RYO
日常の世界観を覆す体験たち。
家で皿洗いしていると、 母や妹が、 「こうすればもっと早いじゃない? なんでしないの?」 と言ってくる。 自分はゆっくりひとつずつ洗うし、 泡がついた皿をシンクにためて後で水洗いするのではなく、 ひとつずつ洗う。 ためておくと、なんか狭くなるし、 でかい皿から選ぶのが面倒だし、 泡がついた皿をガチャガチャ重ねて積み木みたいにするのはどうにもストレスで、 やりたくない。 で、今までは、母や妹の言うことにも、 「時間や労力の効率がいい」という、 確かにもっともらしい正当さがあるよ
JACIMフォーラムにいたころ、 自己紹介をするページがあった。 そこでたぶん、50代くらいの男性が自己紹介をしていたんだけど、 その内容が、 「自分はこういう会社にいて、 こんな立場があって、 こんな仕事をしていた」 みたいなことなんだけど、 会社員です、でいいところを、 異様に長々と自分の社会的な地位や実績を書き連ねていて、 いかにも、 「俺にはこんな立場がある、肩書きがある」 と、アピール・マウントしている感じで、 かなり痛々しかった。 その、自分のポジションや実績で、
父が胸から下の麻痺になる少し前に、 自分が母から頼まれたゴミ出しをやらなかった時があった。 それが数回続いたので、 母は台所近くで「なんでなの?」と自分に理由を聞いた。 母は比較的穏やかな性格なのもあって、 自分は無防備にありのままの感情を話す気になり、 「ゴミ出しをやらされることについて、 低い立場、奴隷扱いされるように感じて、 辛かった。」 と言った。正直な気持ちだったし、 言いながら感情が溢れて、 自分でも意外なことに、泣き出してしまった。 自分としては、心を開いたつも
中学校とかが徒歩15分の場所にあるのもあって、 夕方の下校時間くらいに近所を散歩していると、 下校途中の中学生たちとすれ違ったりする。 こないだは男子中学生たちが、 川の中で遊んだりしていた。 例によって、ウェーイと叫びつつ、 ちょっと卑しい笑い声を川の外に響かせながら、石を投げて遊んでいた。 で、妙に自分はその集団陽キャ男子中学生たちが、集団で川の石を投げるという微妙に脅威を感じる遊びをしていたのもあって、 なんとも言えない緊張感というか 近くに行きたくないような、 避けた
自己嫌悪とか無価値感から、 何か役に立とうとか、手柄感とか、 気持ち良く感じられるナイスな自分でいたい、 みたいな欲求から動くのが起こる または、そのように感じられた時、 その状況や他人との関係から 何か気持ち良くなれるものを得ようとしている 自分を感じて、 その必死というか、卑しい感じに、 さらに自己嫌悪と無価値感が強化またはループされてるような感じがした。 具体的には普通のメールのやりとりなんだけど。 前の記事で書いたように、 冷たい苦痛な岩の中を通り抜けている感覚だった
映画『神の小屋』で、 主人公が娘の命を奪った犯人への気持ちを 感じていた時、 行き止まりみたいな山道の奥にある、 巨大な岩に近づいて、 岩にぶつかるみたいに顔から突っ込むと、 岩をすり抜ける、みたいなシーンがあった。 自分が誰かを傷つけた、とか、 攻撃的な態度を取った、みたいな記憶を 思い出す時、 自分の魂とか心の一部が真っ黒に染みついて、 その部分は決して取り返しがつかない、 絶対に揺り動かせない、 強固で絶対的な黒い絶望感、 みたいな感覚があって、 この絶対陥落しない無
自分の中で、 相手とのエネルギー関係の中で、 それに応じた感情が相手に出る、みたいなのがある。 例えば高校の時の、 比較的柔和で、ゆるい性格の男の友達に、 最後のHRが終わった後、 ねえ、と話しかけられた時、 自分は「あぁん!?」 と江戸っ子が怒ったような声を返した。 体感としては意識的に発したのではなくて、 自動的に、噴出した、という感じもあるけど、 実際は、こいつならいいや、と選んでいる 感じはたぶんあった。 我に帰って、理由を探って、学校生活での イライラみたいな感情が
ブラウザの自動翻訳もあります(一応)。 レジーナさんが2004年に祈りを捧げて、 それからコースをはじめたり、 不思議な体験だったり、 インスピレーションで本を書いたり、 顛末がかいつまんで書かれているページがあった。 レジーナさんは、当時デイビッドとカースティンが旅に出ている時、 デイビッドたちの非営利組織?の管理をガイダンスで任されていたり、 レジーナさんが聖霊から受け取った文章を デイビッドが当時のYahooのコース グループで紹介していたり、 デイビッドたちとも昔
