑いはなかなか収まらない。周りの客がチラッとこちらを見たのが視界に入る。そろそろ酒のやめどきかもしれない。
「やべえ、別のアカウント作らないと」
「いやこれマジで言うんすけど、本庄さんのポエム癒しです!うちの部署の女子のために、その垢とっておいて下さいーお願いします。私、最近はそれだけが心の支えなんです。大袈裟じゃなく」
「ええ〜…」
 永久ちゃんは、笑いすぎて出てきた涙を拭うと、両手を合わせて拝んできた。顔は笑っていたが目には必死な懇願の色が浮かんでいた。微かな胸の痛み。嫌な予感が強まる。

✳︎✳︎✳︎


 時生と遥が失踪したとき、残された離婚届と指輪を見て呆然としていた俺をよそに、騒ぎ立てていたのは親たちだった。
 妻の親側からすれば、将来有望な男に嫁がせて、ひと安心と思ったのに、低脳な弟が娘を誘惑して拐かした、ということになり、俺の親側は、忙しい夫への欲求不満を拗らせて弟を誘惑したのは妻の方で、息子が被害者だ、ということになっていた。

 とりあえず俺は、仕事が手につかなくなった。広告代理店を休職し、罵り合う親どもを放っておいて、ひとりで旅に出た。時生の就職祝いに、三人で来た箱根へ。そして乾杯した遊覧船に乗った。シーズンオフの平日、遊覧船は空いていた。
 船の上で水面を眺めながら、俺は自分の過去を思い返した。妻の遥のこと。弟の時生のこと。


 一刻も早く独立して弟を親から保護する、と覚悟を決めた後、俺は寝る間も惜しむ猛勉強の末、SSランクの大学に現役合格した。そして入学するとすぐに、有力な就職先にいる卒業生と交流できるサークルに入って、戦略を練った。目的は稼げる会社に入ること。付き合う人間も、使えるかどうかで判断した。
 当然のことだが底辺高と大学は天と地ほど違う世界だった。一番違うのは学力でも教師の質でもない。生徒の人間性だ。中でも優秀で要領の良い奴らは、気持ちいいくらいに自己中だった。友達も女もゼミも、選ぶ基準は“有益かどうか”。稼ぐ才能があるやつは例外なくナルシストだ。

 遥とは、特に期待もなく数合わせで参加した合コンで知り合った。我先にとアピールしてくる華やかな女たちの中でいかにも居心地悪そうに、端っこにひっそりといる地味な女。この歳で、既にいろんなものを諦めているような。ひと目で何かを感じた。俺から粘って連絡先を聞き出し、三回目に会った時に告白し、付き合い始めた。有益かどうかは一瞬も考えなかった。彼女と居る時は人生で初めて、親のことも弟のことも頭から消えた。

 俺が就職を決めた後、卒業と同時に呼び寄せる予定だった時生は、大学に進学せずに働き始めた。彼が自力で独立を果たしたことが、大学進学前の予定と違ったが、お陰で結婚を早めることができたので、次の年に結婚した。時生は俺の家の近くにアパートを借り、休みの日は三人で過ごすことも多かった。遥と弟は纏う空気が似ていて、二人の仲が良いことが嬉しかった。燦然とまぶしく輝く完璧な日々。──たぶんあれが、俺の人生の幸せのピークだ。

 でも、“完璧”に見えていたのは俺だけだったのかもしれない。

 二人が俺の人生から去ったことで、俺は生きる目標と愛する人間をいっぺんに失ったが、当初の衝撃が去ると、後に残ったのは裏切られた怒りでも、奪われた憎悪でもなく、空虚な悲しみだった。何かが俺の中からごっそり喪われて深い空洞が残った。

 ことが露見してからずっと、涙は一滴も出なかった。元栓が詰まったように。ただ時々、胸が苦しくて動けなくなることがある。

“おいていかれた。みんな──俺をおいて──いってしまった”


