2024年、正月について思うこと
2024年が始まった。
昨年末の忙しさも一段落し、紅白歌合戦をのんびりと見ながら年を越したのは何年振りだっただろうか。
これまでの人生の中で1mmたりとも心が動かなかった「津軽海峡・冬景色」に(演歌も悪くないねぇ)と感じてしまった自分に対し少々困惑した。
きっと年齢を重ねるというのはこういうことなんだろう。
演歌特有の音階は、どうやら僕のDNAにも刻み込まれていたようだ。
とにもかくにも、例年よりも平穏な気持ちで新年を迎えることが出来た。
演歌に心を動かされるくらいに成長した割には、いまだに「何がめでたいのか」を芯の部分で理解しきれていないのが残念だが、元日、3歳の娘にとりあえず「あけましておめでとう」を教え込む。
「なにがおめでとうなの?お誕生日?」と聞かれたので、「おめでたい日なのよ、お正月は」と誤魔化した。
きっと、これが負の連鎖というやつなのだろう。
『昔は誕生日ではなく、正月になった時点でみんなが等しく年を取る「数え年」という文化が…』という噛み砕いた説明を3歳児にも分かるよう、さらに噛み砕く努力を人類が放棄してきた結果、僕のような偏屈おじさんが発生してしまったのだろう。
人類の諸先輩方には大いに反省して頂きたい。
僕は悪くない。
だらだらとテレビを観て過ごし、そろそろ夕食の準備でも、と思ったのが16時頃。
スマホから大音量で緊急事態を知らせる音が鳴り、しばらくすると、かつて僕も当事者として経験したような映像がテレビに映し出され続ける。
翌日、それを支援しようと飛び立とうする人たちが悲しい事故の犠牲になる。
何という正月なんだろう。
正月じゃなければよいというわけではないが、それにしたってこんなのはあんまりだろう。
13年前の3月11日、僕は今と変わらず仙台に住んでいた。
僕自身の被災というのは決して大きなものとは言えないが、数々の「思うこと」はあった。
直接的な親戚、友人、知り合いが命を落としたり大怪我を負うことはなかったものの、海沿いにあった祖父母の家が跡形もなくなってしまったり、思い入れのある場所が不本意な形で姿を変えていくことは、想像以上に耐えがたいものだった。
ニュースでは、見ず知らずの人々とはいえ同じ地域で暮らす人たちが、ある瞬間を境に何十、何百、何千、という「数字」で表現、報告されていく。
そういったことにとてつもない恐怖を覚えたし、何か一つタイミングや行動が違えば自分がその中に入っていても一切不思議ではなかったということに、言語化出来ない感情を持った。
今回の災害に対していま思うことは、一人でも多くの人が無事でいて欲しいということ。
先に「同じ地域で暮らす人たち」という表現をしたが、結局のところ地域という括りなど無い。
今回辛い思いをしているのは同じ国に住む、同じ言葉を話す人たちだ。
仮にこれが外国のことであっても、同じ地球上の、同じ人間という捉え方に変わるだけ。
やはり、「知らない人だしどうでも良い」ということにはならない。
「○○すべき、××はすべきではない」「緊急時にはこんな方法が」などということを僕がnote含めSNSで発信するつもりはない。
有用な場合だって多くあるが、他方、解釈する人の数だけ正解不正解があるようなことで、自己顕示欲の塊たちが安全な場所でスマホを充電しながら場外乱闘のようなことをしている。
辟易してしまう。
一体そのやりとりが、今まさに困っている彼らの、何の役に立つのか。
人を不快にする分、煮ても焼いても食えない千羽鶴よりもタチが悪い。
そんなにヒマなら、面白半分で悪意のあるデマを製造するやつらの一匹でもいいから駆逐して来い。
政府の初動がどうの、これだから現政権は、などもアホらしい。
とりあえず今この瞬間必死にやっている人たちの邪魔をしないで頂きたい。
仮に偽善だろうがウラがあろうが、少しでも役に立つのなら何だっていい。
