トロッコ問題に学ぶ組織運営
ある人を助けるために他の人を犠牲にすることは許されるか?
トロッコ問題は、そんなことを問いかける。
「5人を救うために、1人を犠牲にするか」という構図だ。
組織運営にあたっては、しばしばこの場面に遭遇する。
まさに、今の僕がそうだ。
この問題に、正解はない。
結果、功利主義的に損失回避が選択され、犠牲が払われた。
少なくとも僕はそう感じている。
そのこと自体に、何ら異論はない。
仮に、僕に舵が与えられていれば同じ選択をしただろうし、組織運営においては賢明な判断だと思う。
トロッコ問題においては登場人物のあらゆる事情が排除され、故に犠牲の正当性のみを論じれば良かった。その意味で平易な問題だ。
一方、組織運営となれば話は別だ。
個々の事情は明確に反映され、事情の比較衡量が行われる。
そうして、皮肉にも「栄誉の贄」が選ばれる。
では、個々の事情はさておき、
この5人が悪人だったら。1人が悪人だったら。
おそらく、選択は覆るだろう。
功利主義だとか合理的選択とでも言っておけば聴こえは良いが、
結局のところ「ヒトの価値の総和」を測ったのだろう。
世の中、そんなもんだ。
ところで、このとき一番の被害者は誰であろうか。
「英雄として差し出された人」か。
否、間違いなく「舵を切った人」である。
手を加えなければ「不慮の事故」として処理できるにも拘らず、組織のために手を加えて「犠牲者を選別」することの責任を背負うのだ。
好き勝手にガヤを飛ばす民衆を横目に、こんなに辛いことはない。
と、僕は必死に折り合いをつけようとしているのかもしれない。
自分よりも辛い立場の人がいる。だから自分は幸せだ。
僕の好きな曲にこんな一節がある。
「自分より下手くそな人 探して浸るの優越感」
「下を見て強くなれるのも また人だからさ」
人間として優れない僕が人間として生きていくためには、この歌詞が必要だった。
だから、栄誉の贄として差し出されるよりも、栄誉の贄を差し出すことの方が辛いのだと。そう自身に言い聞かせていないと自分を保てない。
人工知能、AI。
ヒトが処理できないほどのビッグデータを元に、合理を選択する。
当然に犠牲が伴い、ムダは排除される。
もしかしたら、本来あるべき「自然淘汰」なのかもしれない。
切り離せない感情を持たないAIには、それが出来る。
組織運営においては、時として先のような冷徹な判断が求められる。
だから、早くAIが浸透してしまえばいい。
(とりわけ消極的な選択について)選別者の感情を想起することができる状況は、被選別者にとっては不幸だから。
ある事情を肯定することは、ある事情を肯定しないことになるし、
ある事情を採用することは、ある事情を採用しないことになる。
何かを優先した際、同時に、相対的に劣後とされた何かがある。
2つ以上の感情が交錯するコミュニケーションでは、このリスクは意外と大きい。
ましてや組織ともなれば、リスクは当然に肥大化する。
イジリは信頼関係があるから成立するのであって、信頼関係のないイジリはイジメである。
ある作家が、語った言葉だ。
表向きがマイナスの事情を相手に与える際、関係者の信頼関係が揃って初めて、イジリだとか、叱咤激励だとかに変換される。
あまり良くない例えかもしれないが、戦後間際の日本。
片道分の燃料を積んだ飛行機に人を乗せて戦場に出向いた過去がある。
あれは「日本が勝つ」という国家と軍とその家族、国民全員の共通認識、すなわち信頼関係があったからこそ「神風」と誇り高き名が与えられたのだろう。
そこに信頼関係がなければ、単なる自殺行為にしか見えない。
後世において、「神風」に批判的な意見が目立つのは、当時とは異なり
「戦争に勝つために」という共通認識を持てないことが、一因だろう。
考えてみれば、トロッコ問題は神風と似ている。
戦争に勝って国を守るために、危険を顧みず戦地に飛び込む。
5人を救うために、やむを得ず1人の犠牲を差し出す。
組織運営は信頼関係の集大成である。
ここから先は
¥ 500
無料でお悩み相談対応させていただきます。 コメント、DM等でご連絡くださいませ◎