 箱根から戻ると会社を正式に辞めた。離婚届を出し、購入してまもないマンションを売ってアパートに引っ越した。それから一年間、貯金を食い潰しながら、人生ではじめての目標も目的もない日々をぼんやり過ごした後、今の会社に入った。

✳︎✳︎✳︎


 深夜の小さな公園には俺たちの他に人影はなくて、頼りない街灯の灯りに照らされた永久ちゃんの顔は夜目にも真っ青だった。あきらかに飲み過ぎだ。彼女は片手に持ったバッグを振り回し、上を向いてその場でぐるぐる回った。そしてふらふらとその場にへたり込んだ。青色のスカートが砂まみれになる。

 俺は彼女の2メートル手前で立ち止まったまま見下ろし、カーディガンのポケットに両手を突っ込んでどうしたものかと考えた。飲み始めた時間が早かったせいで、まだ終電をギリギリ逃したくらいの時間帯だ。こっから数時間かけて歩いて帰るには酒を飲み過ぎたし、ここで夜明けを待つにも朝は遠すぎる。タクシーで帰るしかなさそうだった。飲みの金とタクシー代、結構痛い出費だけどしょうがない。交通費の半額は、来週のどこかで彼女に請求しよう。
 永久ちゃんは仰向けに寝転がった。黒いシャツの背中と真っ黒な髪の毛までもが砂にまみれる。そして空を見上げてにへっと笑った。
「天使が降りてきて、どっかに連れて行ってくんないかなぁ……」
 彼女は片手を夜空に伸ばした。俺も空を見上げた。都会の空は星が少ない。三日月が冴え冴えと輝いている。

「本庄さんのツイートって、ポエムとか飲み食いしたものとか、料理はいまだに慣れないとか、事実関係は呟くのに、心の動きみたいなのは呟かないですよね。みんな、心の叫びを誰かに聞いて欲しくて呟いてるのに」
 不意に、永久ちゃんが喋りかけてきた。俺は視線を彼女に戻した。
「ほんとにね。不幸中の幸いだった。心の叫びまで女子に共有されてたら気まずいどころじゃ済まないし」
「本庄さんて、本音言わないひとですよねー……そういうとこ、ちょっとだけ私に似てるかなって勝手に思ってたんすよ。私も自分語りはするくせに本音言わないタイプだから……口にも出さないし、心も無意識のうちに、あまり動かさないようにしちゃうっていうか。だからなのかな、すぐ、まーいっかどーでもってなるんです。何に対しても。手に入らなくても、まーいっかしょうがないって……」
「采地くんのことも、諦めついた?」
 永久ちゃんは、ふっと笑った。
「とっくに。だってしょうがないじゃないすか、心変わりは。心は縛り付けておけませんもん。好きな相手の心をどっかにしまっておけたらどんなに良いでしょうね。綺麗な箱に入れて鍵かけて、箱の鍵は、肌身離さず持ち歩くんです。でもって、一人の時にこっそり取り出して眺めて頬擦りするんです。私のもの、永遠に私だけのものだって」
「君がそうできないように、君の心も誰かにそうされない。そのほうがいいじゃん」
「……正論なんて求めてませんよ」
 永久ちゃんは上体を起こし、俺を睨んできた。
「奥さんの心、箱に入れることができたら、そうしたかったですか?」
 気持ちが少し揺らぐのを感じて、俺は眉間に皺を寄せた。
「君には関係ないだろ」
「奥さんの浮気相手って、本庄さんと仲が良かったひとだったんですか?」
「…………」
「どう感じました?奥さんがお相手とそういう仲だって分かった時」
「……もういいでしょ。帰ろうよ、タクシー拾って。今日のとこは俺が出すから。土曜日でよかっ」
 永久ちゃんは口元を手で押さえると、急に立ち上がり、公園の植え込みの方へと走っていった。そしてそこで屈んで、勢いよく嘔吐し始めた。俺はげんなりする。やれやれどういう罰ゲームだこりゃ。中途半端にお節介なんて焼くんじゃなかった。