好き嫌いを含めた批判合戦は、あとでも出来る。
足の引っ張り合いも、あとでいい。
一切黙ってろとまでは言わないが、とにかく邪魔だけはするな。
言うに事欠いて「この一連の災害や事故は実は陰謀で、地震は不祥事を隠して他に目を向けるために政府が起こした人口地震で…」などという論調も少なからず目にするが…
うるせえ。
ファミレスかどこかでやってろ。
当事者が見たらどう思うか。
あと、「人口」じゃなくて「人工」な。
一番大事な部分で誤字ってるやつが陰謀論語ってんじゃねぇ。
五千万歩譲って人工地震があったとして、起こし方を知っているのなら阻止する方法もあわせて考えて頂きたい。
…というようなことを、人によっては思うだろうな。
きっと、そんな風に感じる人だっているだろうな。
僕は平和主義者なのでそのような荒っぽい感情は持っていないけども。
嘘です。
僕の意見です。
とにかく、頑張っている人の邪魔だけはしてはならない。
被災地は心配だが、自分の生活や仕事をきちんと続けていくことだって大事だ。
多分こんな記事を書いた後だって、僕は今日の夕飯の準備のことを考えるし、楽しみにしている来週の飲み会に思いを馳せて予約だってする。
昼食には天下一品で温かいラーメンも食べた。
食後に一服もしたし、夜はビールだって飲む。
そうやって、普通の生活を普通に送る。
「普通って素晴らしい」などと感傷に浸ることすらもなく。
きちんと自分の生活を維持し、働いて賃金を得て、当該地域にとって有用なお金の使い方を出来るならば、それだってきっと支援の一つだろう。
いま素人が現地に赴くことの是非も判断しかねるし、そういった行動力や時間は僕にはない。
僕は募金という形でこの災害に向き合おうと思う。
何百万、何千万という寄付をしている著名人に比べれば雀の涙ほどの…いや、雀の涙が蒸発した時に発生する水蒸気が再び凝集し液体に戻った時の一滴にも満たないレベルだろうが、必要とする人が必要な用途に使ってもらえるよう、しかるべきところ(と、自分が判断した団体)に募金をした。
あとは今後意識的に、北陸・石川県産の物を購入しようと思う。
地場の産業が生き長らえることが、今後の復興の必須要件でもあるからだ。
こんなこと、別に偉そうに書くほどの事でもないし誇るべきことでもないが、たった一人でも「じゃあ自分も」となる人がいるならば、少しくらい書いたっていいだろう。
そして、いわゆる「無駄な自粛」みたいなこともしない。
年明け、SNS上で普段通りに振る舞うことに少々迷うところはあったが、自粛したところで当事者たちが喜ぶわけではないと僕は考えている。
13年前の当時、震災とは関係ない「普通の話題」を見聞きし、「こっちはこんなに苦労しているのに!」といった感情は特に無かったし、むしろ過剰な自粛ムードに対して東北在住の人間として心苦しさにも似た気持ちを持ったのも確かだ。
賛否両論あろうが、僕はそうする。
どうでもいい内容をXにポストするし、noteの記事だって今まで通りにたくさん書…いや、noteに関しては書くことがある時にだけ細々と…。
もしも、大変な地域でこれを読んでおられる方がいらっしゃれば。
僕は十数年前、福井県に住んでいました。
仕事が休みの日には石川県に遊びに行き、金沢市の「第七ギョーザの店」でホワイト餃子の洗礼も受けたし、兼六園も堪能しました。
とても好きな場所であり愛着もあるので、北陸の人々が厳しい状況になっていることは、やはり他人事とは思えません。
どうかご無事で、少しでも安全に過ごされることを切に願っています。
一日も早く心穏やかに暮らせる日が来ますように。
そんなわけで。
改めまして、明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
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