『オトナ帝国』と、日常への恐怖
クレヨンしんちゃんについて考えていて、
思い出して、
なるほどと気づいたこと。
いつかどこか、
岡田斗司夫とかで確か見聞きしたことがきっかけで感じたこと。
普段はしんのすけが尻を出したり
オトナたちの痛いところを突くことを言ったりして、
「ルールに縛られない、
自由気ままに生きるしんのすけが、
オトナたちの暗黙の了解とか
ルール・常識からはみ出して、一本とる」
ことに読者が痛快さを感じるんだけど、
『オトナ帝国』ではこの図が逆になっていて、
いつもはしんのすけに
一本取られているオトナたちが、
「自らオトナでいることをやめて、
ルールや義務、暗黙の了解を
自分から放棄して、
しんのすけや子どもたちを
置き去りにして、
自由気ままに生き始める」んだけど、
つまり、
ルールや暗黙の了解に縛られない立場、
「子ども」の象徴である
しんのすけに対して、
オトナたちが自らオトナであるという
不利な立場、束縛を放棄して
「子どもたち」に逆襲するという構図になっていて、
オトナたちは昭和の子どもに退行するんだけど、
映画の序盤で、
ひろしとみさえがある日突然、
「父、母」という役割、義務を放棄して、
しんのすけを置き去りにして
テーマパークに行ってしまうんだけど、
自分は幼い頃にこれを見ていて、
ものすごく怖かった。
みさえが晩御飯を作らず、
お腹を空かせたしんのすけとひまわりに
ネギを投げて、
すごく冷たく見捨てる感じで一瞥して
家を出るんだけど、
今思うと、
これはクレヨンしんちゃんの歴代映画の中でも
異様というか、
「育児放棄」または根本的に、
「自分が愛の象徴に拒絶される」
というシリアスな
恐怖を感じさせるシーンだった。
自分も子どもの頃から、今もだけど、
「自分は親の負担になっている、犠牲を払わせている」
という感覚があって、
たぶんほとんどの人もそうなんだけど、
みさえが冷たくネギを投げるシーンで、
しんのすけとひまわりは
「自分たちは親にとって、重荷だった、
親たちが義務や役割からの自由を選択したら、
自分たちは拒絶される存在だった」
という現実をある日突然、
突きつけられる。
これは本当に怖いシーンで、
今でもありありと思い出せるし、
その恐怖はまだある。
子どもたちは
「自分たちは本当は愛されてなかった、
負担として見られていた」
という深い拒絶を突きつけられて、
オトナたちの側は子どもたちや役割を拒絶して、
親と子どもの信頼関係に深い亀裂が入るところから、
映画が始まる。
だから、
映画の中盤から終盤にかけて、
しんのすけがひろしを目覚めさせてオトナに戻すことを通じて、
つまり子どもの側から、
オトナたちに歩み寄って赦しとか
助けを差し出して、
オトナたちが役割とか子どもたちを
再び受け入れる選択をする過程を通じて、
オトナと子どもの関係が修復されて、
家族が元通りになるんだけど、
ここまで深くてシリアスな恐怖に触れる
映画は、なかったというか、
実写で「子どもが拒絶される」
のをリアルに描いても、
ここまで怖くはならない気がする。
普段は明るいコメディの世界観で、
親子関係という家族の基盤は揺るがない、
平和な日常は変わらない、
という退屈ながら安心感のある
絶対に崩れない前提があるんだけど、
アニメだからこそ、
その前提が崩れて
一気に家族の日常が崩壊するという
落差が大きくて、
ギャグアニメだからこそ
日常と崩壊のギャップがすごくて、
日常の明るさ・暖かさと
「拒絶」の絶望感・冷たさのギャップがすごかった。
オトナ帝国の首謀者であるケンが、
つまり何をやりたいのか、
子どもの頃は見ていてよくわからなかった。
むしろ、オトナたちが童心に帰って遊べて、
心から楽しんで日常の束縛から解放されるわけだから、
家族を捨てないでいれば、
むしろオトナ帝国自体はいいことじゃないか?
とさえ感じてた。
今見ると、ケンの目的は
「現代社会そのものを崩壊させて、
昭和の時代に帰って、
ある種の理想郷を築く」
ことで、
革命に近い。
「オトナがいて、親とか働く社会人がいて、子どもがいる」という
社会の構造そのものに挑戦しているというか、
そもそもの根底の前提を覆そうとしていて、
それがクレヨンしんちゃんの世界観、
自由気ままなしんのすけが
束縛されたオトナたちをからかうという、
平和な日常の前提を崩壊させることに
メタ的につながっている。
政治家を狙ったりはしないし、
クーデターとかはやらないけど、
洗脳みたいな感じで
オトナたちを子どもに退行させるのは、
むしろ新興宗教みたいで、
その教義は「古き良き昭和こそ幸せ、子どもの頃は良かった、子どもの頃に帰りたい」
という懐古心で、
Yourubeのコメント欄でも
古いコンテンツの動画では、
そういうコメントはよく見る。
しかも怖いのは、
オトナたちを無理矢理洗脳して、
新しい思想を植え付けるわけではなくて、
「子どもたちを捨てて自由になりたい、
ストレスの多いオトナ・親という役割から
解放されて、
自由気ままだった子どもの頃に帰りたい」
という、
オトナたちの潜在的な願望につけ込むというか、
普段は抑圧されている願望に訴えて、
オトナたちの願望を叶える
理想郷を提示した、
というのが本当に新興宗教みたいで、
リアルな怖さがある。
ひろしやみさえ、オトナたちは、
「悪役に洗脳された、
無理矢理連れて行かれた」
のではなくて、
しんのすけたちを見捨てたくて
見捨てた、
オトナ帝国に行きたくて行った、
というのが今見るとわかるから、
そこが新興宗教と同じで、
つまり自分が依存する基盤が欲しくて
自ら洗脳されてしまうのと同じだから
すごく怖い。
そしてオトナ帝国に行ったひろしやみさえたちは、すごく楽しそうにはしゃぐ。
普段の親とかサラリーマンという
マスク、重荷を脱いで、
本当に心底楽しそうなんだけど、
自分の両親がテーマパークに行って
はしゃぐのと、
今思うと全く同じで、
これもちょっと怖い。
子どもの頃は、
ひろしやみさえがすごくはしゃいでいるシーンの意味はよくわからなかったけど、
今思うと、
現実のオトナの悲しさというか、
テーマパークに行かないと
自由を感じられなくなっているというか、
自分はテーマパークが楽しくなかったからわからなかったけど、
両親にとって、
テーマパークの意義は
「オトナが普段のしんどい
自分から解放されるのを
唯一、許される場所」
だったというのが
オトナ帝国を見て初めてわかった。
こんな感じで、
オトナ帝国は子どもからすると親を失うという非日常の恐怖を描いた映画で、
大人からすると、
子どもの頃の自由気ままさには
戻れない、みたいな日常生活に潜んでいる
悲しみとか、絶望感
家族を捨てて自由になりたい自分自身への恐怖、を上手く描いているから、
リアルな怖さがあって、
子どもの頃に見て感じる恐怖と、
大人になって感じる恐怖が違う二重構造になってるんだな、
みたいなことを
岡田斗司夫の動画を見ながら感じていた。