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2020年5月13日

悪疫の影響で,個人的な生活の満足度は高くなっているが,ナリワイについては,マズい方向へ流れている.

私のナリワイは,最期までの「美しき流れ」を整えることだと思っている.
外来で初対面の(患者と)家族に出会った瞬間に,相手の間合いに飛び込んで信頼を獲得し,関係性を築くことが業務上のMustである.ことばだけでなく,表情や佇まい,醸し出す雰囲気も「武器」であり,その妨げにしかならないマスクを悪疫以前は忌避していた.かつて属していた診療科ではあり得ない程の長い時間を対話に充て,相手の話をよく聴いていた(はず).
入院したその日に亡くなることも珍しくない現場では,入院前に信頼関係を構築しておくことがテクニカルに求められるのだ.

悪疫以前は,苦悩している患者家族を積極的に迎え入れ,最期のひとときをここで生き切ってもらいたいと心から願っていた.来院したほぼ全ての方が入院を希望してくれていた.
しかし,今は,病院へ「収容」することで,患者と家族を引き離すことへの後ろめたさを懐き,自宅へ戻れる選択肢が僅かでもあれば,半ば強引にそちらへ誘導するようになった.「来てほしくない」という忌避の心の声は伝わるようで,話しながら,マスクで隠れた相手の表情には安堵でなく,不安が湧いてくるのを感じる.

「常に己が感染源であると思え」という生き方はあらゆる怖れにつながる.密を伴う診察は最小限とし,「その瞬間」に「医学的には」必須でないような聴診や触診も差し控えるようになった.耳元に近づいて他愛ない世間話もすることも憚られ,日々,患者と接する時間もかなり短くなった.

家族の面会が禁止となってしばらく経つと,スタッフと面会について議論することもなくなった.当初は面会制限について口論となることもあったが,そのような「信念対立」に疲れ,諦め,ともに考えることも避けるようになった.担当看護師と患者について,密に情報を共有することも少なくなった.

悪疫は「ケアの無力化」を引き起こしているのだ.

空き時間が増え,三密を避ける名目で,私は誰もいない静かな会議室の端で,ひとり本を読むようになった.

看取りの主役は患者本人から家族にバトンタッチされていく.そして,そのバトンはわれわれが中継する.今,私がそのバトンを受け取っても,渡す相手がいないのだ.
ベッドに横たわり虚ろな目で,「家族に会えないのは仕方がないね・・・」と言う患者.
最上階の病棟の窓から,駐車場にいる家族とテレパシーで会話をしている患者.
ホスピスにおいて,医療者は患者と家族を繋ぐ大切な役割を果たしてきたが,現在は反対に引き離す悪役になっている.

病院の受付に家族が差し入れや着替えを持ってくると病棟に連絡が入る.最も暇な私は,患者から洗濯物を受け取りながら,家族への言伝を承る.受付へ降り,荷物の受け渡しをしながら,病状を説明し,患者の言葉を家族に伝える.
家族も「会いたいけれど仕方ないね・・・」と半ば諦めている.
私自身は,ウイルスも運べる伝書鳩のように,患者にも家族にも会っているのに,どうして彼らを引き会わせられないのだろうか・・・決まりに盲従し,馬鹿げたことを私はしている. 
人生最期のかけがえのないひとときに,彼らを引き離しているのは私自身なのだ.

家族を見送り,エレベーターで病棟へ戻る.院外に出たであろう家族は天を仰ぎ,病棟の窓の一つを凝視し,患者とテレパシーで話し合っているのだろう.
こんなことがいつまで続くのか・・・と思いながら,狭い空間でひとり立ち尽くす.

写真は,欧州への逃避行.Chamonixの町並み.背景はMontblanc山群.

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