「真理を与えることができるグルが少なすぎるのです」という質問者に答えて、 マハラジが 「グルの恩寵は常に差し出されているし、 与える準備は常にある。 受け取る準備ができている人の方が少ないのだ」 とあったけど、 確かに、 日常で感じる通奏低音のような、 微妙な退屈感とか欠乏感、 なんとも言えない気だるさとか不毛感とか、 寝起きの意気消沈したような気分のとき、 「すでに何かが足りない、 心を満たすものが与えられてない」 というか、 渇いた砂漠にいるような気分で、 「幸せがない
関西へのガイダンス旅行が終わった。 いろいろあったけど、 ひとつ気づいたのは、 旅行に行ったりいろいろあったこととか、 旅行に行く仲間がいるとか、 「アピールしたい」という気持ちが上がって来たこと。 見返したい、みたいな感じか。 自分がそれなりにうまくやっている、 みたいなことをわからせたいみたいな。 今思うと、やっぱり、 今すでに、ありのままの自分が 何か足りない、上手くいってない、 下のポジション、比較的に無価値、 みたいな感覚があって、 その感覚を、 「ガイダンス旅
リビングミラクルズで、 教師役の人がファンクションか何かで誰かに怒ったとかで、 その怒りを受けた人が、 「教師のくせに怒るのか!」 と怒った、という話があった。 自分も同じ裁きがあった。 教師とか、先輩とか、 アドバイスやサポートを与える立場の人は、 怒るべきではない、 なぜなら、 なんらかの権威というかパワーがあって、 こちらは信頼して、 無防備に心を開くわけだから、 その教師が怒ったら、 怒られた人は傷つく、 という。 親もそうだけど、 「パワーがある立場だから、 攻
かわいそうな人、惨めな存在、 分離した欠乏した存在、として見られることに 屈辱を感じる、みたいなのがあった。 この場合は孤独とか喜びをもたらすものがない、みたいな感じだった。 川上さんが中学生だった頃に お父さんが亡くなった時、 1番辛かったのは周りの大人たちから かわいそうな目で見られることだった、 と話していて、 コースでは偽り共感とあるけど、 確かにこれはある意味では 攻撃なのかもしれない。 自分が誰かをかわいそうな存在として見ることもあるけど、 無意識に、自分で
自分の思いつきというか発言で ガイダンス旅行先で瓦そばを作ろうかという流れになり、 山口県では瓦そばが家庭料理なんで、 母が作り方を実際に教えてくれることになった。 ずいぶん遅れた「お母さんといっしょ」である。 母はちょっと厳しい料理長みたいな感じになり、 キビキビと指示をくれるんだけど、 自分の中で、 何か、 気分がどんどん落ちていく感覚だった。 母が何度も何度も作ってくれていたにもかかわらず、 自分はそこから何も学んでなかったんだな、 とか、 ろくに作り方もわからない
「太ったね」と言われたら痛みを感じるけども、 体重を増やしたい力士だったら、 そう言われて嬉しいのかもしれない。 自分は男なんで身長がもうちょい欲しいけど、 身長が高い女性はコンプレックスと言うし、 やっぱり無意識に受け入れた思考というか価値観なのか。
前、祖母の家に親戚が集まった時、 祖母は自分について、 「豊かな家庭で育ったけぇ」 と言った。 つまり、 時代や家庭に甘やかされて育ったから、 働けない軟弱で弱い人間になった、 というニュアンスなんだけど、 これを祖母が言った時、 痛みを感じた。 祖母は他にも、 「男は泣いちゃいけん、 そんなんやからダメなんよ」 とも言ったけど、 その時も、 自分は強い痛みを感じた。 この痛みの感覚は、 状況のせいではなく、 自分の中にある無意識の罪悪感や信念が 原因なんだろうか? 祖
前回の記事とも内容がつながってるけど、 シェア会でも勉強会でも、 自分が話す時は、 必ずある程度、何を話すか、 頭を巡らせて考えておかないと、 いまだに落ち着かなかい。 「これとこれを話そう」と 計画しておかないと、 いざ話す時になって、 何も思い浮かばないで、 沈黙が流れるのが怖い。 なるほど、恐怖から計画していたんだな。 そのまんま何も話せなかったらどうしようとか、 結局その場で焦って考えたり思い出したりするなら、 あらかじめ考えていた方がいいと。 でも、デイビッド