 仕方なく彼女に歩み寄ると、派手に嘔吐し続け波打つ背中をさすった。吐瀉物の匂いがたちのぼり、息を止めると片手で鼻と口を覆う。
 胃の中身を吐き尽くしたのか、永久ちゃんはよろよろ後ろに下がると、口の周りを手で拭った。胸元は吐いたものの飛沫で汚れ、涙と鼻水で化粧が落ちて惨憺たる姿だ。俺はハンカチを差し出し、彼女はそれを広げて顔をゴシゴシとこすり「ああもおう、超さいあく〜…」と呟いた。顔がぐしゃっと潰れて涙が溢れ、本格的に泣き出した。
「……うううぅーいぐっふうううっは……ううぅ、ひとりにいっ、ひとりになっちゃったよおおおおー……」
 その悲痛な叫びは、俺の心臓をグサリと刺し貫いた。彼女のなきごえは胸を締めつけ、息苦しさに冷や汗がにじむ。俺は自分の胸元をぎゅっと掴んだ。
「やめろ……」
「……どっちがっいなくなって悲しいのかっ……っふっ、わかんない……彼と妹と、どっちが……ふ、たりが幸せに、良かったっておもってんです、それはほんとなの……ふううっ、うぅううぅううっ……けど、くるしい……すごくくるしい……」
「だまれよ」
「……いかないで……おいてかないでえ……ふうううっぐ、ふぐぅひっ……」



(どうして神は)
(こうも)

あのときの彼の顔。
死ぬほど苦しんでいた。
俺は、気がつかないふりを。

(僕らを)
(お試しになるのか)

まもってやりたかったんだ。
それはほんとうだったんだ。
でも。
どうして、ふたりはなにも、なにもいわずに。

……くるしい。


すごく くるしい。


✳︎✳︎✳︎


 気がつくと俺たちは相手の口内を貪りあっていた。ロマンティックさはカケラもない、ただ無我夢中で互いの飢えを満たそうとするようなガツガツして愛しさとかトキメキとかがまったくないキス。ただ気持ちはよかった。今までのキスの中で最高に気持ちいい。性的快感というより解放感的な気持ちよさ。

 ようやく口が離れ、口の周りが互いの唾液に塗れた状態で、至近距離で見つめ合ったとき、永久ちゃんが呟いた。
「なんで泣いてるんですか」

 俺は顔に手をやって、涙が流れていることに気がついた。


「……うええ、ゲロくせえ……いてっ」
 思わず呟いた直後に、永久ちゃんは俺の腹にパンチを見舞った。俺は匂いでちょっと口の中が気持ち悪くなって、彼女から離れると、水道の蛇口に駆け寄って蛇口を上に向け水を出し、口をゆすいだ。
 後ろから永久ちゃんの喚き声が聞こえてきた。
「シンジランないっ!女の子とキスした直後に口ゆすぐとかっ!てめえふざけんなよおっさん!キモいのはこっちだっての!」
「ええーひどいなあ」
 俺は笑いながら立ち上がった。
「セクハラ!強制わいせつ!キモいめちゃめちゃキモいっっ!!」
「結構ノリノリだったくせにぃ……けどまあ確かに、会社にバレたら、これ一発NG案件だわ。あららあ、困った困った」
「……会社から本庄さんがいなくなるのは、困ります」
 意識が現実に戻ってきたのか、永久ちゃんがいつものクールな表情に戻って言った。そして水道の蛇口にかがみ込むと、水で口をゆすぎ始めた。俺は苦笑した。
「確かに、キスの直後にそれは、ちょっと傷つくな」
 永久ちゃんは立ち上がると、指で口元を拭った。
「ゲロ味が気持ち悪かっただけです。キスがやだったとかじゃないです」
「気を遣ってくれてありがとう」
 永久ちゃんは、俺の顔を探るように見た。
「なんで……したんですか?」

