2020年6月17日
ホスピスではゆったりとした時間が流れる中,自分は症状だけにしか目を向けなくなっていた.
痛み,呼吸困難,せん妄・・・
朝昼のカンファレンスでも,私の口からは薬の話だけ.オピオイドの話,眠剤や抗精神病薬の話,鎮静の話.
「〇〇さん,自宅に帰りたいと行っています」
「そうですか・・・」(こんな時期に無理でしょう.そういえば家族の顔も思い浮かばないな)
「△△さん,ここに来てから全然良くならないって言っています」
「そうですか・・・」(△△さんの病状認識はどうだったっけ・・・そういえば,訊いていないな)
「☓☓さん,もう生きているのがつらいと・・・」
「そうですか・・・」(入院してから何も話していないな)
このような事態になってから,患者・家族とじっくりと話すことがなくなった.
外来でも「ソーシャルディスタンス」という名のもとに,あらかじめ数メートル先に椅子が据え付けられている.外来に来られる家族も2人までに制限された.余計なセリフや間は置かず,最低限必要な情報を聴取するだけ.家族が高齢の場合には,ほとんど意思の疎通が図れず,何も話せぬまま予約だけして帰っていただくこともある.
病棟の見学も禁じられているから,ホスピスのイメージも持てないまま,家族は帰っていく.互いにマスクをし,正対を避け,目を見て話すこともない.
そこに心の交流はない.顔も見ていないから,その人を覚えられない.
そして,面会制限の話,「家族のうち,二人以外とは入院したら生きて会えない」など言われるものだから,主治医である私のイメージも碌なものではないだろう.
患者が入院してきても,表情を隠すマスク越しの会話は続かない.マスク越しでは,大切なスキルである「表情の変化」や「沈黙」が効果を示さないことに気づいた.
「困ったことはありますか?痛みはありますか?」
「とくにありません」
「そうですか・・・・じゃあ」
と,表面を撫でるような形だけの診察をして病室を去る.型通りの処方をして,患者は話すこともなくなり,静かに死んでいく.
数年前に熱心に身につけようとしていた緩和ケアのスキルは「三密」そのものだ.日常の生活で「避三密」の立ち居振る舞いを身につけてしまい,自ずと緩和ケアのスキルは封じられる.
次第に患者への興味も持てなくなり,患者も自分に興味がない医療者に心を開こうとはしない.モタモタしているうちに癌は一気に患者を奪い去っていく.
かつては,入院日に死んだ患者とすら,入院の瞬間に,あるいは入院前の家族との話だけから「すでに」心を通い合い,その死を悼み,己のケアを振り返っていた.しかし,今では患者の名前と顔も一致せず,職業や趣味などの背景情報も把握せず,たとえ1ヶ月以上入院していても,天気の話くらいしかすることはない.下手すれば,亡くなり退院したことすら気づかないこともある.
家族もボランティアも訪れない病室には,看護師が1日数回のケアを行いに訪室するだけだ.静かな個室に独り,ただ横たわりながら,弱っていく.
まさに死を待つだけの場.
こんなものは自分の知っている緩和ケアではない.さっさとホスピスの看板を下ろしたほうが良いと思う.