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2020年8月28日

コロナ禍が始まる数ヶ月前から入院している患者が,まもなく最期を迎える.
彼女には近くに住む娘と,遠く関東に住む息子がいる.
娘は面会制限の規則を遵守しながら会いに来る一方で,息子は県外者の面会が禁じられてから数ヶ月間会えていない.

まもなく最期を迎えるであろう一報を聞き,息子は会えないとわかっていても居ても立ってもいられず,当地へ来てしまった.
当地では,県境を越えて14日間は「汚物」のように穢れの対象となるのだが,禊の14日間が過ぎると,キレイな県内の人と認定される.

しかし,患者の命はもはや14日間も保ちそうもない.

「汚物」と見做される息子が県境を越えて来ていることが病棟スタッフの知るところとなり,あろうことか,娘に対しても,「息子と接触したら,娘も面会を許可しない」と申し渡した.当病棟は,息子の禊明けを共に待つのではなく,娘に対してまでも制裁を科した.
息子はホテルへ幽閉された.

今にも止まりそうな呼吸を見ながら,私は院内感染管理責任者と交渉して,息子を迎え入れる許可を得た.
私を白眼視する病棟スタッフに対して,私は自らも「汚物」となると宣言し,スタッフは「汚物」に一切接触しなくてよいと申し渡した.

息子を部屋に迎え入れ,私はそっと部屋を出た.呼びかけにうっすら目を開けるような状況の中,病室の扉の向こうからは嗚咽の声が聞こえてきた.
この数カ月間,患者がここでどう生きてきたかを,壁一面に貼られている,かつて共に過ごしたボランティアとの写真を彼に示しながら説明した.もちろん,そのボランティアたちはもうここには居ない.きっと,彼らが戻ってくることはないだろう.

一度きりの最期の面会を終えて,肩を振るわせ涙をこらえる彼から感謝の言葉を頂いたが,それは見当違いだ.むしろ,面会を制限するわれわれが土下座をして彼に謝るべきなのだ.
私はただ頷くしかできなかった.

彼を見送った後に病室へ戻ると,枕元には数十人の孫・ひ孫からの寄せ書きが添えられていた.

スタッフの間では「非常識な息子」に対する侮蔑の言葉,暴挙に及んだ私に対する冷ややかな言葉が飛び交っていた.

もう,彼らにいかなる感情も湧いてこない.
もう,私の視界に彼らはいない.
もう,私の意識に彼らが上ることはない.

署名入りの文書で,コロナ禍が終息するまでは,スタッフとの回診を自粛する旨の通知を突きつけた.
カンファレンスで私は瞑目し,一言も発する事はない.

今すぐにでも心の僻地を捨てて出ていきたいのだが,悲しいかな,当地とは職場以外で多くのつながりができてしまったために身動きが取れない状況である.
さて,どうしたものか・・・

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