 俺は彼女の顔をしげしげと眺めて、軽く息をついた。
 俺の中の空洞。少し小さくなった気もする。けど、これが全部埋まることは無いだろう、死ぬまで。失ったものは大きく、二度とかえらない。ただ、誰かが側にいてくれたら、少しはマシだ。穴を完全に塞ぐことはできなくても、ひとひとり分は、吹き抜ける風を防げるかもしれない。人生なんてきっとそういうもんなんだろう。誰もが痛みを抱え、それでも何とか寄り添って、生きていくしかないんだろう。

「……俺と付き合ってくれたら、教える」
「ハア?」
「だって付き合っちゃえば、さっきのあれ、セクハラになんないじゃん」
「マジでふざけんなよ、おっさん」
「え、そういう流れじゃない?俺、わりとうまいよセックス」
 永久ちゃんは俺のすぐ目の前まで歩いてくると、腕を組んだ。ニッと笑う。

「ほんとマジでキモすぎ」



✳︎✳︎✳︎



 私は白い霧がたなびく風を受け、廃墟の縁の崖から、雲海の向こう側の青い光と、輝く海を見つめた。
 ああ、これは、こないだの夢の続きだろう。続きものの夢なんて初めてだなあ、けどあそこには行けそうにないなあ、どうしたもんか。などと考えながら、腕を組む。

 突然、高らかにファンファーレが響き渡った。私はギョッとして周りを見回した。
「こっち、こっち!」
 声が上から降ってきた。見上げると、白い雲が割れて、金色の光の中を降りてくる、黒いスーツの男が目に入った。彼は大きな白い羽根を数回、羽ばたかせて、優雅な動きで私の隣に舞い降りた。
 男は決めポーズを作ると、厳かな調子で言った。
「本庄刹那、けん、ざん」
「……」
「あれ?反応薄くない?待たせたな、の方がよかった?」
「何してんすか、人の夢の中で」
「もちろん、君を迎えに来たんだけど」
「え。マジですか」
「うん。だってここでずっと一人きりは、寂しいでしょ?」
「いやまあ、そうなんですけど。本庄さん、本物の天使なんですか?」
 黒いスーツ姿の本庄さんは、芝居がかった動きで、顎に手をあてて、考え込む仕草をした。妙に演出がベタな感じなのは、たぶん、私のせいなんだろう。
「本物か、と訊かれると……天使なら民草みんなを平等に救うもんなんだろーけど……俺が救えるのはせいぜい、ひとりだな」
「変なところでリアルですね」
 天使の本庄さんは、ニヤリと笑った。
「だからまあ、俺は君だけの天使……ってことでどう?」
「いちいちキモいっすね」

 彼は笑って手を差しだした。 
 私はちょっとだけ考えるふりをした。

 そして、手を取った。

 天使の翼がバサリと広がって、浮遊感が私を包んだ。風が服の中を暴れ回る感覚に思わず笑ってしまう。私たちの身体は浮かびあがった。私は自分がいた場所を見下ろした。白い霧に囲まれた廃墟……空中庭園……の真ん中にぽつんと小さな四角いガラスの箱が見える。それはぐんぐん小さくなってゆく。

 本庄さんは私の手をぎゅっと握って微笑んだ。私も握り返した。温かい手だな、そう感じると妙に照れくさくなって、でもずっと離したくない、と思った。夢なのにリアルだ。
 ぐうん、と空気が抵抗を増して、私たちは、彼方に見える海に向かって、風をきって飛び始めた。


(完)


※続編はこちらです!↓
本庄の心情、彼の過去。お読みいただけたら嬉しい😊


ネムキリスペクト。今回のお題は…………

エレベーター!!

…です。
うーん、あまりうまく使えなかったかな😅
長くなっちゃいました。すみません。

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