#旅する日本語 とnote1周年のこと
旅する日本語コンテストのお題を見ていると、20代の後半にふらふらと海外を旅していた頃の情景や想いが、ぶわっと蘇ってきた。
当時も日記やブログは書いていたけれど、日記はほぼ事実と感情の羅列だったし、ブログは知り合いに読まれることを意識しすぎて表面を撫でているだけのものだった。
帰国してからは、会う人会う人に「どうだった?」と訊かれたりもした。
だけど漠然としたその質問を前に、五感をフル稼働だった日々の膨大な蓄積のなかから、なにを引っ張ってきたらいいのか分からず、曖昧に濁してばかりいた記憶がある。
「お話会」や「写真展」を開催する旅仲間もちらほらいる中、わたしはそういうものには一切興味を持てなかった。
だけど、小骨のようなものがつっかかっている感覚が、ずっとどこかにあった。
『自分の中で感じたことを、言葉にすることなく抱え続けてきたこと』がその引っ掛かりの原因なんじゃないかーnoteを書くようになった今、ようやくそう思い至った。
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実はこのところ、noteを書くのに随分と腰が引けていた。
おそらくそれは、noteやTwitterで仲良くしてくれている方たちが素敵な人柄が滲み出る、読む人に響くような文章をどんどん書いているのを、側で見ていたからなのだろう。
隣の芝生は青々と茂って輝いていて、自分の雑草は随分とみすぼらしく見えた。
文章がうまい要素を持ち合わせているわけではないし、たいした努力もしていない、比べてもしょうがないということはわかっている。
まあでも、感じてしまうんだからしょうがない。
だからこそ書く練習だと思って深く考え過ぎずに、サクッと400字を書いてみるのはいんじゃないか。
ちょうど1周年を迎えるタイミングだったし、一度やってみたいと思っていた「毎日投稿」を宣言して自分を追い込むのもいいかもしれない。
それが、今回の連続投稿に挑戦した理由だ。
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毎日書いているうちに、原点を思い出した。
わたしがnoteを始めたのは、自分の内面と向き合ってアウトプットすることで、自分の中の棚卸をして本当に大事にしていることを見極めることだった。
#note関西meetup のグループディスカッションのとき、同じテーブルだった毎日投稿組のillyさんや高嶋イチコさんが(実際の言葉とは違うかもしれないけれど)仰っていたこともずっと残っている。
「続けることで、思っていることが言葉として出てくるようになった」
自分の中の軸を知ること、それを自分の言葉として発せること。
わたしが目標にしているのはまさに、そこだったんだと思う。
ハネサエ.さんに初めてお会いしたときにもらった「仕事と関係ないのにnoteを続けられるモチベーションはなに?」という質問の答えも、ようやく見つけられた。
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そんな訳で #旅する日本語 で投稿した作品は、内向きに書いている。
言うならば、これ以上記憶が風化する前に書き残した『未来の自分への手紙』のようなものだ。
だから読まれなくても、スキがつかなくても気にせず書き続けようということだけは最初に決めていた。
それでも確実に読んでくださる方がいることが本当に嬉しかったし(マジでみんなやさしい)、この1年間のわたしの軌跡なのだと思った。
ちゃんと続けてきた証がここにあって、それは2年目に踏みだす勇気をくれた。
でもせっかく続けるのだから、自分だけが満足するためのものじゃなくて、読んでくださる方になにかを届けられるようなものも書きたい。
昨日のillyさんのnoteを読んでいて、今までは矢印を自分に向けて書きながらも、人に届けたいという想いだけが先走りしていたんだと腑に落ちた。
だから2年目は、書くテーマによっては外向きに矢印を向けて書く、ということも意識してみたい。
この1年で出逢えた方にありがとうと、これからもよろしくね、を。
雑草だからね。これからもくさらずもりもり書くよ。
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最後に、#旅する日本語 で書いたものを。
それぞれのテーマで思い出したエピソードを自分が辿った旅路の順番に並べ、組み写真ならぬ組みエッセイのようなつもりで書いたので、単品で読むと「ん?」と思われたところがあったかも。
400字に書きたいことを詰め込むのは難しかったけれど、書きたいことを書けてすっごい楽しかった。
よければトップ画像の気になるやつなど、おひとつどうぞ。
#途立つ (みちたつ)
#大童 (おおわらわ)
#心安 (うらやす)
#六月柿 (ろくがつかき)
#致景 (ちけい)
#涼み客 (すずみきゃく)
#万福 (まんぷく)
#和喣 (わく)
#心細し (うらぐわし)
#麗らか (うららか)
#追懐 (ついかい)